第1話
彼女を好きかと問われたら、私はたぶん嫌いと答える。
「ヘアピン忘れちった。貸してー」
優勝を争う試合の直前だというのに、私のスマホにそんな緊張感の欠片もないメッセージを投げてよこすような人物だ。
我が校の女子バレーボール部を応援する老若男女の一団から距離を置き、観客席の隅っこで試合が始まるまでの待ち時間を最近ハマりだしたリズムゲームに興じて有意義に過ごして私は、大きくため息をついてから、イヤホンを無造作に引っこ抜いた。
試合を見に行くなんて彼女には一言も伝えていない。それなのに、私が会場にいることを前提にしたメッセージを投げてよこすような人物である。遠慮を知らない図々しさも兼ね備えており、私は彼女のそういうところがあまり好きじゃないと、現在進行形でそう思える。
唐突に応援団の練習が始まった。いや、イヤホンをしていたから気付かなかっただけで、練習はずいぶん前から始まっていたらしい。音頭を取るのは我が校唯一の体育大学出身の教師である池田先生だった。学生時代は応援団に所属していたこともあるらしく、我が校の運動部が大会等で躍進する度にどこからともなく試合会場に現れては即席の応援団を結成し、誰よりも声を張り上げていることで有名らしい。先週末に行われた準決勝も、MVPは池田先生だと私は密かに思っている。
十何年ぶりの快進撃に、急遽集められた応援団はまさに色とりどりだった。父親、母親、兄、姉、弟、妹、おじいちゃんに、おばあちゃん。地元のOBと思われる世代ごとに分かれた幾つかの成人女性のグループや、選手の友人と思われる現役の女子高生グループもいくつか確認できる。そんな中でも一番の大所帯は、同大会を二回戦で敗退した男子バレーボール部の面々だった。おそらくは池田先生に召集されたのだろう。渋々ながらも観客席の最前列で黄色いメガホンを握っている。
それに対して、向かい側の観客席に整然と居並ぶのは対戦校の応援団。勇壮にたなびく横断幕。華やかに舞うチアリーダー。雄々しく響く応援歌。コート上で試合前の練習が行われる中、偶発的に始まった応援合戦は早くも我が校の敗色が濃厚だった。
そんな応援団を横目に、私はこそこそと観客席を降りていく。非常口の誘導灯が灯る通路に出ると、そこから体育館の入口に戻り、案内板の前で一度立ち止まってから、選手の控え室がある通路を進んでいく。
控え室前にいた彼女はすぐに見つかった。というより、私よりも背の高い人間ばかりが行き交う通路をウロウロしていた私の方が先に彼女に見つかった。
「ちっちゃいから逆に目立ってたよ」
「うるさい」
出会いがしらに彼女のお腹に弱パンチをお見舞いすると、拳にうっすらと腹筋を感じた。鍛え過ぎだこの女子は。
私の頭から勝手にヘアピンを抜き取りながら、こんなことも彼女は言う。
「やっぱ前髪下ろしてた方が可愛いよ」
「うるさい」
もう一発弱パンチをお見舞いする。それでも彼女はニヤニヤしたまま、私のことを見下ろしている。ヘアピンから解放されて視界に垂れてくる前髪が鬱陶しかった。
クラスで一番背の低い私と、クラスの女子では一番背の高い彼女が並んで立つと頭一つ分ぐらいの差が生じる。そうして常に私を見下ろしながら小馬鹿にするようなことを言うので、彼女はこれまで何十発という私の拳をそのお腹で受けている。もしかしたら彼女の腹筋を分厚くしてしまったのは私のせいなのだろうか?
