第3話
秋が過ぎ、厳しい冬が来た。
深々と降る雪は、霊峰とその山麓を混じり気の無い白一色で染めていった。
積雪は生活の自由度を著しく奪っていったけれど、それでも先生は変わらず森に通い続けた。僕は秋に収穫しておいたサトイモを始め、備蓄の食料を細かく管理した。暇な時は先生の部屋にある書物を読みながら、ゆっくりと春の訪れを待っていた。
ある時、農耕技術に関する古い本を読んでいると、そのページの間から折りたたんだ一枚の紙がパラリと落ちてきた。
拾い上げて見てみるとそれは絵のようだった。肖像画の写しだろうか。椅子に座る一人の男性と、その傍に立つ若い女性。赤い癖毛を腰まで伸ばした女性の絵は、先生の姿によく似ている。ではこの男性は誰だろうか。
軍服を身に纏った、黒い髪の青年。
その時、ガチャリと扉が開く音がした。
先生が帰ってきたのだろう。
僕は何故か咄嗟に、手に持っていた絵を自分の衣服の中に隠してしまっていた。
「トム、ちょっとこっちに」
玄関から先生の呼ぶ声がした。駆けつけると、そこには雪に塗れた先生と、先生に身体を支えられるようにしている一人の老人がいた。老人もまた雪まみれで、それだけでなくガタガタと身体を震わせており、顔色も悪そうに見えた。
「暖炉に薪を。大急ぎで部屋を暖めて。それからハーブティーをいれて村長さんに飲ませてあげてちょうだい。そうね、ショウガを多めにしておいた方がいいかも」
僕は頷き、すぐに先生の指示した通りに動いた。先生は老人の身体に付着した雪を払い、湿った衣服を脱がせてからその手足をさすって温めていた。温かなハーブティーを少しずつ老人の口に運ぶと、小さな声で「ありがとう、坊や」と感謝をされた。
数時間後、少しだけ顔色が良くなった老人は、ベッドに横になったまま、まだ体調も全快とはいかないだろうに話を始めた。
「森の力を借りたいのです」
老人は先生を真っ直ぐに見つめていた。先生の口は固く一文字に結ばれている。
「畏れ多い事は存じています。しかし、そうでもしなければ、もう村は保てません。働き手が戦に取られている事に加え、昨年から不作も続いています。食料が全く足りないのです。既に状況はご存じでしょう」
確かに今年は雨も少なく、思うように農作物が取れなかった。この家にある食料も僕と先生が春まで過ごせるだけの分しかない。
「私達の村は、これまであなた方『守りの一族』に敬意を払い、そして便宜を図ってきました。恩を返せとは言いません。しかし、村が滅びて困るのはあなた方も同じ筈です。どうか理解して頂きたい。私達にもあの森の恵みを授けて欲しい。その為に、私はこの雪の中をお願いに参ったのです」
そう言って、老人は深々と頭を下げた。
僕は少し不思議だった。村の食料が足りない事は分かったけれど、それを補うほどの食料が冬の森の中にあるようには思えなかったからだ。
僕はちらりと先生の方を見た。先生は何かを深く考えるように数分黙り込んだ後、溜め込んだ何かを吐き出すようにただ一言、「わかりました」とだけ呟いた。
朝靄の中、先生と僕は森の奥に向かっていた。傍には首輪を紐で繋いだ羊のドリーがいる。いつも一人で森へと向かう先生が、僕達も一緒に連れていくと言ってくれた時は驚いたけれど、同時に少し嬉しかった。認めてもらえたような気がしたからだ。
雪の中、たった一人で訪れた老人の顔色もだいぶ良くなり、今はベッドで眠っている。彼の回復を待つ間に、先生は大切な仕事を済ませると言っていた。
「トム、あなたにも見ておいてほしいの」
身支度をしながら先生は言った。その腰には飛び出た枝を払うのに使う、金属製の鉈を帯びている。
「……森に人を立ち入らせてはならない。地に屍をうずめてはならない」
先生は、かつて僕に教えてくれた掟の言葉を再度口にした。
「その理由を知っておいて欲しいから」
先生は、いつもよりずっと口数が少なかった。僕は時折ドリーの首の毛を触りながら、先生の後ろをついて歩いた。
森の中は思ったほど積雪がひどくなく、むしろ平地よりずっと歩きやすかった。気のせいか、少し暖かいように思える。
いや、それは気のせいではなかった。森の奥に進むにつれて、厚着をした僕の身体はじんわりと汗ばんでいった。積もっていた筈の雪は既に溶けている。生命力に満ちた緑色の葉がそこらじゅうに生えているのが見えた。
「……この辺りね」
開けた場所に出た。ずっと薄暗い森の中を歩いていたが、そこにはぼんやりとした暖かい光が満ちていた。足元の土はふかふかとして柔らかく、畑にするのに丁度いい具合だなと僕は思った。
「トム、ドリーをこちらに」
