第6話 Karte6~伝えるのも苦手です
また牧野様からのクレームが頻繁に入るようになった。今度は妹の肌トラブルだという。花粉症で荒れだした目元に塗ったクリームが合わなくてひどい痛みを伴っているというのだ。
「大変ご迷惑をおかけしております。誠に申し訳ございません」
『パッチテストもして大丈夫だから塗ったのにって言っていたのよ?去年も同じ商品を使っていて問題なかったのに今年すごい荒れちゃったって。どうしたらいいのかしら、お宅はどう対応してくれるわけ?』
とりあえず責められた。いつものようにサンプルや商品を送れという催促とは違う。ただ文句と愚痴を当てつけたい、そんな感じのクレームだった。
『謝れって言ってるわけじゃないの。妹も辛い思いしているのよ?わかるでしょ?目元の荒れなんか女からしたら鏡見るたびに落ち込まない?化粧はできないし、花粉症の薬とも反応するのか発疹まで……(以下略)』
結局四十分ほどクレームをぶつけられ、精神的に疲労した。昼前にかかってきた電話で昼休憩も挟めず、昼抜きで仕事を再開してその日はぐったりして帰った。翌日も同じように牧野様から電話がかかってきた。送られてきたサンプルが違ったという。間違いの証明がきちんと取れてしまいまた謝る。ついでのように妹のクレームを追加され電話を切ったときに頭痛がした。間違いなく疲れとストレスから来ている気がした。トイレに行って鏡を見たら右下がまた腫れている。その腫れと疲れた顔を見て百合は泣きたくなってきた。
(私の人生ってこのまま謝って過ごしていくだけなんだろうか)
処方されている痛み止めを飲もう、そう思ってポーチから痛み止めを出したら手を滑らせて洗面の排水溝に落としてしまった。
(――最悪)
あと薬は一錠しかない。しかもその一錠は家に置いてきている。この痛みを抱えたまま定時まで仕事を続けないといけないと思うだけで余計に痛みを感じてしまう。
次の歯医者の予約は明後日だ。家にある痛み止めを飲んだら手元に残るのは市販の痛み止めだけ。三嶌から処方された頓服薬はよく効いた。いまさら市販薬を飲んでもほんの気休めにしかならないと百合自身が気づいていた。
(明日は休診だから、お薬だけもらいに行こうかな……)
本音は三嶌の声が聞きたくなっていた。あの優しい声で「大丈夫だよ」と言ってほしい。百合はそう思ったことが恥ずかしくて同時に胸が痛くなった。
三次元の世界でときめくのは慣れていない、先生に変にときめくのはやたら現実離れした人だからだ、百合はそう思っていた。
三嶌はいつでも百合に大丈夫、と声をかけてくれた。その言葉は実は百合にとっては究極の癒しフレーズなのだ。地味で目立たない百合はいつでも人一倍努力して影で頑張ってきたタイプだった。そんな自分のしていることはなかなか人の目に触れることがなく、当たり前にスルーされてきた。頑張る自分は認めてもらえないのに出来ていないとがっかりされる。誰も気にかけない、百合のしていることは気にも留めてもらえない。
――誰も声をかけてくれない、寄り添われることに慣れていない。
(バカみたい、先生は患者相手だから言ってくれてるだけなのに。みんなに言っているし治療の一環、歯医者だよ?大丈夫って宥めるのなんか常套句じゃん)
けれど15時を回ると痛みがひどくていちいち仕事の手が止まりだした。百合は迷った末にクリニックへの電話番号を押した。
「あぁ、そうでしたか。いえ、大丈夫ですよ~、お忙しいのにご連絡ありがとうございます。次回のアポイントはどうされますか?はい、はい、では来週の同じ時間でご予約お取りしておきますね。はぁい、またお待ちしております~」
桃瀬は受話器を置いて今日のアポイント表を見てほくそ笑んだ。
(18時のでかいフラップオペが飛んだ……!これって今日の診察もう17時半のデンチャー調整で終わりってことじゃない?ラッキー!!)
「あ、先生FOPキャンセルになりました」
「そうなの?じゃあもう今日閉めれちゃうな。カルテ整理もしたいしちょうどいいなぁ」
「結局はやく終わっても先生は病院にいるんですよね~。たまには早く帰って下さいね」
三嶌とそんな会話をしていたら電話が鳴った。
「はい、みしまデンタルクリニックです。――笹岡様、はい、はい……はい」
チラリと横にいる三嶌を見る。三嶌もカルテを見てはいるが桃瀬の方に神経が寄っているのがわかった。
「少々お待ちくださいね……――先生、笹岡様、腫れてきたのか痛みがあるみたいで薬だけ処方してほしいそうですけど……「アポ取って」
三嶌はカルテから目は反らさなかったが、ぴしゃりと言い放ったので、桃瀬はキャンセルの出た18時で百合に来院を伝えた。
18時前に百合はまたビル前で立ち尽くしていた。突然の電話にも関わらず快く受け入れの返事をくれて嬉しいより申し訳なさが勝った。混んだ時間に迷惑な患者だな、自分のことをそう思いつつ病院の扉を開けたら待合に一人男性が座っているだけで静かなものだった。
(あれ、今日空いてる?)