たるんだ表情を見せる彼女の背後を、対戦校の選手と思しき長身の一団が真剣な表情で通り過ぎていく。彼女よりも長身の選手が何人もいた。ぱっと見でも分かるほどに引き締まった身体つきをしていて、見るからに強そうだった。
「勝てるの?」と聞くのは野暮な気がして、私は別の質問を彼女に投げかけた。
「なんで私が来てるってわかったの?」
「昨日、みんなと教室で話してる時、興味ありそうな顔で聞き耳立ててたから」
今度は無言で弱パンチを連打する。痛くもないくせに痛い痛いとにやけながら身をよじる姿は、お世辞にも可愛いとは言えないし、かえって余計に腹が立つ。
そんなことをしていると、彼女の後ろで控え室のドアが開き、彼女と同じユニフォームを着た女子達がぞろぞろと姿を現した。
「絵美、そろそろ行くよー」
背番号1番を付けた先輩に名前を呼ばれた彼女が間延びした声で返事をする。
「行ってくる。応援よろしくね」
「別に応援しに来たわけじゃなし。見学しに来ただけだし」
「はいはい。じゃあかっこいいとこ見せなきゃね」
前髪をヘアピンで留めた絵美は、何が嬉しいのか、浮ついた足取りでコートへと駆けていった。
「北沢のり子ー」
名前を呼ばれて、教卓の前に進み出る。
「後半ちょっとあれだな」
あれってなんだ、と思いながら受け取った答案用紙を一目見て、私はその言葉の意味を理解する。
61点。
目標としていた80点にはほど遠い成績。自分で思っている以上に頭が悪いことは自覚しているつもりだったけど、それでもやっぱり少し落ち込んだ。特に後半に居並ぶ応用問題は全滅だった。
よくよく見れば、応用問題の中にも△採点が一つだけあった。計算式の途中までは合っているけれど、最終的に誤った回答をしている設問が一つ、絶望的な状況下でも貴重な1点を稼ぎ出している。
「……」
正直いらないと思っていた。私にそんな情けをかけるぐらいなら、視界の端でおびえた猫のように背中を丸めている絵美にその1点を与えて欲しかった。
菊池絵美。出席番号が一つ前の彼女には赤ペンの筆跡が嫌でも透けて見える答案用紙と共に「惜しかったな」という言葉が掛けられていた。それが先日の試合のことなのか、今回のテストの結果に対してなのかはわからないけれど、答案用紙で顔を覆いながら私の右斜め前の席に崩れ落ちた絵美を見て、彼女が赤点であることを私だけでなくクラスの全員が確信した。数学のテストが終わった直後に「やばい」「あぶない」「死ぬ」と騒いでいた絵美の姿は記憶に新しい。
体育会系の絵美は総じて勉強が得意ではない。私はどちらかといえば得意でも苦手でもなくフツーな方なので、こういう場合、どう声を掛ければいいのかがよくわからなかった。大した成績でもないくせに見下していると思われるのも嫌だし、同情するにしても今回ばかりは点数の差が開き過ぎていて嫌味の要素が強くなる。いっそ小馬鹿にするぐらいの方がちょうどいいのかもしれないけれど、私はそこまでの図々しさも優しさも持ち合わせていなかったので、いつも通り静観することにした。
「赤点の者は今週末に再試験な。今から解説するから、しっかりノートに写しておけよー」
採点結果を配り終わり、続いてテストの解説が始められる。
数学を担当する藤原先生は、無駄にマッチョな体格をしており、黒板をなぞるチョークの筆圧が異様に強いことで有名だった。手始めとばかりに白のチョークを真っ二つに折って見せる。「すまん」と言って、折れて半分になったチョークで板書を再開する藤原先生は反省をしない。日直の私が今朝補充したばかりの新品の赤いチョークが無残に折られたのを見て、私はノートに書き写す手を止めて、鼻から大きく息を吐いた。
息をするついでに絵美の方を見る。その背筋はぴんと伸ばされて、珍しく真面目に板書をノートに書き写している様子だった。その後ろの席ではクラス一小柄な男子である秋山君が、長身の絵美に視界を遮られ、黒板を見るためカメのように首を伸ばしては、眼鏡を掛けた陰気な顔を左右に揺らしてた。
