武蔵野の青蛇

星見守灯也

武蔵野の青蛇

 土が、水が生暖かい。青大将がゆったりと目覚める。黄緑色の目をぎょろりと動かして、身をよじらせぬるりと地表へと出で参る。かつて姉御と慕った白蛇は達者であろうか。

 濡れた土をかき分けて、頭を出せば湧水は以前のままだった。周囲を囲む藪もそうは変わってはいない。さて、何年ほど寝ていたのかと首をもたげる。巨人の足跡と言われた池もそのままだ。しかしおかしい。木々は芽吹く前で咲いている花は桜だろうが、桜ばかりがこんなに生えていただろうか。池の縁には立派なお堂が見え、石畳を歩く人は多い。桜を見ているのか。青蛇は目が悪いが、人間の格好が変わっていることに気づいた。これはけっこうな年数寝ていたようだ。

 ぐるりと池を回るようにして行けば、突然、土や石ではない黒い地面に行き当たった。その黒い地面の上を車のついた箱が駆けていく。牛に引かせ人に担がせているわけではないようだ。尻から煙をあげるが、どうもこの臭いがよろしくない。黒い道の脇は整然とした石畳で、青蛇はそこの端を進む。道の両がわには白塗りの高い家が並び空は狭い。そのうえ多くの人が行き交う振動を感じた。青蛇は石畳の隅に生えている木を垂直に登って観察することにした。


 たくさんの体温が入り乱れている。人間が歩いている。人の格好は奇抜なものだ。例えばあの年のころは十六、七ほどの女たち。十六といえば嫁に行ってもおかしくないような歳だが、甲高い声をあげまだ子供の振る舞いだ。男もこれも浮き足だったような連中が徒党を組んで通りすぎた。ああ、これはだいぶ長いこと寝ていたらしい。ちろと舌を出して匂いを嗅ぐと、皮脂の匂いが薄いにも関わらず、強く香を炊いたようなものも多かった。

 少し考えた青蛇は、先ほど見たような若い女に化ける。衣装も化粧も髪型もだいぶ変わったようだ。これが今様というものか。話す音が変わっている上、聞きなれない言葉も多いが彼らが話していることはなんとなくわかる。

 勉学に苦労し将来を悲観している話。相手の着物は良いものでありどこで買ったのかという話。恋愛に苦悩し相手を疑っている話。音楽を聴く金が足りないという話。戯画が面白く寝ずに読んだという話。親が苦痛で早く家を出たいと願っている話。遊戯で勝った負けたの話。一昨日に食した八ツの菓子が驚くほど見栄えがしたという話。役者の顔がいいという話。そこを歩いている犬がかわいい、かわいいと叫ぶのは会話なのか。

 このような人の考えることはそう変わってはいないらしい。しかしまったくわからないこともある。手に持っている光る板はなんだろうか。あれが音楽であり戯画であり遊戯でもあるという。ずっとそればかりを見て話しかけて指で触れ、まるで中に人間がいるようにふるまう。耳に当てては独り言を言うのだ。大昔だが紙に退治した鬼を封じ込めた男がいたと聞く。もしやその再来ではあるまいな。


 この青蛇、本性は雄であるが蛇であるゆえ女の方が化けやすく、また人に警戒されにくいと学んでいる。しかしそれも建前であってかつて白の姉御に従う童女になっていたため、人のふるまいが身に馴染んでいた。

 スカートという袴は女袴といっても短く軽くひらひらとして奇妙である。しかし足捌きは良くなかなか洒落ている。上の着物は合わせが深くはない。しかし紐でなく小さな円板で留めているため着崩れしにくい。袖は筒袖でこれも動くには合理的といえよう。髪はかむろのようにしてみたが、女も髷を結うことには驚いた。耳にも腕にも装飾をつけているがこれは何の意味がある?

 ふむ、と青蛇は歩道の真ん中で考える。春の風は強い。砂埃を舞いあげ、裾をひらめかせていた。人の流れは青蛇を避けていく。

 人間は変わった。人間とは短期間で変わることができるものだと白蛇が言った。白蛇は人間を好ましく考えていた。満月と萩の光景を見た。芒と白雲の光景も共に見た。白蛇の君と過ごした日々。カエルをとってネズミをとって鳥の卵を食らったりした。そんな生活はいきなり終わりを迎えた。秋の初風に、白蛇はいい男を見つけて人に化けて行ったまま帰らなかった。人間がそれほどいいものか。

 原野は開かれ田畑や雑木林ができた。そも青蛇たちがいた原野とて数千年前から原野だったわけではない。土地は大きく変わる。それでも白蛇がいない土地は気に入らなかった。こうして起きてみてもそうだ。人間のどこがそんなによいものか。



「ちょっと」

 声をかけてきたのは同じような女袴をはいた女だ。年も青蛇が化けたものとそうかわるまい。

「……我がなにかしただろうか」

 彼らの使う話し方は難しい。大きな包みを背負った女は少し言い淀んで、左手で青蛇の女袴を指した。その手は少し皮膚が硬くなっているように見えた。

「おま、パンツはいてねーの?」

「パンツ?」

 聞き返したとたん春風が吹き上がった。女はあわてたように青蛇のスカートを押さえようとした。

「おお、確かに。袴が短ければこういうこともある」

 だが湯文字では外から見えるだろうし、それも短くすれば意味がない。となるとパンツとはふんどしのようなものだろう。しかし青蛇は、女袴がここまで変化したのだから、ふんどしも変わったのだろうと考える。

