第5話 それから

 ヤマばあの足は早く、風の早さでセツの屋敷に着いた。

 けれど、叔父たちが探せばここが見つかるのも時間の問題だ。

 その前にあの果実を育てて、セツに渡してしまおう。閉じ込められた腹いせもあり気が強くなっていた。


 連日繰り返した文言は、覚えきって頭にある。

 いつもの座敷で座り背筋を伸ばすと、叔父への失望や不安を長い息とともに吐き出す。

 少し離れた床の見つめ、芳郎はゆっくりとつぶやき出した。

 影が濃くなり動き出す。

 

 霧のようにささやかな雨粒が落ちて、畳と魚の鱗に触れる繊細な音が響く。

 黄ばんだふすまの前の水たまりは沼となり、あたりを湿地へ変えていった。

 舞い散った雨粒で、辺りは湿気を帯び、遠く海辺から吹きつけるような潮の香りが立ち込める。騒がしく跳ねる魚の水しぶきとともに、生命を感じる息遣いが満ちあふれた。

 天井から落ちる雨粒が大きくなり、激しく、けれどどこか優雅に降り注ぐ。その中で、あるものは目と言うものがなく、あるものは目をぎょろつかせ、鱗を翻しては生々しく身を捩って跳ねた。


 風になびく木の葉のささやきが変わり始めた。

 床から伸びた木の枝は大きくなり、ざらついた樹皮が太くなる。

 力強く枝が伸びると、影の色をした柔らかな葉が広がり、それらが天井を覆いつくした。

 ゆったりと、風を受けるように葉がそよぎ、あちこちに蕾が現れる。ふくらむ初々しい蕾は、やがて色付き花びらを開いていく。

 その花の合間を虫のような黒いものがめぐっている。

 爽やかな香りが鼻孔をくすぐり、芳郎はその時が近づくのを知った。


 いくつもの花びらが散り始める。はらはらと。花の形そのままに。どちらも葉に、床に落ち音もなく溶ける。

 花のあった場所に実が宿り、膨らんでいく。

 実が熟す時、甘く濃厚に香る。それは季節の終わりを告げるようだった。

 頭上のねじ曲がった幹の上で飴色の醜い鳥が怪しげに鳴き、実をついばむ。ただ甘いだけではなく、粘つく果実。葉が少なくなり、たわんだ枝が果実の重さに耐える。

 それらすべてが絡み合って、一つの怪しげな風景を生み出していた。

 いくつかの実がポトリと落ち、また妖艶な香りが広がる。

 それらが落ち着くと温度が下がり始め、また細かな雨が降り、だんだんと白い景色に変わっていく。覆い始めるのは雪だ。


 屋敷の外が騒がしくなった。

 明かりと、がなり声。複数の足音。障子越しに人影が映った。

 芳郎は急激に現実に引き戻された。

「芳郎、今出て来るならまだ許してやる」

 叔父の声に体が反応する。

 なにを許すんだろう。言い返したことか。言いなりにならなかったことか。

 障子が乱暴に引き開けれる。

 あっ、と声が上がった。

 芳郎を中心に見たこともない不気味な木々が絡み合い、覆うように茂っては蠢いている。

 足元には沼があり、うすく靄がかかっていた。異様な雰囲気にのまれ男たちの足がとまる。

「やっぱりあいつ人の子じゃなかった」

「この町をどうにかするつもりだ」

 震え声で、町の男が言う。様子を伺い、部屋を覗き込むようにじわじわと近づく。

「芳郎」

 叔父の驚愕と失望を含んだ声。あいつは利用されただけなんだと、嘆きが聞こえた気がした。

 怒号とともに屋敷に入ってきた男が、がむしゃらに芳郎につかみかかる。

 手加減などない。

「おかしなことしやがって」

 あんたらに何をしたというのだ。ひっそりと暮らしていただろう。勝手に怯えるあんたらの為に。

 押さえつけられ、抵抗した手足は凍った床で何度か滑り、手が届いた先でするどい樹皮に擦りむいた。

 離せと叫んでも誰も助けやしない。

 誰も。

 

