第2話 Karte2~怖いのも苦手です

 17時の定時上がりをして駅前のビルを見上げて百合は立ちすくんでいた。



(どうしてチョコレートをあの時半分に噛んで食べようとしちゃったんだろう)


 百合の後悔する部分はそこではない気がするが、大きなキッカケになったのはあながち間違いでもない。



「ここね、先生優しいしおすすめ。しかもめっちゃかっこいいよ」



 医者にかっこいいはまったく必要ないと百合は思っている。



(そんなことよりも大事なのは患者に寄りそう気持ちだと思う)



 経験上、医者の中でも歯医者にいい出会いがあったことがない。幼少期はおじいちゃんみたいな頑固で怖い先生で、中学の時は我慢しようねと押さえつけるきつい女医だった。最後に通った先生は若い先生だったけど、百合の気持ちをことごとく裏切る医者だった。



(痛いって言っても聞いてくれなかったし、すぐに抜こうって言って怖すぎたし、最後は自費治療を勧めてくる金の亡者みたいな先生だった!!)


 男でも女でも歳がいってても若くても医者に期待ができない、百合は勝手に医者に絶望していた。


 銀歯が取れたのと奥歯の痛みがさすがに我慢できないのと、憧れる冴子が推す病院だからなんとかここまでやってきたがなかなかビルの中まで入る勇気が出ない。


 診察受付時間は18時までとある。まだ時間はあるがあまり帰宅が遅くなるのも困る。予約もしていないし歯医者は無駄に待たせるではないか。あまりここで時間を使うのは得策ではない、そうは思ってはいるが百合の足取りは重い。



(どうしよう、がんとか言われて緊急オペになって出血多量で死んだら……)


 また百合の妄想が始まった。


(歯医者でも血が止まらなくて救急車で運ばれたって話聞いたことある。ここから大きな病院ってどこになるっけ。この病院か運ばれた先で死ぬのかな。あぁどうしよう、こんなにドキドキしたら無駄に血圧も上がって血が止まりにくいとかにならない?どうしよう、歯医者で出血多量で死ぬとかどんだけ血が出るって話じゃん)


 妄想が暴走化してくる。



 ここに立ちすくんでもう15分ほど経過した。そろそろ覚悟を決めねばならない。百合は何度か深呼吸をした。



(い、行く)



 駅ビルは四階建てになる。商業ビルで一階はデパ地下風のおしゃれな総菜やオーガニック食材が入っているスーパー、二階は駅と直結していてドラッグストアやパン屋、ファーストフード店などが入っている。百合の向かう目的の歯科医院は三階だった。



(みしまデンタルクリニック……あぁ、いやだ)



 名前を読むだけで百合は嫌悪感を抱いた。ホームページさえ見ていない。とにかく変な先入観も持ちたくなかった。ホームページに悪いことなど書くわけがない、爽やかと丁寧だけを売りにして歯科医院は怖くないですよアピールしかしないのだ。怖くないですよ、という時点で怖いと証明している。同じ鋭利なものを武器にする美容室がそんなことを謳わないじゃないか。歯科医院は怖いところなのだ。言うほどにうさん臭さが増す、百合はそう思った。


 だからと言って口コミを見て評判を知るのはもっと怖い。人の感覚はそれぞれだ。過去に通った歯科医院だって評判がいいと聞いて行ったのにあの始末だ。なにひとつ当てにできない。百合が信用できたのは冴子の言葉だけだ。



「優しいしおすすめ」



 冴子がおすすめするなら信じよう、その気持ちだけでエレベーターに乗った。冴子がおすすめというから扉の前に立つ。ドキドキする胸を落ち着かせようと何度か息を整えているとピンポン、と軽快な音が鳴って百合は思わず悲鳴を上げた。



