後編
どれぐらいの間、森の中を駆けていたんだろう。緑だけの世界はなくなっていて、絵本でも見たことのない世界に出ていた。
縦に長い草のようなものが生えている広い水面を、あたしのお家より小さな家が囲んでいる。何だろう?
「何してんだ、こんなとこで」
知らない声がした。
多分男の人なんだと思った。あたしはお父様以外の男の人を見たことがないから、はっきり判断はつかなかったけれど。
髪の毛は黒かった。お父様の髪は時々おやつの時間に食べるチョコレートみたいな色なのに。
「あんた、どこから来たんだ?」
「向こうよ」
男の人は驚いたように目をぱちくりさせる。
「あの森は確か……」
「何?」
「――おい、あんた」
男の人があたしの腕を掴む。真っ黒な目が覗き込んでくる。
「キヌコ……」
「えっ?」
「やっぱり、そうだ。キヌコだ。髪の色を黒にすれば絶対そうだ。似てるなんてもんじゃねえ」
男の人の指があたしの髪に触れる。
何を言ってるんだろう。
「あんたのことだよ。名前だ」
「名前ですって? やめてよ、あたしはそんな名前じゃない! あたしはエマよ!」
そんな、おとぎ話の怪物みたいな名前であたしのことを呼ばないで。
「エマ?」
「そうよ。お父様がつけてくれた名前がちゃんとあるんだから!」
男の人の手を振り解いて、あたしは元来た森の中へと駆け込む。
一度だけ振り返ると、こっちを呆然と見ている男の人の立ち姿が見えた。
「お嬢様!」
屋敷に戻ると、青い顔をしたジョアンヌが待っていた。
「どこにもいないから探したんですよ。外に出られたんですか」
「ごめんなさい! お父様には言わないで」
手を合わせてお願いする。
「……わかりました。仕方がないですね」
ジョアンヌは秘密を守ってくれた。夕食の席でもお父様からは何も言われなかった。
その夜はよく眠れなかった。オルゴールとお父様の声を聴いてもあたしの目は冴えたままで、もう寝たと思いこんだお父様が部屋を出て行くまで、寝たふりをしているのに精いっぱいだった。
玄関の両面開きの棚にちゃんと靴はあった。歩くとかかとの部分からコツコツと音がする茶色い靴はきっとジョアンヌのもの。
パンくずを落とさなくても、道はちゃんと覚えていた。
昨日と同じ場所にその人はいた。足音を聞きつけて振り向いた顔が、目を見開く。
「――エマ、だっけ。昨日は悪かったな」
その人はヤスケと名乗った。キヌコと同じように耳慣れない名前。
「これ、昨日の詫びだ」
地面に座り込んだヤスケは、あたしの掌ぐらいのものをくれた。紙に包まれた中身を開けると、レンガ色の丸い何かが二つ。
「知ってるか?」
見当もつかなかった。
「炊いた米をくっつけて、しょうゆを塗って焼くんだ」
「せんべい」という食べ物らしい。
「ふうん。せんべい、ね……。せんべい」
知らない言葉のはずなのに、頭の中に引っかかるのは言葉が面白いからかしら。
「良かったら食えよ、ここ座っていいから」
ヤスケが地面に敷いた長いハンカチーフのような布の上に座らせてもらう。外の世界の地面はごつごつしていて、長くは座っていられなさそうだった。
「――なあに、これ。おいしい」
試しに齧ってみたせんべいは、ジョアンヌが作るクッキーやビスケットより硬かった。塩辛くて、甘くて不思議な味。だけど嫌いじゃない、一枚をあっという間に食べ終わってしまう。
「うまいに決まってるだろ? 俺のばあちゃんが作ったんだからな」
ヤスケは得意げに鼻を鳴らし、笑う。
あなたも食べる? ともう一枚を差し出すと、いい、とヤスケは首を振った。
「俺はいっつも、食ってるから。それに、あんたがうまそうに食ってるの見る方が良い」
最後はどういうことなのかよくわからなかった。
「キヌコもせんべいが好きだったな。俺の家来るたびに食ってた」
二枚目のせんべいを噛む口が止まる。
キヌコ。あたしに似ているらしい人。
「そのキヌコって誰なの?」
ヤスケはため息をついた。
「……子どもの時からよく遊んでた子だよ。俺より三つぐらい下だった。十年も前かな、俺といつも通り遊んだ日に急にいなくなった。夜、キヌコんとこの親父とお袋が『キヌコが帰ってこない、神隠しだ』って日が暮れた後、村の長のケンさんのとこに駆け付けたんだ」
「かみかくし?」
「ここいらじゃ誰かいなくなったら、神様にさらわれた、神隠しだって言うんだ。あんたが住んでるって言ってたあの森はちょうど子供を攫う神がいるって言われてるから、大騒ぎだった」
「神って何のこと?」
「俺もよくわからねえ。でも、あまり関わっちゃいけないようなやつのことを言うんだろうな」
精霊みたいなものかしら。
「神隠しは、消えたやつが見つかるまで『返せ、返せ』って言いながら、村全体と周りを探し回らなくちゃいけねえんだ。その日のうちに見つからなかったらもう二度とそいつは帰ってこれねえって言われてるからな」
二度と帰ってこられない、という響きに背筋がぞくりとした。
