non-sugar
東雲そわ
プロローグ
体育館の床を蹴り、飛翔する彼女を、私の眼は無意識に追っていた。
空中で静止しているかのような滞空時間、空間から切り取られたように整った姿勢。しなる指先から打ち出されたボールが相手のコートに落ちるまでの時間が、私にはとても長く感じられた。
「ちょっとー! 全力禁止ー!」
相手コートから非難の声が上がり、続いてコート全体から笑い声が湧き起こる。
バレー部エースの彼女は、体育の授業での全力プレーを禁止されていた。試合前に交わした「サーブは下から打つ」という約束を、熱の入った彼女はうっかり忘れてしまったらしい。
顔の前で手を合わせ、相手コートに謝る彼女を、同じコートの女子達が「もう一本!」と囃し立てる。その光景を、私は一人、コートの外から眺めていた。
今日の体育はバレーとバスケの選択授業で、私はどちらの選択肢も選べないまま、仮病を使って見学をしている。体育館の隅で、体育座りをして、クラスメートが興じる球技を見上げている私は、ひどくちっぽけな存在に思えて、少し肌寒かった。
クラスで一番身長の低い私には、どちらを選んでも苦痛な時間になると思えたのだ。チームプレーが重要な競技で、私はそこにいるだけで足を引っ張る存在になってしまう。
運動神経にもあまり自信がなかった。見学するのは慣れているし、スポーツを見ているのは嫌いじゃないから、私にとってはこれが最善の選択肢だと自分に言い聞かせて、チャイムが鳴るのをただ静かに待ち侘びている。
「ピンチサーバー」
鬱々とした気持ちが表に出ないように、顔を伏せて縮こまっていると、不意にすぐ傍で声がした。
顔を上げると、目の前に彼女がいた。
「……ぇ?」
「私の代わりに、サーブ打ってくれない?」
突然の申し出に、困惑した。
高校二年になって初めてクラスメートになった彼女とは、ほとんど会話をしたことがなかった。
声を掛けられただけでさえ只事ではないのに、彼女の代わりを務めるなんて、私には到底無理だし、不釣り合いだ。
私の前に屈み込んでいる長身の彼女は、それでも私にとっては見上げるほどに大きく、眩しい存在だった。
「私、見学だから……」
「一回だけでいいから、お願い」
自分でも無理を言っている事に気がついたのか、一瞬だけ申し訳なさそうに表情を曇らせたものの、それでも諦めずに再び笑顔で私にボールを差し出してくる。
断る勇気がなかった。
ジャージの袖から覗く悴んだ手が、気付けばボールを受け取っていた。
彼女に促されるように立ち上がり、コートのライン際に立つと、クラスメートの視線が私を襲った。
動けない。見学は真面目にしていたし、彼女以外のクラスメートがサーブを打つ場面も見ていたはずなのに、身体をどう動かしていいのかわからなかった。
「左手にボールを持って、右手はグーにして」
囁きかけるような彼女の声が、すぐ背後から聞こえてくる。さっきまで体育館に響かせていた溌剌とした声ではなく、とても優しく、穏やかな声で。
「ボールを軽く宙に上げて、落ちてきたところをグーで打ち上げればいいよ。力加減は……いいや、思いっきりやっちゃえ」
横目で見ると、彼女の屈託のない笑顔がそこにあった。
私の肩をポンポンと叩く彼女の手は、想像していたよりも小さくて、指先に巻かれた猫のキャラクターの絆創膏がとても愛らしかった。
彼女の熱が私の強張った身体を溶かしていくように、不思議と緊張はなくなっていた。クラスメートの視線も、もう私の胸の奥には届かない。
彼女が私から離れた位置に移動するのを待って、笛が鳴り、プレーが再開される。
私は深呼吸をしてから、左手でボールを宙に上げる。その瞬間、彼女の見ていた景色が、私にも少しだけ見えた気がした。
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