「お互い難儀ですなぁ」と心の中で同情しながら、私もまたカメのように首を伸ばして、憎たらしい筆跡を追いかけ始めた。
休み時間。
私は教壇の上でぴょんぴょんと飛び跳ねていた。
多少の恥ずかしさはある。背中にクラスメートの視線も感じる。でも跳ばないわけにはいかなかった。そうでもしないと、一番高い位置に書かれた文字まで私の手は届かないのだ。
次の授業のために黒板を消すのは日直の仕事であり、それは背の低い私にとってかなりの重労働だった。
特に数学の授業の後は過酷を極めた。マッチョな筆圧で書かれた文字は一度撫でたぐらいでは消えてくれない。特にチョークが折れた場所なんかは黒板に穴が開いて粉が詰まっているんじゃないかと思えるぐらいに強固にこびり付いている。何度も同じ場所でジャンプをして、たまに目測を見誤って空振りしたりして、ようやく綺麗に消えてくれる。
黒板消しもすぐに真白になってしまう。飛び散った粉がジャンプの反動で頭上に降り注ぐのを避けるためにも、こまめに廊下に設置された黒板消しクリーナーを使う必要があった。
以前、こうして飛んだり跳ねたりしているのを見て、絵美が手伝おうとしてくれこともあったけれど、私はとびきりの笑顔で断った。昔から、誰にでも出来るようなことで誰かの手を借りることが嫌いだった。絵美のように身長が高ければ苦も無くこなせるのだろうけど、チビでもできるところをニヤニヤしていた絵美に見せつけてやりたかったのもある。
今日の絵美は休み時間になっても数学のノートを広げたまま、野次馬のように机を囲むクラスメートに分からない部分を質問しているようだった。再試験のチャンスを逃せば長期の補習が待っているので、必死なのだろう。珍しくその表情には余裕がなくて、私は少しだけ気分がよくなった。
私は最後の一文字をぐりぐりと消して、廊下に出る。ドアは開け放たれたままなのに、不思議と教室の喧騒がずっと遠くに感じられた。
始業のチャイムが鳴り始める。
私はまだ黒板消しクリーナーを喧しく鳴らしていた。
絵美と話す機会もないまま、昼休みを迎えていた。
そもそも絵美とは普段学校で会話をすることがあまりなかった。
クラスでも友達が多い絵美は、休み時間の度に誰かが机に遊びに来ており、陰気な私がそこに割り込むようなことができるはずもなかったし、そんな蛮勇を奮ってまで絵美との会話を熱望するような関係性でもなかった。
今日に限っては数学の点数が気になっていたけれど、絵美を囲むクラスメート達のよく通る話し声のおかげで本人から聞く必要もなくなっていた。
29点。
それが絵美の数学の点数だった。
たった1点。
私が余計な1点を取ったせいで、絵美が赤点になってしまったのだろうか。そんな馬鹿な。でも運命は残酷って言うし。だとしたらどんな因果があってそういうことになってしまったのだろう。絵美に貸したまま返ってこないヘアピンの代わりにあの1点が私のところに転がり込んできたという可能性もあるかもしれない……いやそれはさすがにこじつけが酷い──なんていう益体のないことを考えながらお弁当を食べていると、昼休みの間だけ電源を入れているスマホがチカチカと光った。
「今日の放課後ヒマー?」
絵美からだった。メッセージには得体の知れない動物のスタンプが添えられていて、意図するところは皆目不明だけどそれもいつものことなので、深く考えるのはすぐにやめた。
絵美の姿は教室にない。おそらく今頃は隣の教室で、右手にパンを、左手にスマホを握っている。
パン派の絵美は昼休みになると購買部へと走り出す。毎日飽きもせず焼きそばパンを買うと、隣の教室へ赴き、別のクラスのバレー部の子とお昼ご飯を食べている。一年生のときからその習慣は続いていて、今さら変えられないことも知っている。
私はというと、いつも自席に留まり、前の席の松永さんと一緒にお弁当を広げ、オタクな会話を嗜みながらお昼休みを過ごしている。最近ハマっているリズムゲームも松永さんから勧められたものだった。
