第7話 Karte7~本物の恋は苦手です

浸麻しんまだして」



 カチャカチャと頭の上で金属音がする。百合は自分でも驚くほど落ち着いていた。椅子に寝転ぶ形になり、白い天井を見つめながら思う。



(先生になら何をされたっていい……)


 だいぶ誤解を招く言い方だが、今から始まるのは右下親知らずの抜歯である。



「だいぶまた腫れちゃったね。ストレスかな」


「へ?あ、そんな……気はしています。ちょっと仕事で……」



「薬は全部飲み切った?」


「いえ、結局一錠だけで……今日飲もうと思ったら落としてしまって残り一錠だけあります」



「そう、今日抜いたら多少腫れると思うんだけど、数日でちゃんと引くから少しだけ我慢してね。それが治まればこの腫れももう起きないはずだし」


「……はい」



「……怖い?」


 三嶌の目が優しくそう問うてくる。怖さがないは嘘になる、でもここに来る前に感じていたような嫌悪感や恐怖心はない。



「平気……です」


「大丈夫、痛くないように優しくするね」



(あぁぁぁーダメ、もう頭の中が沸騰しそう)


 百合はまた邪な妄想を始めている。処女の百合には敏感に反応してしまうセリフを三嶌がさらっというので身悶えた。



「!!」


 身悶えている瞬間にチクリとしてキューッと痛みが刺してきたがそれも一瞬だった。



「お口ゆすごうか、席戻すね」


 視界が天井から徐々に正面を映し出す。じわじわと右下に鈍い痛みが起きてきて百合は口の中の感覚が奪われていくのを感じていた。



(痛みはあったけど、思ってたより痛くなかった……)



「麻酔が効いてくるまで少し待っててくださいね」


 優しい三嶌の声に振り向く。



「なにかあったら声かけてね」


 そう言って診察室から出て行った。一人になった百合はぼんやりと思う。



(私……先生のこと、好き……)



 二次元レベルのイケメンだけれど、三嶌は三次元の生身の人間だ。百合と同じ世界に生きているはずだがとても信じられないくらいスペックの高い相手で、自分が好きになったところでどうにもならないのがわかっている。


 しかも自分は何人といる患者の一人だ。三嶌にとっては医師として向き合うだけのただの患者。歯を抜いて、穴が開いたところに金属を埋めれば終わるだけの関係だ。



(好きになった時点で失恋だ……)


 悲しい、その気持ちが一番に襲ってきた。


 恋なんかろくにしたことがない、だからこの胸の痛みさえ知らなかった。失恋するとこんなに胸が痛くなるのかと百合は初めて知った。



「気分悪いとかないですか?」


 背後から響く甘い声に首を横に振った。言葉を発することができなかった。



「席、倒しますね」


 椅子が動いて体が倒れ始める。このままだと三嶌に表情が丸見えだ、百合はそう思って口を開いた。



「タオル……してほしいです」


「……わかりました、じゃあ失礼しますね」


 白いタオルで視界が奪われた。これで三嶌に見られることはない、そして自分も見なくて済む。目が合うなんかとてもじゃないが無理だった。三嶌を見たら好きが止められなくなる、百合はそう思った。



「口開けて?」


 指示に素直に従う。三嶌のあの細い指が口の中に入ってきた。歯列をなぞるように触れてくる。歯茎と頬の間をすべるように撫でて奥歯に指の先が当たる。優しい手つきだった、子猫を撫でているように優しく触れられてそれだけで百合は胸がいっぱいになってきた。



「今からこの右下の親知らずを抜いていくので、痛かったりなにか感じたら遠慮なく言ってくださいね」


 グッと一瞬力が入った。視界を遮られ、耳と体にかかる振動だけで想像しようとするが今口の中で何が行われているのか見当もつかない。たまに体が揺すられた。でもそれもとても弱い揺れだ。痛みはない、しいていうなら口を開けている時間が少し長いと顎が疲れるな、それくらいの不快感しかない。それでも三嶌は定期的に顎を休める時間をくれたのでたいしたダルさでもなかったが。



 カチャカチャと音がする。三嶌の白衣が百合の猫っ毛に触れているのがわかる。


 とても距離が近い。


 三嶌の指が口の中にあって、手が顎を支えている。三嶌の体が自分に降りかかるように覆いかぶさってきているのだろう、百合はタオル越しでその姿を想像していた。



「痛くないですか?」


 三嶌の声が鼓膜に震える。



 痛くはない。歯を抜いているという事実が信じられないほど痛みはなかった。



 ――痛くない、大丈夫です



 そう言うつもりだった。



「痛いです……」



 胸が痛い――。


 どうしたらいいんだろう、痛くて痛くてたまらない。三嶌は言ったじゃないか、抱えている痛みを全部取ってあげると。なのに痛みは増すばかりだ。



 百合は思う。


 こんなに苦しい胸の痛みは知らない、好きになるより諦めることがこんなに苦しいなんて。二次元の世界で恋をして泣く子たちはこんなに辛い思いをしていたのか、自分は何一つ知らずに共感したつもりになっていた。



(知りたくなかった……こんなに辛いなら、痛いままでよかった。痛み止めもいらない、もう、腫れて膿んで腐っていったほうがマシだったかもしれない)