「して、ぬしのぱんつとやらはどのような……」

「うわ、サイッアク!」

 ぱしんと肩を平手で叩いて逃げて行った。通る人が見ないふりをして行く。


 青蛇はこれは悪いことをしたらしいと気がついた。人間は青蛇にとってささいなことでも気にかける傾向にある。どうやら下のことは話題はすべきではないらしい。ならばふんどしでもよいかとふんどしをつけたように化ける。やはり彼女は人前で陰部を丸出しにした我を心配したのだろう。であれば失敗であった。舌を出して匂いをたどる。

 先ほどの女はそう遠くないところにいた。そこは大きな辻で、人の頭上に橋がかかっている。そこをずっと長いなにかが走っていった。女は走ってきた青蛇に気がついた。

「うわ、なんだてめ。やる気かよ」

「これはすまぬことを申した!」

 すっと正座からの土下座をする。人間はよくこうして許しをこう。周りの人に見られて困惑する女をよそに、青蛇は石畳に額をつけた。

「詫びと言ってはなんだが、この金を受け取ってはくれまいか」

 人間は相手の気分を害したり、傷つけた代償に金を渡す。差し出した硬貨を見た女は奇妙そうに口を曲げた。

「今時、そんなんつかってるヤツいねーよ……」

 青蛇の差し出した銭は丸く中心に四角い穴が空いており、開元通宝やら永楽通宝やらと書いてあった。拾ったものだが、すぐ錆びるのでいつもピカピカに磨くのが青蛇の趣味のひとつだった。

「教科書でしかみたことねー」

 たまりかねたように、ぶはっと笑った。ひいじいちゃんの財布から出てきたのか? とからかう。先程までの警戒はやや弱まっている。

「むむ、人の貨幣とはコロコロ変わるもの。使えないのなら仕方ない……」

「……コレ、くれんのか?」

「役立つならやりたいところだが」

「もーらい!」

 女は左手で銅銭をとっておかしそうに見まわした後、スカートのポケットにしまった。

「ガッコで見せるわ」

「役立つのか」

「モノは買えねえけど、一日くらいは人の興味をひけるかな」

 女は青蛇を立つようにうながして、肩に手を回すと耳元でささやいた。

「ちゃんとパンツはいたか?」

「……ああ」

「ならいい、行くか」

「どこへだ」

「うどん。古銭の礼に一杯食わせてやんよ」


 道を歩きながら、女のことを聞く。女は光る板を持っていなかった。

「スマホ? 持ってるよ。カバンの中」

「見ていなくてもいいのか?」

「歩きスマホはダメだろ」

 よくわからない。人間の生活は見た目以上に大きく変わってしまったらしい。

「では……その包みはなんだ」

 女が背負っている黒い包みだ。風呂敷ではないが、大事そうなものだ。

「アコギ。……ギター」

「ぎたー?」

「ほら、弦楽器の……え。マジ、知らんの?」

 女はあれこれと説明し、青蛇は知識の中から似たものを見つけた。

「琵琶のようなものか」

「琵琶……まあ、そうかな。バチは使わないけど」

 女は右手に手袋をしていた。

「あんま爪伸ばせないからさ、どうしよかなって」

 どうしようといわれても青蛇にはわからない。わからないが、女は気にしていないようだ。

「ああ、そこ入ったとこ」



 そのうどん屋にはいると湯気が上がっていた。だいぶ繁盛しているようだ。昼時であれば並ぶのかも知れなかった。厨房の奥の女を見て青蛇が気づいた。あれは白蛇だ。かつて姉御と慕った白蛇が化けた女だ。

「今、厨房にいるのがあたしのギターの師匠」

「どーも」

 注文をとりにきた男は前みたやつとは違う。白蛇を人の世に連れて行ってしまった男とは違う。だけど覚えている。こういう男だったと覚えている。ずっと待って、また一緒になったのか。それとも似た男を見つけたのか。奥の白蛇にむかって我だと言い出したい気持ちを抑える。白蛇の君がそれでいいなら何もいうことはない。

「どうした。ここのうどん、うまいぞ」

「そうか、うまいか。ならいい」

「注文、つけうどん二つね」

「はいよ」

 置かれた水の入ったコップを見て、肩を落とす。

「肉うどんにしたいなら自分で出せ」

 それからギターの女は青蛇をちゃかすように言ってメニューをしまう。青蛇はふっと笑った。白蛇ともこのような会話をした。カエルを食いたければ自分で取ってこいと。それでも白蛇はときおりカエルを分けてくれた。

「いや、今日はそういう気分になれん」

「そう? ……ああ、名前聞いてなかったよね。あたし宣子」

「我は……」

 自分に名前が必要だったのは、白蛇がいた時だけだった。

「深沙」

「おし。じゃあ、あたしたちの出会いにカンパイしよか」

「かんぱい?」

 かつんとコップがふたつ、音を立てた。生きるため必要な水を分け合う儀式だろう。音を立てたのは邪を払うために違いない。悪い気はしなかった。



「え、おまえスマホ持ってないの」

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武蔵野の青蛇 星見守灯也 @hoshimi_motoya

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