「暇」
返信を終え、冷凍食品の唐揚げを口に運ぶ。その唐揚げを飲み込むよりも早く、絵美からメッセージが返ってくる。
「じゃあいつものところ行こう」
いつものところ。通学路をちょっと外れた県道沿いにあるファミレスのことだ。
「いいよ」
「ちょっと部室に寄ってくから、現地集合で」
了解の意味を込めた可愛いスタンプを送信すると、また謎の生き物のスタンプが送りつけられてきた。その奇抜なセンスはまだまだ理解できそうにない。
「菊池さん?」
スマホを覗き込むこともなく、松永さんが見えない相手を言い当ててくる。クラスメートの中で、私と絵美の距離感を正確に測れているのはたぶん松永さんだけだろう。テストの成績は私とあまり変わらないのに、変なところで勘がいい。
「放課後ちょっとね」
それを聞いてニタニタする松永さんを半眼で睨みながら、冷凍食品のオムレツに箸を突き立てる。ケチャップがかかっていないので、無味に近いたまごの味しかしなかった。
母はいつもケチャップやらソースやらをかけ忘れる。でもそんなことでクレームを入れたらお弁当を作ってもらえなくなるので、味気なさを覚えながらも私はいつも好き嫌いせず、お弁当の中身を空にする。それでも身長は伸びてくれない。栄養以外の何かが足りないのかもしれないけれど、それを考えるのはもう飽きている。
「ぁ。菊池さんと言えば、この前の試合ってどうだったの? 決勝戦、見に行ったんだよね?」
「うん。惜しかった」
負け。という言葉を使いたくなくて、そんな曖昧な言い方しかできなかった。それでも勘のいい松永さんなので、私の言いたいことは簡単に理解してくれる。
「そだったのかぁ。残念だね」
「相手が全国常連校だもん。結構いい試合はしてたと思うけど」
「菊池さんはどんな感じだったの?」
「スパイクが何回もブロックされてた。サーブも何回か外してた。あと、レシーブしたボールが顎に当たって痛そうだった」
松永さんが困ったような表情をしていたけれど、私は特に気にしなかった。
「……よかったところは?」
「……声はよく出てたかも」
「そうかぁ」
そう言って、松永さんはケチャップたっぷりのオムレツを気怠そうに口に運んだ。
制服姿のまま、一人で店に入るのはまだ少しだけ緊張した。県道沿いに店を構える学生に人気のファミリーレストラン。応対してくれた笑顔の似合わない店員に後からもう一人来る旨を伝えると、歩道に面した窓際の席へと案内された。
絵美と待ち合わせをするときは、なぜかいつも窓際の席に案内された。待ち合わせをしている相手から見えやすいようにという接客マニュアルがあるのか、店員個人の気遣いなのかはわからないけれど、人目が気になるので窓際はあまり好きじゃなかった。かといってそれを露骨に口にするような我儘な客にもなれず、大人しく席に着いた私は、前髪を留めるヘアピンを外して、学校にいるときとは違う別の自分を装った。
メニューを開くと、長い前髪が視界の半分を覆っていた。
最後に髪を切ってからどれくらい経っただろうか。鏡に自分以外の人間が一緒に映るのが好きじゃない、そんな理由で髪をだらだらと伸ばしているなんて絵美に知られたら、きっと笑われるに違いない。
水とおしぼりを運んできた店員に、ドリンクバーとケーキセットを注文する。チーズケーキは好物の一つだけど、今日は無性に甘いケーキが食べたい気分だったので、フォンダンショコラを選んでみた。
上着のポケットから取り出したスマホをテーブルの上に置くと、直ぐにLEDがチカチカと光った。
「着いたー」
絵美からだった。気配を感じて窓の方を見ると、何が楽しいのか笑顔で手を振る絵美の姿があった。無反応のまま目を逸らすと、手元のスマホがまたチカチカと点滅する。
「無視すんなー!」
怒った顔の絵文字付きだった。間もなく、店内に現れた絵美もそれと同じような顔をしていた。
「手振ってるのに無視するの酷くない?」
「だってなんか恥ずかしいし」
