指輪はいらない

幸まる

私の特別

「指、意外と細いな……」


まだ息の整わないオルガの汗ばんだ胸の上から、側で横になった料理長は、彼女の手を掬い上げてまじまじと見詰める。


「……意外とって?」

「毎日力強く生地を捏ねているから、もっと太いかと思った」


オルガは領主館の厨房で働く女料理人だ。

ベーカリー担当責任者で、毎日多くの生地を捏ね、パンを焼く。


「力がいるのは指じゃなくて、腕の方よ」


ふ、と思わずオルガが笑うと、料理長も僅かに口端を上げた。



この表情が好き、とオルガは思う。

常に険しい目付きで、にこやかな笑みなど見せない彼だが、口端が僅かに上がる時、その目には柔らかな色が滲む。

それは、誰もに向けられる表情ではない。

……もしかしたら、自分だけに向けられる特別なものかもしれないと思っている。



「この細さなら、指輪のサイズは?」


気怠い身体の余韻と、彼の“特別”に浸っていたオルガは、突然降ってきた言葉に勢いよく目を瞬いた。


「…………指輪?」

「ああ」


不意に、合わさった彼の瞳が真剣さを増した。


「……オルガ、俺と」

「戻るわ」


言葉を遮ってすぐに起き上がると、オルガはベッドの足元や床に落ちた服を拾って、急いで身に付ける。


「オルガ? 待て、話を……」

「今度。もう戻るから」

「オルガ!」


逃げるようにして、服の前を掻き合せて部屋を出ようとするオルガを、料理長は捕まえる。

しかし、ついさっきまで見せていたとろけるような表情は消え去り、オルガは固い表情で目線を逸らした。

拒絶だと分かり、料理長は小さく息を吐く。


「……分かった。だから、ちゃんと服を着ろ。外は寒い」





領主館で働く人々は、その職種も年齢も様々だ。

住み込みで働く者もいれば、通いで働く者もいる。

住み込みで働く者には、外壁近くに建てられた、使用人宿舎に部屋を割り振られる。

役職付きの者の一部は、領主館の別館に部屋を与えられているが、ほとんどの者は宿舎だ。

料理長は、男性用宿舎に小さな一人部屋を当てられていた。



オルガは外に出て、冷たい外気に一度ぶるりと身体を震わせた。

白い息を吐きながら、足早に離れた場所に建つ女性用宿舎へ戻る。

女性用宿舎は、領主主人よりキツく男子禁制を言い渡されている為、二人が共に夜を過ごすには、オルガが行き来しなければならなかった。



オルガは歩きながら、唇を噛む。


指輪って?

もしかして?

……ううん、考えては駄目。


冷えた外気は、さっきまで心をも温めていた、人肌の温もりを奪い去っていく。

これが現実だと、オルガは冷たい空気を大きく吸い込む。



オルガは領主に雇われている料理人だ。

だが、彼女にとって、日々人々の腹を満たす料理を作ることは、ただの作業ではない。

ほの温かいパンを頬張った人達の微笑み。

焼き立ての匂いに、思わず深呼吸をする厨房の仲間。

また焼いて欲しいと領主一家からリクエストされた、オルガ考案のデニッシュ。

そのどれもが大切で、決して手放せないもの。

やりがいと誇りを持っている、自分の人生にとってなくてはならない仕事。


しかし、料理長への気持ちを自覚し、心と身体を繋げてから、自分の変化が怖い。


仕事中でも、彼の姿を目で追いそうな自分。

何気ない業務連絡でも、会話をしたら弾む胸。


今以上に彼が私の中を占めてしまったら、いつか私は、仕事をないがしろにしないだろうか。

厨房の皆に知れたら、浮かれていると思われないだろうか。

もし、仕事に支障をきたしたら……。


怖い。

変わってしまいそうな自分が、怖い。


仕事一筋に生きてきたのに。

この仕事を一生のものとして、大事にしたいのに…。



指輪なんていらない。

どうせ、生地を捏ねる指に、そんなものは着けられないのだから。


……だから、いらない。




その日から、オルガは料理長を避けた。


厨房の仕事はいつも通りに行い、必要な会話はする。

しかし、休憩時間は同僚達と共にいて一人にならないようにして、夜は会いに行かなかった。

彼は元々愛想の良い方でもなく、どんな時も手を抜かずに黙々と仕事をこなす人であったから、何か言いたげな視線をオルガが避けさえすれば、特に声を掛けたりはしなかったし、仕事中の距離感に変化はなかった。