「俺もまだ餓鬼だったけど、寝ないで大人と一緒に探し回った。夜だから奥までは入れなかったけど、森も探したよ。だけど、結局見つからなかった。そのひと月後にもう一人いなくなった。チヨっていう、俺と同い年の娘さ。キヌコのことを『キヌちゃん』って呼んで、妹みたいにかわいがってたな」
チヨは、家の近くの井戸で洗濯をしている最中にいなくなったのだという。
「あれから何年も経ってるけど、わかるんだよ。キヌコが、あいつが成長したらあんたみたいな顔になるのかもしれねえって」
ヤスケによると、あたしの横顔は特にキヌコとそっくりらしい。
「そう。でも悪いけど、きっと似てるだけだわ。あたしはエマだもの」
「だけど、せんべいうまかったんだろ?」
「それがどうかしたの?」
「――キヌコとチヨがいなくなる少し前にさ、男が来たんだ」
ヤスケの声が一段低くなる。
「髪は茶色で鼻も高くて、いつも洋服を着てた。そいつがどこに住んでたかは誰も知らねえ。でも、ときどき村のどこかに現れるんだ。そのたび『舶来の人間だ』って村の大人は声ひそめて、指差してたよ。そいつがこの辺の道を歩いてるところを村の人間がよく見かけてた。森の中に入っていったとか」
意味ありげに森の奥を見つめるヤスケ。
――どうしてヤスケはこんな話をあたしに聞かせるのかしら。
「そのうち、変なことが起こった。タダシさんていう男が薪を手に帰ろうと歩いてたら途中で気を失った。気がつけば道の真ん中に寝ちまっていて、持ってたはずの薪は全部なくなってたんだと」
「どういうこと?」
わからねえ、と首を振るヤスケ。
「目が覚めたあとのタダシさんは『眠っちまう前に、よそものの男に話しかけられた気がする』とも言ってた。……西洋にはさ、人を思うように操る秘術があるらしいな。タダシさんはその男にそれをかけられたんじゃないかって今でも言われてる。それからなんだよ、キヌコがいなくなったのは。……なあ、エマ」
ヤスケの視線が刺さる。
「――あんたは今誰と住んでるんだ? 一人ではないよな?」
彼の言いたいことが少しずつわかってきた。でも、きっとそれは違う。そんなわけがない。
「俺はさ、もしかしたら、舶来の男が……」
「やめて」
耳鳴りがする。きいいん、と。
「――キヌコの好物をあたしがおいしく食べられたのはただの偶然よ。あたしはキヌコじゃない」
「そこまで言うなら仕方ねえ。だけどさ」
ヤスケはあたしの震える両手を大きな手で包み込んだ。
「一つだけ、俺の頼みを聞いてくれないか?」
今日もジョアンヌは心配そうな顔であたしの帰りを待っていた。
「……また、お外に向かわれたんですね」
「ごめんなさい。明日は行かないわ」
「ご主人様には黙っておきますが、教えてください。こんなに長い時間、何をしてらっしゃるんですか?」
まさか、ヤスケに会っているなんて口が裂けても言えるはずがない。
「け、景色を眺めてるの、それだけよ。大丈夫、心配しないで。――どうしたの?」
ジョアンヌの顔を見てぎょっとする。
飛び出さんばかりに目を大きく開けてあたしを見つめていた。
「……ちゃん」
「えっ?」
「キヌちゃん」
それだけ呟いて、ううっ、と苦しそうな声とともにしゃがみこむジョアンヌ。背中をさすってあげると、小刻みに震えていた。
「大丈夫? 少し休んだ方がいいわ」
ジョアンヌはしばらく無言で、時計の長い針が三週してからゆっくりと立ち上がった。
「……そうですね、少し休んできます」
ふらつく足で食堂へと歩いていくジョアンヌ。彼女の口からさっき「キヌちゃん」と聞こえたのは聞き間違いだったのかしら。
夜が来ていつものハーブティーを飲む。偽物の小鳥たちがさえずる「トロイメライ」のオルゴール。
「この曲、なんだか怖いわ」
どうして、あたしはそんなこと言ってしまったんだろう。
お父様は当然ショックを受けたような顔をした。
「そうなのかい? 昨日まではそんなこと言っていなかったじゃないか」
「……でも、怖いの」
途中でメロディーが暗くなるからかしら。
「じゃあ、今日は聴くのはやめにしようか。お前が怖い夢を見るといけないからね」
その代わりお父様はお話を読んでくれた。魔女が住む塔に閉じ込められた髪の長い「ラプンツェル」の話。彼女が魔女に髪を切られるところから先は覚えていない。
次の日の朝はなぜかジョアンヌの代わりにお父様があたしを起こしに来た。
「ジョアンヌは体調が悪くて休んでいるんだ。だから、私が帰ってくるまでエマには一人でいてもらうことになるが、いい子にしていられるかい?」
わかったわ、と頷くとお父様はにっこり笑ってあたしの頭を撫でた。
「ご飯は作っておいたから、それを食べるんだよ」
そう言い残してお父様はお仕事のために出て行った。具合が悪いそうだけど、ジョアンヌは大丈夫かしら。
「ねえ、エマ。今日も森の外へ行くんでしょう?」
「僕たちは連れて行ってくれないんだね」
部屋を出ようとするとロッピィとティムが駆け寄ってくる。
「ごめんなさい。会わなきゃいけない人がいて、一人で会いたいの」
「わかってるわよ。――でも、ヤスケはあなたのことを助けられるかしらね」
身体から温もりがさっと引いていくのを感じた。
――村の人にあんたの顔を見せたい。俺の村に来てくれないか?