文句を言いながら向かい側の席にのしのしと腰を下ろした絵美の息は乱れていた。
「走ってきたの?」
「うん。待たせちゃ悪いと思って」
「絶対そんなこと思ってないでしょ」
そう言うと、絵美は屈託なく笑ってから、開いたメニューの裏に顔を隠した。
一足先に私の前に運ばれてきたフォンダンショコラを見て、「それ美味しそう」と言いながら絵美が頼んだのはミートドリアだった。
「この時間にご飯物とか食べて大丈夫なの?」
「今日はいいの。食べないと持たないの。精神的に」
ドリンクバーのスタンドからジンジャエールをなみなみと注いできた絵美は、炭酸をまったく苦にしない様子でぐいぐいと飲み始める。
「……何か嫌なことでもあったの?」
「知ってるくせに! 赤点のことだよー」
「29点」
「点数まで知ってるじゃん! なんだよもー、傷心の私をイジメて楽しいのかよー」
「楽しいって言ったら怒る?」
「超怒る。そんでそのケーキ超食べる」
「じゃあ言わない」
絵美からケーキを遠ざけつつ、フォークで小さく切ったフォンダンショコラを口に運ぶ。思っていた以上に甘くて、正直、食べきれる自信はあまりなかった。
「追試っていつやるの?」
「金曜日の放課後だって」
「今週の?」
「うん。今週の」
「今日入れて3日しかないけど大丈夫なの?」
「大丈夫だと思う?」
真顔で聞かれたので、私も真顔で答えることにした。
「どうしよう、全然思えない」
答えを聞いた絵美の顔は少し引きつっていた。何かを必死に我慢しているようだ。えらいと思った。
「そういうわけだから、勉強教えてね」
「……ここで?」
「そのためのファミレスですよ、のり子さん」
なぜか「さん」付けで私の名前を呼び、鞄から数学の教科書とノートと早くもぐしゃぐしゃになった29点の答案用紙を取り出すのり子を、私は冷めた目で眺めていた。
「別にいいけど。私もあんまりいい点数じゃなかったよ、応用問題とかダメダメだし」
「じゃあ、それも含めて一緒に勉強しようっ。あ、でもその前にちょっと甘いもの食べたい。一口でいいんだけどなぁ、何かないかなぁ」
下手くそな芝居と共に期待の眼差しを向けてくる絵美。その光景を、垂れた前髪の奥から呆れた眼差しで眺めていると、絵美は何かを思い出したように「そういえば」と言いながら再び鞄の中に手を突っ込み、ごそごそと始める。
「ヘアピン返すの忘れてた」
鞄のどこにしまっていたのか、おもむろに差し出されたヘアピンは確かに私の物だった。先日の試合のときに貸したままになっていた、シンプルな黒のヘアピン。絵美に貸した物が「返せ」と言う前に、戻ってくることが珍しくて、私はいたく感心していた。
「でもやっぱりのり子は前髪下ろしてる方が可愛いよ」
「……うるさい」
差し出されたヘアピンと交換するように、半分近く残っているフォンダンショコラが乗った皿を絵美の方へ滑らせる。もう甘いのは充分だった。
「……食べていいの?」
「あと全部あげる」
「やった! ありがとー! ドリア来たら一口あげるね!」
「それはいらない」
幸せそうにフォンダンショコラをフォークで突く絵美を見ていて、私はあの日、言えなかった言葉を思い出していた。決勝戦で敗れ、柄にもなく涙する絵美に、言えなかった言葉。この場で言うべきなのか少し悩んだ後、他のどのタイミングで言えばいいのかもわからなかったので、私はその言葉を口にした。
「準優勝おめでとう」
私の言葉に、絵美は一瞬ぽかんとした後、何を思ったのかフォークを咥えたまま、はにかむように笑って見せた。
「なに笑ってるの」
「いやぁ、恥ずかしながら、なんかすごい嬉しかった。あとこれ美味しい」
「……そ。よかったね」
受け取ったヘアピンで前髪を留めると、晴れた視界が目の前に広がる。だらしない笑顔を見せる絵美の輪郭も、いつもより近くに見えた気がした。
non-sugar 東雲そわ @sowa3sisu
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