痛くしないで!‐先生と始める甘い治療は胸がドキドキしかしません! -

sae

第1話 Karte1~痛いのは苦手です 

誤魔化し続けていた右下の奥歯が本格的に痛み出していた。


これはさすがに放置は厳しいかもしれない、とパソコンを打つ手を止めてそっと右頬を撫でた。




笹岡ささおかさん、コピー用紙の在庫ってもうなかったっけ?」


「いえ、まだ倉庫にあったと思います。私見てきますね」




 席を立つついでにロッカーへ寄って生理痛の時のために常備している痛み止めを飲もうと思った。




 笹岡百合ゆりは化粧品メーカーに勤務している入社三年目の事務社員だ。環境や仕事にも慣れて最近は大きなストレスもなく毎日を過ごしていたのだが、自社通販商品が人気を得てカスタマー対応を手伝うことになった。電話やメール、チャットが主な対応になるのだが、百合が担当するのは購入後のサポート対応。主に、使い方に関する質問や回答、クレーム、不具合に対する解決策の回答や提案など、客によったらなかなかストレスを感じる内容のことも多かった。




 基本は謝ることが多い。


 けれど百合の性格上、謝るということはさほど苦になることでもない。普段の生活でも反射的に謝ってしまうタイプだ。もともと内気で遠慮がちな性格は前に出ることを苦手とし、なるべく目立たないように過ごそうとしてしまう。自分は言えばモブキャラである、百合は自分のことを客観的にそう思っていた。もうすぐ二十三歳の誕生日、地味でパッとしない人生は今年もきっと変わらないだろう。そしておそらく更新される彼氏いない歴=年齢にももはや焦ることもなくなってきていた。




 そんな百合のもとに一週間前からかかってくるクレームのお客、牧野様からの電話はなかなかしつこかった。




『だからね、あれから一気にガサガサになっちゃったのよ』


「ご不快な思いをさせて申し訳ございません」


『もともと乾燥肌だからしっとりタイプを選んだのに、こんなことになったからショックで。でも高保湿タイプってのもあるじゃない?あれだったら大丈夫だったのかなって思ってるのよ!』


「さようでございますか、それでしたら一度高保湿タイプのサンプルをお送りさせていただくことも可能でございます。ただ、今お肌の状態がよろしくないのであれば一度診断されてから……『サンプルじゃなくてもいいわ、一度それも使ってみたいと思っていたからその商品そのまま送ってもらえないかしら』




(えっとぉ……牧野様は本当に肌が荒れてらっしゃるのかな……)




 当然そんな気持ちを吐けるわけもなく、百合はモンスターカスタマーの対応に疲れを溜め始めていた。


 そこへこの二日ほど前からの歯茎の腫れだ。これはストレスではないだろうかと思案しだしたら痛み出した右下の奥歯。


 虫歯か歯周病か。恐々ネットで調べてみると歯肉がんや腫瘍の原因もあるとある。




(が、がん!!しゅ、腫瘍!?手術??歯医者で手術?!)




 歯医者もしばらくご無沙汰である。それも前に行ったのは虫歯で痛さの限界が来たから行っただけだ。歯へのケアはシンプルでしっかり磨くことだけを考え、食べたら磨く、寝る前は磨くそれだけを意識しているが、基本それだけ。


 虫歯治療が終わればそのまんま。定期健診も行くべきだと分かっていても届いたハガキは見て見むふりをして今ではそのハガキがどこへ行ったかも知らない。


 苦手なのだ、病院自体が。なかでも歯医者は別格で苦手だ。むしろ嫌いともいえる。歯磨きだけをなるべく意識していたのは、歯医者へ通うのが嫌だったからなだけだ。




(あぁ、いやだなぁ、まずあの消毒液独特の匂いからして嫌なんだよぉ)


 百合は想像だけで身悶えた。




(あの椅子に座らされて待っている時間。横に金属のピンセットやなかなか鋭利な尖った器具が数本並んでいて、今からこれをあなたの口の中でもてあそびますよみたいに並べてさぁ、変態だよ、医者じゃなくて変質者だよ)


 医者を変態扱いしだして、だんだん百合の妄想が激しくなってきた。




(歯科衛生士さんか助手さんか、笑って首を絞めてくるし)


 それは汚れ防止のために着けられるエプロンなだけなのにひどく迫害妄想までついてきた。




(先生は問答無用で椅子を倒して視界を奪って口も聞けなくさせるんだよぉ)


 視界を遮るのはフェイスタオルをかけているだけで、喋れなくなるのは処置上しょうがないことである。




(痛くないようにするための麻酔とか言って結局は注射を刺してさぁ、それがそもそも痛いんだよ。あれ本当に麻酔なのかな、変な毒とか注入させてないかな。異様に痛いんだもん、絶対変な薬混ぜ込まれてる!)