 触れられて傷つくなら、触れられないまま傷ついて痛い方がよかった。治っても痛いなら、治らないまま痛みを抱えている方がずっと誤魔化して生きていけるのに。



 痛みのせいにして……生きていけるのに。



 とたんに目の前に光が照らされて明るく真っ白になった。


 まぶしくて一瞬目を開けられなかったが、ゆっくりと瞼を開けると三嶌の瞳とぶつかった。


 三嶌はグローブを外して百合の目尻をそっと撫でた。百合は泣いていた、気づかぬうちに涙を伝いこぼしていた。



「終わったよ、席、戻すね」


 椅子が揺れて百合はまだ自分の脳内も寝たままになっているのに戸惑った。



「終わった」三嶌の言葉が頭の中で響いている。



(先生と私の関係もこうやって終わっていくんだ……)


 いろんなところが鈍く痛い。痛みを伴うのが現実だ、だから三次元は嫌だ、自分の感情をお構いなしで突きつけてくる。



「口、ゆすげる?」


 言われてハッとして紙コップを手に取り口に含んだが、感覚のない口元はぼんやりとして水を含みすぎてしまった。



「あ……」


 口元から水が零れ落ちる。



「すみませ……」


 言いかけてタオルが口元を覆った。マスクを外した三嶌が優しい瞳で見つめて口元を抑えるように拭いてくれる。とても近い距離だ、百合と三嶌の間にあるのは白いタオルだけ。


 見つめ合うだけで百合の視界が歪み始める。タオルがゆっくりと口元から外されたと思ったら、そのまま三嶌の顔が百合に近づいて柔らかいものが押し付けられた。



「――」


 百合は一瞬何が起こったのかわからなかった。


 くちびるの感覚はない、とにかく柔らかいなにか生温かいものがくちびるに触れた。


 そして三嶌の顔がスッと離れていく。



(いまの、なに?)



 放心状態の百合に三嶌はニコッと微笑む。



「覚悟は抜歯ばっしのことだけじゃないよ?」


「え?」



「僕ねぇ、結構愛が重い方らしい。まずは口の中、ここはもう僕のものだよね?」


 三嶌の長い人差し指が百合の口周りを円を描くようにくるりと回ってその指の動きを目で素直に追ってしまった。その指が目の前で止まったらそのまま手がそっと頬を包んできた。



(――え)



「次はどこを暴いていこうかな。心かな、身体かな……楽しみだな」


「あ、の、せん、せ……」


 百合はなんとなく異変を感じたがそれよりも事態についていけない。



「逃がさないよ?言ったよね?僕が全部受け止めてあげるって」


 三嶌はズイッと体を近づけてくる。口の中の感覚を奪われている百合はろくに話すこともできない。何か変なことを口走ったら舌でも噛みそうだ。ただ、三嶌の発する言葉に息を呑んでいる。



「大丈夫、もう痛いことなんかない」


 砂糖菓子のような甘すぎる笑顔でそのセリフを吐かれて、百合の心に弾丸を打たれたような衝撃が走る。



「出会った時から決めてた。今日から君はもう僕のものだ」



 開いた口が塞がらないほど驚く百合。麻痺した口元から涎が零れ落ちたことに百合は全く気づいていなかった。




「お薬はまた三回分出しておきますね~、えーっとぉ……消毒に来ていただきたいんですがぁ……」


 診察を終えた百合は受付で清算を済まして次回の予約を取るところだ。受付嬢が珍しく言葉を詰まらせているので首を傾げた。



「ちょ……ちょっとお待ちいただけますか?あ、先生!」


 ちょうど三嶌が受付に顔を出した。姿を見ただけで全身が火照る百合は視線をどこへやろうかとテンパってしまう。



「次回の消毒って……」


「明日で取って?」



(え?)



「……はぁ~い、時間はどうしたら……」


「彼女に聞いて?」


「と、いうことみたいです。笹岡様、ご都合のいいお時間で構わないので、いつ頃になさいますかぁ?」



(え?都合のいい時間ってどういうこと?明日は休診じゃ……)


 受付に置かれている卓上カレンダーを見ながら曜日を確認していると三嶌が声をかけてきた。



「今日抜いて明日ひどく腫れてても困るしね。様子も見たいしいいからおいで?」


 ニコッと微笑まれて百合の体は固まる。



「えっと……」


 とまどいと軽くパニック状態の百合を見かねて桃瀬が咄嗟にアシストする。



「お仕事のあとだと17時半くらいがベストですかね?もし痛みや腫れがひどいならいつでもお電話下されば先生はいてくださるはずなんで大丈夫ですよ、ね?」


 そう百合にではなく三嶌に確認を取る桃瀬に、百合はますますパニックを起こす。



「え!そんな私の都合で……」


「それでいいよ。なにかあったら電話して?」


 おそろしい程にスタッフとの連携が取れていて、百合が口を挟む隙もない。



「それじゃあ、明日。待ってるね」


 三嶌はそう言って院長室に消えていった。呆然とその姿を見送る百合を見つめる視線にフト気づく。受付嬢が神妙な顔で百合を見つめながら言った。



「笹岡様。もう無理です」


「は?」


 可愛い受付嬢が大げさにため息を吐いて首を大層にぶんぶん左右に振ってそう呟いた。



「先生がなんて言ったのかはわかりませんが、もう諦めてください。もう無理です」


 同じ言葉を繰り返されたことで百合もごくりと喉を鳴らした。



「諦めて先生の愛を受け止めてくださいね。ちょっと粘着質なヤンデレタイプですけど」



 ニコッと笑われて百合の体は固まったのだった。




~~Fin


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痛くしないで!‐先生と始める甘い治療は胸がドキドキしかしません! - sae @sekckr107708

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