「ひゃ!」



 いきなり扉が開いた。開けたのはもちろん百合ではない。目の前にはとてもとてもイケメンの若い男性が立っていた。



「患者さん?予約……では、ない?ですよね?」


「あ、あの、すみません。予約してません……」



 そこまで言って男性の背後に目がいった。受付ロビーに人けがない。



(こ……これは)


 百合は思った。ここは人気がない歯医者ではないのか、と。



 時間は17時半、百合のように社会人や学生が通うにはこの時間帯しか難しい。普通ならそういった年齢層で賑わっていてもいいようなものなのに、待合に人がいない。並べられたスリッパもきれいに隙間なく並べられているのをみるあたりおそらく中も誰もいないのだろう。



(ヤブなんじゃない?ここ、ヤブ医者なんじゃない?この人、顔だけで患者を誘ってるもぐりの医者なんじゃない?!)



 冴子がかっこいいと言っていただけある。スラッとして爽やかなイケメンだ。ストライプの薄いブルーのシャツを着ているがここに白衣を羽織るのだろうか。こんなかっこいい顔をした先生がいるなら足蹴もなく通う女性は多いだろう。


 しかし、蓋を開けたらもぐり医者。待合がすべてを語っている。人気のない歯医者丸わかりではないか。顔に騙されて通ってみたものの口の中を荒らされてみんな通うことができなくなったのだ。そうに違いない、それ以外考えられない。今日は水曜日、休診日は木曜と聞いていたのに院内の様子がこれではほかに言い訳なんかないだろう。



 確信した百合はなんとかこの場を逃げるための口実を作ろうと必死になった。けれど心情と状況のパニックからまともな考えも浮かばず沈黙に負けて口走る。



「今日……お休みでしたか?」



 百合は目の前のヤブ医者(百合的に決定)に問いかけた。



(私はイケメンだからって絶対騙されないけど。こんな顔して油断させてゴリゴリ削って口の中血だらけにして歯を抜いて入れ歯でも入れさせようと思ってるんでしょ)


 心の中で毒づきながらも百合は気づく。



(でももし本当に人気がないではなく休診だったらもう仕方なくない?)


 ここまで来てなんだと思うが、実際帰るしかないなと開き直る気持ちにもなった。



(痛みもあるけど、我慢できないほどじゃないし明日になったら痛みも腫れも引いてるかもしれない。休診なのに予約もしていない私を診てもらおうとか厚かましい。わざわざ診察してもらって入れ歯にされるくらいなら帰った方が絶対いい、そうだよ、もう帰ろう)


 百合は心の中で都合のいいように整理してもう帰る気持ちを八割くらい固めだした。そんな百合の気持ちを察知したのかイケメンヤブ医者が病院の奥の様子をうかがいながら言う。



「ちょっと待ってくださいね。センセー」



(ん??この人が先生じゃないの?)



 病院の奥の方から微かに機械音が聞こえる。全くもって心地よい音ではない。百合からしたら包丁を研ぐ山姥でもいるのではないかと思うほどだ。



「聞こえてないかな。ところでどうされました?」



 いきなり聞かれて百合はためらった。言えばこのイケメンヤブ医者が自分の口腔内状況を知ってしまうことになる。そうすればもう逃げられなくならないか?百合はまだ逃げることしか考えていなかった。



「えっとぉ……その……」


「お痛みですか?初診?診察でいいんですよね?」



 矢継ぎ早に聞かれて百合の方が息を吞んだ。



(まずい、なんか問診ありきの手続きモードに入りだしている!!)


 八割固めた気持ちが抵抗するもののイケメンヤブ医者は遠慮もなく攻めてくる。



(必死だ!やっぱり人気がないから患者を取り入れようと必死になっている!もうこのヤブ医者に入れ歯にされる!!)


 百合の被害妄想が爆発しかけたとき、耳に新たな声が届いた。



あさひー、これマージンが取れにくいし、形成やり直した方がよくない?……患者さん?」



 奥からネイビーの白衣を着た新たなヤブ医者が現れた、と百合はまた青ざめた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る