第37話「瓶詰伯爵は常闇の魔女さんに服従したい」(3)
姿が見えたくなったとたん、ノアはうんざりした様子で腕を解いた。音もなく背後からやってきて抱きしめたことを責めてやろうと思って振り返ったものの、酷く疲れ切ったような笑顔を向けられてしまっては怒る気にもならない。ノアにはノアの苦労があるのだ。
「相変わらず、ご令嬢からの人気は絶大だね」
「ベリア嬢からの縁談は会う前に断ったんだけど、たまたま贔屓にしている仕立て屋で会ってしまって。ちょっと思い込みの激しいところがあるって噂を聞いていたから、勘違いされるような言動には気をつけろって、バサルトにも言われてたんだが……」
「扉、開けてあげちゃったのね」
ノアは申し訳なさそうに何度も頷いた。
あの話から想像するに、偶然会ったのではなく待ち伏せしていた可能性もある。そして盲目な乙女の思考と視界は、想いを寄せる相手から受けた行為の全てを肯定的に捉えてるよう変異する。ノアにとっては当たり前の親切も、彼女の乙女的視界を通すと愛情へと変換されてしまったわけだ。もはや災難としか言いようがない。
「彼女の執事がたくさん荷物を抱えていて、扉なんて開けられる状態じゃなかったからな。最悪なことに、扉を開けた時に偶然ベリア嬢の手に少しだけ触れてしまって。それが運の尽きというか……」
「それは勘違いされたちゃったわね。あぁ、ノア様はわたくしのことが好きなのね!って」
彼女の行動はひどくなる一方で、山のような恋文を毎日のように送りつけてきたり、妻に相応しいのは自分しかいないと呪文のように繰り返されていたとか。父親であるフェデル男爵からも縁談を受けてもらえないかと懇願されていたようだ。娘の恋する暴走を父ですら止められないほどだったわけだ。
「今までの令嬢たちと違って、ベリア嬢は執念深いというか……もしかしたら、またキーラにも迷惑かけるかもしれない。ごめん」
「もう慣れたわ。ノアが私のことを街の人に言いふらしてるせいで、令嬢たちに絡まれることが増えちゃったから」
余計なことをしてくれたものだと、ちょっとだけ嫌味を込めて睨んでやった。
さすがに悪いことをしたと思っているのか、申し訳なさそうにしながら再びふわりと抱き寄せられた。
包みこむ温かさに、心がむず痒くなる。突っぱねてやりたいと思っても、私の体は土壇場になって動かなくなる。最初は拒絶していたはずなのに、あの頃の嫌悪はほぼ消えていた。このままでいいか――そう思えるほどにはノアの腕が心地いいと感じられるまでに変わっていた。
「まるで子供みたいね。抱きしめるの、そんなに好きなの?」
「誰でもいいってわけじゃない。最近、仕事が忙しくて会えなかったから、なおさらかな」
「調子に乗ってると呪うわよ。私たち、恋人でもなんでもないんだから」
「必ず恋人になるから問題ない」
肩に顔を埋めながらクスクスと笑った。吐息が首筋にかかるのがくすぐったくて、反射的に身をよじると、宥めるように優しく背中を撫でられる。
ふと顔を上げた時、ノアの頬に切り傷があることに気づいた。その傷がついた理由には心当たりがあったせいか、なんだか見過ごせずに治癒術で治療を施した。ノアはきょとんとしながら私の顔を覗き込んだ。
「ここに切り傷があったから」
「あぁ、この位置だと見えにくいから気づかなかったよ」
「この間、隣の街を野盗が襲ったんでしょ? その時、ノアも騎士団と一緒に討伐に向かったってバサルトが言ってたから。その時に怪我したのね」
「しばらくそんな物騒なこともなかったからな。思ってた以上に体が鈍っててびっくりしたよ。何があってもいいように、剣の腕は鍛えないと駄目だな」
綺麗な容姿のせいでそれほど屈強には見えないが、ノアが密かに体を鍛えているのはわかる。細身に見えてもその実、服越しに感じる腕の太さや固さから相当筋肉がある。想像してしまったせいか、妙な罪悪感と恥ずかしさに襲われた。
心の乱れを覚られないよう俯いていると、気づいたノアが顔を覗き込む。目が合ったとたんにニッコリと無邪気にほほ笑んだ。
「そういえば、アーデンのお墓は見つかったの?」
「残念ながら」
クムンドから帰国して間もなく、ノアは領主としての仕事の合間にアーデンの墓の捜索を進めていた。邸に残された資料をあさり、私の死霊術で歴代の当主たちの魂を呼び覚まして墓の場所を探ったり。得られた情報をもとに捜索はしているものの、今のところ手がかりすら見つけられずにいた。
「グランフェルト家の霊園をくまなく探したら、それらしき墓の跡は見つかったんだ。でも、墓石も遺骨も見つからなかった」