 局部麻酔だから仕方ない。打たなければきっともっと痛いことに百合は気づいていない。




(麻酔で感覚なくさせていいようにしたいだけなんだよ。痛かったら手を挙げてって言うから、手を挙げたって麻酔効いてるからそんなに痛くないだろうって誤魔化して全く聞いてなんかくれないし、本当に痛いですって言ったらじゃあ麻酔追加しようってまた体内に何の薬かわかんないの注入して……あのウィンウィンいうマシーン、あれなに?なんであんな不快な音させるわけ?恐怖心煽るだけだし!それを問答無用で削ってさぁ……口の中を水攻めしてきて窒息させようとしてるんじゃないかな)


 あくまで処置の範囲の話、ましてバキュームで水を吸い上げて処置していて窒息するなどありえない。けれど百合からしたら暴行を受けているように感じているようだ。




(終わったらうがいもまともにできないほどにされる……)


 麻酔が効いているだけである。




 とりあえず痛み止めを飲んでから倉庫へ向かった。これで誤魔化せて痛みが治まれば万々歳だと思いつつコピー用紙を片付けている棚を開けていたら声をかけられた。




「百合ちゃん、ごめんね。席外してて。コピー用紙取りに来てくれたって聞いて」


 同じ部署の川澄冴子かわすみさえこが入ってきた。


冴子は百合よりも五歳年上で入社当初から指導係をしてくれている今では気心のしれた良き先輩である。




「いえいえ、全然大丈夫ですよ。でもこれでストックなくなっちゃったんで注文かけないとですね。なにかほかに備品在庫足りてないのなかったですっけ?」


「事務所戻ってから一緒に確認しよっか。それより、これ」


棚の扉を閉めて冴子の言葉に振り向いたら、冴子の手には金色の包装紙に包まれた有名ブランドのチョコレート。




「わ!どうしたんですか?」


「さっき営業さんにもらっちゃった。百合ちゃんチョコ大好きでしょ?一個だけどお裾分け」


「わぁーん、嬉しい!」




 不思議と奥歯の痛みも感じない。薬が効いてきただけだろうが大好きなチョコを目の前にした百合にはそんなことはもう気にもならなくなっていた。




「今内緒で食べちゃお?」


 冴子が楽しそうに笑うから百合も一緒になって笑う。冴子はとても可愛い。性格もだけれど顔も華やかで男女ともに好かれるタイプで、百合は仕事の先輩としても、同じ女としても目標にしてひそかに憧れていた。




「いただきま―す」




 四×四センチほどの少し大ぶりのチョコレート。一口で食べるには大きいし勿体ない、そう思った百合は半分にかじろうと奥歯で噛んだ。




〈ガリッ!!〉




「!!」


 とても嫌な音がした。同時に痛みも襲ってきて百合の顔が一気に青ざめた。




「ひ……ひたぁい……」




「な、なんか変な音しなかった?百合ちゃん?大丈夫?」




 心配する冴子の声が遠くに聞こえた。百合は口元を手で覆いながら口の中の違和感を探りながら舌を動かした。


 異物はある、先ほど噛んだチョコレートだ。けれどそれは次第に形をなくしていく。なのにまだ舌の上になにか異物が残っているのだ。




(な、なに?なんかいる……口の中になにかいるぅ!!)




 溶けて液体と化したチョコレートと唾液を飲みきり、口の中に残るものをティッシュの上に吐き出したらそれは現れた。




「うそぉ」




 ティッシュの上にはいつつけたかわからない銀歯が落ちていた。そして百合の奥歯は痛み止めを無視するほど痛みも伴いだしていた。


 そして悟るのだ、自分をもう誤魔化すことはできないと。その現実を受け入れたら百合の目に涙が滲んで冴子が心配そうに百合の顔を伺う。




「百合ちゃん?ええ、大丈夫?そんなに痛いの?」


「うう、嫌ですぅ……」


「え?」


 グズグズと泣き出した百合に冴子の方が慌てた。普段からさほど愚痴や弱音を吐かない百合がこんな風に子供のように泣き出したのが初めてだった。それほどまで嫌となる原因がなにか冴子にはまだわからなかった。




「百合ちゃん、どうしたの、なにがそんなに嫌なの?大丈夫?」


「あうう……きら、嫌い、嫌いなんですぅ……歯医者ぁ」


「え、あ……そっか。えー、歯医者嫌いなのかぁ」


 幼子みたいに泣き出した百合に冴子は若干呆れつつも、妹のように思う百合はやはり可愛くて。とりあえず抱きしめて宥めてやることにした。




 それから冴子は百合を説得することになるが、落ち込みまったく聞き入れようとしない百合をなんとか立ちあがらせて病院へ向かわせられたのは間違いなく冴子の手腕である。


 


 そして、百合の久しぶりの歯医者への通院が始まることになった。


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