それは、使用人が休憩をする為の広間で、副料理長と来週の晩餐会のメニューについて打ち合わせをしていた時。

大体の打ち合わせを終え、ちょうど他の使用人達がいなくなったのを見計らって、副料理長が言った。


「オルガ、そろそろさ、料理長アイツと話をしてやってよ」


ひょろりと長い身体を曲げて、副料理長がオルガの顔を覗き込む。


「……え?」

「オルガと話が出来なくてさ、あの不器用者、すごいポンコツになってんの」

「ポンコツ?」

「人数指定勘違いしたり、発注票出し忘れたり、砂糖と塩間違えそうになったり、まあ、色々ね。……幸い、全部未遂だけどさ」


副料理長が苦笑いするので、オルガは目を瞬いた。

副料理長が二人の関係に気付いていたのかという驚き以上に、料理長を“ポンコツ”と形容したことに驚く。

あの日以降も、厨房業務に支障があったことはない。

それは厨房のトップで全体を仕切る料理長が、いつも通り完璧に仕事をこなしているからだと思っていた。


「意外? アイツね、表に出さないからね」


オルガの表情を読んで、副料理長は長い身体を揺らして笑う。


「……私達のこと、気付いてたの?」

「そりゃあね。俺達、長い付き合いでしょ。二人が想い合ってるの、ずーっと知ってた。もう、いつくっつくのかと思ってたね。焦れったかったよ」


料理長と副料理長は、見習いの頃から数えると、領主館で二十年近く一緒に働いている。

オルガはそれに次ぐ長さで、十年を過ぎたところだ。


「……皆、気付いてたかな……」

「さあどうかな。でも、気付いてても、仕事中は気にしないだろ。だって、二人共よく似てるもんな」

「似てる?」

「そ。何があっても、仕事は仕事。そこはね、絶対ブレないんだ。おろそかにしない。プライド持ってやってるから」


オルガは胸が詰まった。


「…………私もそうだと思う?」


願うような気持ちで問い掛ける。

副料理長は、軽く笑んで頷いた。


「オルガもだよ。俺は二人共尊敬してる」




熱い想いが込み上げてきて、涙が滲むのをこらえる。

自分の仕事に対する想いは、独りよがりじゃない。



「阿呆! 泣かすな」


突然、料理長の声がして、オルガは咄嗟とっさに下を向く。


「泣かしてねぇ! 大体、お前がポンコツだからだろうが」


副料理長がそう言って数歩離れた。

代わりに近寄った彼の気配に、オルガはより一層顔を伏せた。


「オルガ」

「……私、……私ね、指輪はいらないの。だって、……だって、仕事中は着けられない……」


ああ、そうじゃない。

言いたいことはそんなことではないのに、気持ちが上手く言葉にできない。


混乱して動揺が隠しきれないオルガの頭から、シャラとくすぐったいような音を立てて、何か冷たい物が首に掛けられた。

掛けられたのは、銀の華奢きゃしゃな鎖。

そして、それに下がっているのは、小さな金の指輪だ。


細く飾り細工が彫られた指輪それを、料理長は指先で一度撫でた。


「こうしておけば、身に着けられる」


オルガはそっと顔を上げる。

あの夜見た真剣な瞳が、目の前にあった。


「結婚してくれ、オルガ」



いつ用意したの?

断られるとは思わなかったの?


……本当は、あなたから贈られた指輪を身に着けたかったって、どうして分かったの……?


多くの問いが頭をよぎったが、オルガは指輪を大切そうに握って、自然と頷いていた。




広間の扉の側で、わっ!と多くの声が上がった。


驚いて見れば、厨房の仲間たちが手を叩いて、「おめでとう!」と喜びの声を上げている。

窓を見れば、外にも下男や下女達が満面の笑みでこちらを見ていて、オルガは一気に真っ赤になった。


扉の側の人集りの中に、なぜだか噂好きの侍女コリーもいて、このプロポーズは今日の内にも領主館中の者が知ることになるだろうと思ったが、オルガは今は気にしないことにした。



副料理長に肩をバシバシ叩かれている料理長が、隣で頬を緩めている。

その顔は今まで見た中で一番幸せそうな表情に見えて、オルガは、例え自分だけの特別でなくても、彼が幸せそうにしてくれるなら良いと、素直に思えた自分が嬉しかったのだった。




《 終 》

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

指輪はいらない 幸まる @karamitu

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