「また振り出しってことね……呪いが解けるのはまだまだ先みたいね」
「その間に、もう一つの条件を手に入れないとな」
抱き寄せていた腕を解いたかと思えば、今度は足元に跪いて私の手に唇を落とした。
悪寒とは違う、少し熱くてゾクッとする感覚が背筋を駆け上がる。どんな顔をしてノアをみればいいのか戸惑っている私をよそに、ノアはロケットペンダント握りしめて見つめる。そこには私がお守りとして渡したビーズの指輪が収められている。まるで指輪と私に誓うとでもいうような仕草だ。
「俺の気持ちは変わらない。今までも、これからもキーラに服従を誓うよ」
「それって下僕が言うことよね。私はノアの主じゃないんだけど?」
「ははっ、そうだな。でも、心の底からそう思うんだから仕方ないよ。キーラが望むなら、畑仕事も料理もなんだってするよ」
お世辞でも冗談でもなく、ノアの言葉には幸せが溢れていた。
私が望むのは、ノアの幸せだ。私と歩むことのない幸せな未来。でもそれはノアが望むことではないし、私がノアを拒めばノアが悲しむこともわかっている。この解けることのない心の行方をどうすべきなのか、嫌でも答えを選ぶ時がやってくるのだろう。
「俺はキーラを必ず手に入れるから、覚悟してくれよ」
「本当、いつも自信満々ね」
「自信なんてあるわけないだろ」
そう言った声はいつになく真剣だった。真っ直ぐに向けられた目には確かに不安が滲んでいる。愛おしさと苦しさが入り混じる、強烈に惹きつけられる目に思わず息を呑んだ。
「いつも不安だよ。キーラは強くてかっこよくて綺麗だから、他の男に取られるんじゃないか、俺がのんびりしてたらいなくなってしまうんじゃないかって。だから、自信があるって見せないと強くいられないんだ」
「そう、だったのね。ごめんなさい」
「キーラは男心がわかってないな」
逸らした横顔には確かに寂しさが滲んでいた。少し申し訳なさから押し黙っていると、拗ねていた表情が一変。いつものように明るく笑って、こっちを見てと誘うように私の頬に指先で触れた。
「ディオーネの出した条件とは関係ないが、アーデンの墓を探している間に、もう一つ解決しておきたいことがあるんだ」
「何か気になることでもあるの?」
「キーラの過去のことだ。いつか一緒に、陛下に会いにこう」
ノアの優しい言葉をかきけすように、父に言われた言葉が耳の奥で響いて心に突きささった。10年前、全てを捨ててきた場所に戻ることを、私の体は心以上に拒んでいた。
「そ、そんなの必要ないわ! 私はあの場所を捨てたの。戻るつもりはないわ!」
「ディオーネも言ってただろ? キーラは過去の自分から逃げてるって。俺を拒むのは、その過去のせいなんじゃないかって思うんだ。だからいつかキーラが生きていることも、俺がずっと守り抜くことも伝えに行きたいんだ。それだけじゃない。お母さんの死の真相もちゃんと明らかにしよう」
どんな言葉も、今は鋭いナイフのようで耐えられなかった。
全てから逃げたくて目を背けたくて、力いっぱいノアを突き放した。それでもノアは暴れる私の腕を優しく掴んで引き寄せる。泣きそうになる私を真っ直ぐに見下ろしながら、ノアの両手がスッと首筋を撫でる。逃がさないと言わんばかりに首の後ろを掴む手がいつにもまして熱くて力強かった。
「キーラ、大丈夫。ずっと傍にいるから――」
言葉が途切れると同時に、私達の距離が縮まっていく。
二人の間にある空気が一瞬にして甘さを増した。手を伸ばして突き放さなければ、逃げなければ。そう思うよりも早く甘さに引き寄せられる。
逃げなきゃ、拒まなきゃ。繰り返される言葉に合わせて、私とノアの鼻先が触れ合った。その瞬間――ノアの体は青白い光に包まれ、あっという間に蝶の姿に戻ってしまった。
目の前まで迫っていたノアの顔が消え、蝶になったノアがヒラヒラと羽ばたいている。気まずさと恥ずかしさが怒りに変わって体中を駆け巡った。
「どうしていつも妙なところで変わるのよっ」
「キ、キーラ! ごめんっ! あぁ、どうしてこんなところで呪いが……」
「今度こそ、呪ってやるわ! 服従したいっていうなら言うこと聞きなさいよ!」
「あぁ! キーラ、今は勘弁してくれ! 翅がっ」
逃げ惑うノアを追いかけて、私は夜の街を駆け回った。
こんな日々がいつまで続くのか、先が思いやられる。願わくは、呪いが解けて笑顔で溢れる未来が訪れますように。
【FIN】
瓶詰伯爵は常闇の魔女さんに服従したい 野口祐加 @ryo_matsuba
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