第4話

 森の仕事を少しずつ教えてもらえるようになって数年が経っていた。その頃から先生の体調は徐々に悪くなっていた。定期的に御用聞きにやってくるジーンさんと共に村医者が顔を出すようになり、簡易的な診察の後にはいくらかの薬を処方された。

 先生は一日のほとんどをベッドの上で過ごすようになり、代わりに僕が森に出た。バロメッツの森。その深部に向かうほど、この土地が異様な生命力に満ち溢れていることがわかった。僕は日々の作業をこなしながら、この森を守りながら生きていくという事の意味を、深く考えるようになっていった。

 そんなある日の事だった。

 数日前から微熱が続いていた先生の体調が急激に悪化した。処方されていた薬を煎じてみたが、まるで効果が無かった。額に汗を浮かべて苦しむ先生を前に、僕は居ても立っても居られなくなった。

 村に行こう。そして医者を呼んでこよう。

 身支度を始めた僕に先生は声をかけた。


「……待って、トム。どこに行くの」


「村だよ。医者を呼んでくる。大体の場所はわかるから」


「……行かなくていいわ。お願いだからそこにいて。手を握っていてちょうだい」


 先生は痩せ細った手を伸ばし、僕の腕を取ろうとした。僕はそっとその手を握り、ゆっくりとベッドの中に差し戻した。


「すぐに帰ってくるから、心配しないで。ちゃんと診て貰えばきっと具合も良くなるよ」


 ひどく弱った様子の先生に背を向け、僕は扉に手をかけた。家を離れて村に向かうのは初めての事だった。不安はあったけれど、先生の体には変えられない。


「……違う、違うの、トム」


 先生の声が震えている。不安なのだろう、無理もない。けれど医者に来てもらうには、村まで呼びに行くほか方法がないのだ。僕は心を鬼にして、家の外へと足を踏み出した。

 

 異変に気付いたのは、家を出て数分が経った頃だった。まだ村までは随分と距離がある地点だ。僕の脚は、突然ひどい痙攣を始めた。自分の身体が起こした思わぬ挙動にギョッとした次の瞬間、思いもよらない衝動が僕の中に生まれていた。

 それは「帰りたい」という強い感情だった。

 先生を助けたい。だから村に急がなくてはならない。その理屈は痛いほど分かっているのに、気持ちと身体がまるで逆の方を向いてしまう。自由が利かなくなった脚はくるりと踵を返し、今までとは逆向きに歩き出そうとした。


「だ、ダメだっ!」


 僕はその場にうずくまり、抵抗を試みた。

 違う、そっちじゃない。僕は、村に向かうんだ。医者を呼んでくるんだ。

 何度も自分に言い聞かせ、僕はゆっくりと顔を上げた。視界に、森が映った。背にして歩いてきたはずの、深きバロメッツの森。

 ああ、と吐息が漏れた。

 次の瞬間、僕は理解していた。

 もうこれ以上進めない。離れることが出来ないのだ。僕という個体は、あの母なる森から。

 嗚咽が漏れ出していた。僕は涙を流し、何度も拳を地面に叩きつけた。相反する二つの感情が僕の中にあって、その片方はもはや消えゆく灯火でしかないのに、提示された避けようのない事実の前で、どうしようもない無力感に震え、慟哭していた。

 

 夕闇が迫る家の中で、先生は待っていた。僕が引き返してくることを初めから分かっていたようだった。


「……おかえり、トム」


 先生はいつものように微笑んでいた。幼い時から見つめてきた、大好きな笑顔で。

 部屋の出入り口に突っ立ったまま、僕は確かめるように言った。


「僕は、バロメッツなんだね」


 言葉は、先生と二人で長い時を暮らした部屋に、シンと染み渡っていった。

 いつか、大勢の村人達がこの家に来た時に先生が言っていた事を僕ははっきりと覚えていた。曰く、森で生まれたバロメッツは、本能的に森を離れることが出来ない。


「死体から生まれた、複製なんだね」


 ドリーの死体から産まれた仔羊はあれからすくすくと育ち、今ではドリーと変わらない大きさになった。僕は羊をミリーと名付け、喪失を慰めるようにいつもその首を撫でた。


「誰かの代わりなんだね」


 先生の部屋で見た、一枚の絵。そこに描かれていた一人の男性。僕と同じ色の髪を持ち、軍服を着て先生の隣に座っていた人。

 彼はもう、この世にはいないのだろう。

 僕はきっと、あの森で生まれたのだ。

 他ならぬ、先生の手によって。

 先生の目は、変わらず僕を見つめている。

 いや、それは違っている。先生は、僕を通して違う誰かを見つめていたんだ。


「誤解よ、トム……」


 先生が腕を伸ばす。僕は無意識に、ゆっくりと後退っていた。


「愛しているのよ、あなたを、本当に……」


 先生の身体はベッドから這いずりおち、痩せた身体を引きずるように僕に近づいてきた。濡れそぼった瞳が薄闇の中で輝いている。僕はその光が恐ろしく感じた。気が付けば僕は家を飛び出し、森へと続く道を駆け出していた。後ろから僕を呼ぶ声が聞こえたけれど、振り返ることは無かった。

 

 森がざわめいていた。一歩一歩を踏み出す事に、木々が揺れて僕に語りかけた。

 おかえり、おかえり、おかえりなさい。

 母なる森に、おかえりなさい。

 僕は無我夢中で走った。森が脈打っている。そのリズムは、抗いようのない心地よさを僕に与えた。それは人として育った柔らかな心では受け止め切れる筈もない、激しい奔流だった。押し寄せる多幸感の波に翻弄され、とめどなく溢れてくる感涙に溺れそうになりながら、僕は母であって欲しかった一人の人間の事を思い、その一筋の糸を手放さないように必死に踠こうとした。

 森の深部が近づく。淡く暖かな光が、僕の輪郭をぼやけさせていく。

 森が、僕を呼んでいた。

 母が、僕を呼んでいた。

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バロメッツの森で エビハラ @ebiebiharahara

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