先生は僕の方に手を伸ばした。言われるがまま、僕は手綱を渡す。ドリーがめええと鳴いた。黒く濡れた眼が僕を見つめていた。
「……ごめんなさい」
先生が、そう言った。
一瞬の出来事だった。
びちゃ、という音と共に、生暖かい液体が僕の顔を濡らした。頬を伝ったものを拭うと、掌が赤く染まった。それはドリーの首から噴き出た鮮血だった。
先生が振り下ろした鉈は、ドリーの頭と胴体とを両断していた。
断末魔すら上げることなく、ドリーの身体はどさりと地面に横たわった。赤く濡れた鉈を手にした先生は何一つ躊躇う事なく、ドリーの身体を解体していった。
僕はただ呆気に取られたまま膝を付いていた。
なんで、なんで、ドリーを。
思いは頭の中でぐるぐると渦を巻いている。僕は先生にそれを尋ねる事すら出来ずに、まだ掌に残るドリーの感触を必死にそこに留めようとしていた。
しかし、その思い出すらもバラバラにするような手際の良さで、先生はドリーの身体を細かく分け、その欠片を拾い上げて地面一帯にばら撒いていった。
まるで、畑に種を蒔いているようだった。
「トム、見ていて」
先生は地面を指さした。僕は溢れる涙を拭い、言われるままに視線を運んだ。
「……バロメッツ、と呼ばれるものよ」
若草色の芽が土の中から顔を出していた。
むくり、と起き上がった芽が、被さった土を払いながら上へ上へと伸びていく。異常な速度だった。どくん、どくんと脈動するポンプに押されるように、伸びる幹はあっという間に僕の身長よりも高くなり、そして両手で抱えられないほど大きな果実を付けた。
地面に撒かれたドリーの肉片が、それぞれに種子のような役割を果たしたのだろう。そこから新たな生命が発芽した。辺りは一瞬のうちに畑のような景色になっていた。先生は果実を一つ手に取り、その濡れた表皮をつるりと剥いた。その中には、黒い毛を湿らせた一匹の仔羊が入っていた。外の空気に触れた仔羊は身体をプルプルと震わせて、小さくめええと鳴いた。その姿も、鳴き声も、ドリーとよく似ていた。
「この森に埋めた死体は全てこうなるの。どんな小さな肉片からでも、生前と同じ姿をした生き物が再生される……どうして掟を守らなくてはならないか、理解できるわね、トム」
僕は先生の言葉を必死に追いかけようとした。でも、どうにも難しかった。果実の中に幼い頃のドリーと同じ姿の仔羊がいる。けれど、この羊は絶対にドリーではない。ドリーは僕の目の前で死んだ。先生が殺したのだ。
返答できず硬直していた僕に先生は声をかけた。いやに優しげな声だった。
「……今は、いいわ。ひとまず収獲を手伝って。このバロメッツを村の人達に引き渡すの。そうすれば皆、飢えずにすむから」
そう言って先生はずらりと並んでいるバロメッツの木から果実を一つずつ捥いでいった。僕はのろのろと立ち上がり、無言のまま先生に続いた。薄桃色をした果実の表皮にゆっくりと触れると、生暖かな温度と心臓の脈動が伝わってきた。僕は作業に没頭する事にした。余計な事はもう何も考えたくなかった。
数日後、大勢の人々が村からやってきた。その中にはジーンさんやリーンの姿もあった。彼らは一様に刃物を持ち、それぞれの手でバロメッツの仔羊達の息の根を止めていった。生き物が食肉に変わる瞬間だった。動かなくなった仔羊たちは、ソリのような荷台に乗せられて、そのまま村に運ばれるという段取りだった。
「どうせなら仔羊を生きたまま歩かせた方が効率が良いのでは? ソリを引くのにも労力が必要ですし、肉を保存用に加工するのにも手間はかかります」
「森で生まれたバロメッツは、本能的に森から離れることを嫌うんですよ。というより、生態として不可能に近い。だから、その方法は取れません。無理に連れて行こうとすると、頑なに抵抗されますから」
先生は手際よく指示を出しながら、村人達の質問に答えていた。
僕は手元にただ一匹残された仔羊の首を撫でながら、屠られていくバロメッツ達の姿が視界に入らないように家の裏で蹲っていた。
時折、暇を持て余したリーンが近づいてきたが、適当にあしらった。とてもそんな気分では無かった。あんな村には絶対に行きたくない。嬉々としてバロメッツの命を奪った人間がたくさんいる、あんな村になんて。
僕はここがいい。ずっとこの森で暮らしていきたい。ぎゅ、と腕を絡めて抱きしめた仔羊の身体は暖かかった。僕はそこにある生命を確かに感じながら、村人達の賑やかな声をなるべく気にしないように努めていた。
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