 床に押し付けられた冷たい頬。首を曲げ視線を上げたその先で、静かにあの花が咲こうとしていた。

 芳郎は、先日から目星をつけたいくつかの白い蕾が、目的の花ではなかったことに首をかしげたが、一つの考えに思い当たった。

 ある種の山茶花は、蕾までは淡い朱色で、花弁が開くと白い花を咲かせるのだ。

 まさに淡い朱色の蕾が変貌し、ふちに積もった雪を残しながら白い花を咲かせた。

 求めていた白い花は盛りを迎え、惜しげもなくはらりと落ちて、果実を結び始める。

 頭上の赤い実が熟す。甘い香りが部屋を包んだ。

 暴れるなと掴む手。頭が再び床に倒される。

 熟しきる前に手に入れなくては間に合わない。種になってしまう。焦燥感に身体をよじるが、男が乱暴に組み敷き顔は床で潰される。

 

 その時、ふと白い手が伸び、目の前に実った今落ちる瞬間の果実をもぎ取った。

 果実は芳郎が朗読を通じて引き寄せた力の集大成と言えるものだった。その様子が、乱暴に開け放たれた障子の間から月明かりに照らされた。


 

 突如現れた女に、男たちは息を飲んだ。女の後ろにヤマばあが居た。

 周囲の視線など気にも留めず(これを食べれば、真の雪女となれる)と頭にそれだけがあり、彼女は果実にかぶりつく。

 柔らかく、よく冷えていた。舌から喉へ。通り抜ける甘く苦い汁。鼻腔に残る刺激に期待感が膨らむ。

 その一方で、彼女には僅かな不安も澱んでいた。

 本当に雪女として生きることが、自分にとって最善か。

 変化は美しく、恐ろしい。それらが何をもたらすのか、彼女自身さえ知る由もない。

 その揺らぎを胸に持ちながら、果実を食べきることを選んだ。

 芳郎の目には、その姿が強く焼き付いた。

 じゅるじゅると、一心に果実をすする。女の眼光に、異様な姿に、息を飲み男たちは見入った。

 這いつくばった顔の先。落ちた果実の飛沫が芳郎の頬にとんだ。床板に落ちた滴りは消える。


 なるほどと、口元をぬぐい、セツは新たに宿った力が、指先まで行き渡るのを感じた。ゆっくりと、満足げに顎を上げ、ようやく周囲を見回す。

 男に抑えられ、這いつくばった芳郎に目をやる。

「芳郎」

 

 どうするんだと、冷たいセツの目が聞いている。

「こ、ここから、出してくれっ」

 まだ挑戦も失敗もしたことがないものが、ここではない、外にある。こんな場所で終わりたくないと思った。

「それだけか」と不満そうに呟くと、セツは自身の手に息を吹きかけた。

 冷たさを感じる一瞬に、まばゆいほどの白い光が男たちに降りかかる。

 驚きか恐怖か。

 その美しい光は氷の細かい粒となり、髪や肌、男たちのすべてを覆うように凍らせていった。足が凍った男たちは悲鳴と共に体が傾がせ、おかしな動きをした。


 ヤマばあに軽く叩かれ、芳郎は我にかえる。

 叔父の表情は遠く見えない。

 うながされ、うらぶれた屋敷から外へ出る。月の出た、明るい夜だった。

 

 林の合間の坂から振り返る。芳郎の目が見えれば、先ほどまでいた屋敷が小さく映るはずだった。しかし、ぼやけた暗闇しかわからない。町のある場所を見下ろし、再びセツとヤマばあの後ろを追った。

 セツは芳郎を追い払いはしないと言った。

 行先はわからない。大きな不安と、けれどこの成り行きをどこかで面白がっている自分がいた。今はただ、それでいいと思った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

彼岸の声 森沢 @morisawa202305

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