「村瀬様~お疲れさまでした。保険証先にお返ししますね~、お会計ですが……」
相変わらず女子力高めのリア充そうな受付嬢が清算をしているのでこの患者がいなくなれば自分だけになるのかとなんとなく察知した。18時が最終受付だから自分が最後の患者になるのだろうか、そんなことをフト考えていると名前を呼ばれた。
「笹岡様~お待たせしました。お痛みどうですか?お薬なくなっちゃいましたぁ?」
「急にお電話してすみませんでした。会社で一錠落としてしまって……明日休診だし残り一錠では心もとなくて、すみません」
「いいえ~お電話くださってよかったです。ちょっとまた腫れてますもんね。すぐ入ってもらいますからお待ちくださいね」
「え、お薬だけもらいにきたんですけど……」
診察する風に言われて百合は面食らった。電話でも薬の処方を頼んだだけだ、けれど病院側はそんなつもりはなかったかのようににこやかに受け入れている。
「桃瀬くん、ごめん、このデンタル忘れてた。カルテに入れといて」
耳に届く声に百合の胸は瞬時に跳ねた。おそるおそる声の方に視線を送ると、マスクを首にかけて髪をかきあげながら受付に顔を出した三嶌に絶句する。
初めて見る三嶌の素顔――百合は息が止まるでもなく自ら止めた。それくらい驚いた。息などしていられない、そんな状態だ。
(んな!!もはや二次元レベルのイケメンだった!!こんなAIが作ったみたいな人間三次元世界に存在するの!?)
素顔を見て百合の二次元スイッチが押されるどころかむしろ爆破して壊れた。
「ああ、こんばんは……また腫れちゃってるね。可哀想に、もっとはやく来てくれたらいいのに」
「ああ、あの、突然すみません、くく、薬がもうなくなりそうでっ」
痛みもはもちろんあるけれどそれ以上に自分の心臓が持たない気がして百合はなおさら帰りたくなった。自分を今悩ましている痛みよりもひどい痛みをこれから伴いそうな気がしたからだ。
「桃瀬くん、もう奥入れるから導入して」
「はぁい、笹岡様どうぞ~」
どんどん診察のムードになる。靴を脱いだら最後だ、逃げるならこの待合に留まるしかない、百合は必死で抵抗しようとした。
「あのぉ!私、お薬もらいに来ただけなので、その……」
逃げようとする百合を三嶌がじっと見つめて言う。
「帰さない」
(ふわぁぁ!!かか、帰さないってリアルで聞くことあると思わなかった!!)
「大丈夫、痛いの取ってあげるからおいで」
三嶌の「大丈夫」に百合は瞬殺された。あの聞きたくて恋しくなっていた言葉をいきなり言われて心臓が跳ね上がった。しかもついでに、甘い声で「おいで」までついてきた。
百合はその場に腰を抜かしてしまう。
「ええ?!笹岡様!!だ、大丈夫ですか?」
桃瀬が驚いて駆けつけてくる。真っ赤になった百合が腕を取ってくれた桃瀬にしがみ付いて半泣きで訴えた。
「も、もういいです、あの、私帰ります、無理です。帰らせて、ください、お願い……」
「えぇ?どうしたんですか?ていうか立てます?大丈夫ですか?」
尋常ではない百合の様子に桃瀬もさすがにテンパった。香苗から聞かされていた妄想癖が悪化したのだろうか、そこまで三嶌がぶっ飛んだことを言った感じもしなかったが、百合が腰を抜かしたのは事実だ。とにかく体をさすって落ち着かせようとすると百合が言う。
「ちょ、ちょっと精神をまともに保てそうにないというか……せ、先生に殺されそうでっ」
「はぁ?!」
桃瀬が素っ頓狂な声を挙げて百合の吐いた言葉に驚いたら、背後で盛大に笑う声がした。
「あははは!」
「せ、先生?!」
三嶌が腹を抱えて笑っている。普段はクスッと笑うかニヤッと含み笑いするかそんなくらいの落ち着いた感情しか見せない三嶌が声を挙げて笑っている。桃瀬はそれにも驚いた。
「だ、だめです、し、心身状態まともじゃないです、ごめんなさい。多分私今、脈拍おかしくて、こんな状態で歯を抜いたらきっと血も止まらない気がして、し、死ぬと思います。ここで死んだらみなさんに迷惑もかけるし、きゅ、救急車?呼ばれたら困りますよね?病院の評判さえ落として……」
「笹岡様?!とりあえず落ち着きましょうか、ね?」
「まだ死にたくないとかじゃなくてここで死にたくないというか、いやでももうこんな非現実な世界で死ねるのはむしろ幸せなのかもしれないんですけど、でも……先生に人殺しの罪はきせたくないし、先生がそれでもし逮捕されたりしたらどうしようって……」
「さ、笹岡様!ちょっとだいぶ話が見えないんですけど?!」
百合の暴走に初めて触れた桃瀬は想定外すぎてはっきりいってお手上げになってきた。全くこちらの声が届いていないような気がする。しかも話はどんどん死を受け入れつつあってどうしたものかと思っている桃瀬の背後から腕が伸びてきた、と思ったら百合の顎がぐっと掴まれ親指が唇にふれた。
「ふあ!」
百合の間抜けな声が上がる。三嶌の手によって口を開けさせられていた。
「気持ちを待とうと思っていたけど、僕の方が待てなくなった」
三嶌が百合の潤んだ瞳を見つめながらまっすぐに言う。百合はその恐ろしく整った顔に釘付けになって見つめ返していると三嶌が言った。
「死ぬ覚悟があるくらいなら大丈夫、僕が全部受け止めて今抱えている痛みを全部取ってあげる。覚悟を決めようか?」
有無を言わさぬような三嶌の声だった。百合も桃瀬も息を飲んだ、それくらいドスが効いていたとも言える。
「――――はい」
百合はもはや意思をこえて返事をした、桃瀬は呆然として思った。
(えっーと、これは、親知らずを抜く話?だよね?なに?この二人……変)
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