――家は森の奥なんだろ? 大丈夫、俺はそこまで行ける。
――だから、明日待っていてくれ。約束だ。
確かにヤスケと約束をした。そして、あたしはこうして彼が来るのを待っている。でも、そんなこと誰にも教えてない。
「知ってるわよ、それぐらい。まさか私たちが何も知らないと思ってたの? 馬鹿ねえ」
聞いたことのない冷たいロッピィの声があたしを嘲る。
「そうだよ、僕たちは君のことなあんでも知ってるんだ。神隠しに遭ったキヌコに似てるからっていうだけで、村の人に顔を見せに行くんだよね?」
「口では『キヌコじゃない』なんて言っておきながらあの男のことを待っているのは、本当は少しずつ思い出しているからなのよねえ? 自分がキヌコじゃないかって」
「違う、そうじゃないわ」
二人とも何を言っているの?
「無駄なあがきなんだからやめておきなよ、エマ」
ひひひ、と笑うティムの口は頭の上の耳につきそうなぐらい裂けて、鋭い牙も生えていた。
「所詮、あなたはあたしたちと同じ、ただのお人形なのよ? どこにも行けやしないのに」
あっはっはっは、とロッピィが魔女のおばあさんのようなしゃがれた声で笑う。
部屋は静かになった。嫌な声で笑う二人を、あたしがテーブルの上の鋏でずたずたに切り刻んだから。部屋の床に飛び散る、少し前まで兎と熊だった布と綿の残骸。
これでいいわ。出鱈目を言うぬいぐるみなんていらない。
「ああ、そうだわ。ジョアンヌのところへ行かないと」
具合が悪いのなら、ココアでも作ってあげなくちゃ。
「……ジョアンヌ? 大丈夫?」
ジョアンヌの部屋のドアをノックしても、返事はない。寝ているのかしら。
油の刺さっていないドアの蝶番が音を立てて、開く。
髪を乱した寝巻姿のジョアンヌが、ベッドの上に横たわっていた。苦しそうに歪んだ口からは、血の混ざった泡がこぼれていた。
「ジョアンヌ? ――ジョアンヌっ」
ジョアンヌの肩を揺さぶると、ベッドシーツから空のティーカップが転がり落ちた。
同時に、廊下からどん、どんという音。
「誰なの?」
少しずつ近づいてきた音は十回ぐらい続いた後、ぴたりと止んだ。
代わりにどさ、っと重いものを投げたような音がジョアンヌの部屋の前で聞こえた。
「ねえ、何をしてるの?」
ドアをそっと押したら、何かにぶつかった。
バスローブのような不思議な服を着たヤスケが、目をかっと見開いて倒れていた。ナイフが刺さった胸からは、赤い液体がこぼれていく。
「ジョアンヌと何を話したかは知らないが、あの子の催眠を解いただろう? 『私もキヌちゃんもここから出してください』なんて言い出したから、殺さなきゃいけなかったんだ。お前のために村にいた娘を一人連れてきて、立派なメイドに仕上げたのに」
お前のせいだよ、エマ。
大好きだったはずの優しい声は、怖い声に変わっていた。
「昨日オルゴールを聴かせなかったのは間違いだったな、もう二度とあんな真似はしないよ。お前には必要なことなんだから」
どこからか流れてくる「トロイメライ」。嫌だ、聴きたくない。逃げないと。
「いけないよ、動いたら」
頭に直接響いてきた一言だけで、あたしの身体はねじが途切れたように動かなくなる。指先一本も。ダメ、ダメなのに。
「お前は私のお人形なのだからね。お父様の言うことを聞かなくちゃいけない」
メロディーが暗く、不安げに転調する。
――そうだった、あたしはお父様のお人形。それ以外の誰でもない。
「怖がる必要はないんだよ」
――大丈夫。何も、何も怖くない。
「……もう一度聞くよ。お前は何だい?」
――あたしは、エマ。お父様の大切なお人形。
意識が遠くなっていく。
起きたら何もかも元通りだよ、と最後に聞こえた声は穏やかだった。
Doll House 暇崎ルア @kashiwagi612
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