第5話 Karte5~隠すのも苦手です
カチャカチャという金属物が触れ合う音を背後から聞くだけで恐怖心を煽られる。
百合は待合で待たされている間ですでに精神的に疲労していた。
(ワイヤー外れの患者で気分が良くなって親知らずを抜こうと張り切られたらどうしよう)
勝手な思い込みで百合は一人で気分を悪くしていた。待ち時間がより妄想を掻き立てているのだ。ため息をこぼすと背後から声をかけられた。
「お待たせして申し訳ありません。歯科衛生士の谷と言います。今日は先に歯ブラシ指導からさせてもらいますね」
「……よろしくお願いします」
ひどく落ち込んでいる百合の姿に香苗は余計な心配を始めた。
(なんだ?もしや笹岡様はすでに先生のことが好きなのか?黛様と先生のやり取りで変な勘違いをして落ち込んでいる?うそ、そういうこと?えー、全然ちがうよぉ!?それ本当に勘違いだからねぇ!!)
香苗も大きな勘違いをしている。
「普段どんな風に歯磨きされてます?」
香苗から歯ブラシを手渡された百合は遠慮がちにそれを受け取り言われる通り普段磨くように歯ブラシを歯にあてた。香苗は終始優しくブラッシングの指導をしてくれて痛いことは何一つなく、百合の心は次第に落ち着きを取り戻しつつあった。
「この左上が笹岡様は少し頬っぺた側に歯が傾いているのでここを磨くときだけは意識して丁寧に磨いたほうがいいですね。歯石がたまりやすくなります。タフトブラシっていう部分磨き用の歯ブラシもあるのでポイント磨きにはお勧めですよ」
「へぇ、いろいろあるんですね……私たいして歯磨きも意識して磨くよりかは虫歯ができないようにってことしか考えずに適当に磨いていました」
「それが一番大切じゃないですか。毎日規則的に磨くが基本です。初期段階の虫歯なんかは自力でも治せちゃうんですよ?まずはブラッシングです。フッ素入りの歯磨き粉を使って重曹水でお口をうがいするのもいいですよ~」
「ほぉぉ……それはなんと素晴らしいことでしょう」
(素直に聞いて可愛いなぁ、この子本当に二十三歳?学生みたいにウブでピュアって感じ)
素直に聞き入れる百合にほわほわした気持ちを抱いていた香苗だが、百合は単純に歯医者が嫌いなだけだから通わないなら万々歳!と、邪な気持ちで聞いているのだとは思っていない。そんなとき、“コンコン”と壁を叩く音がした。香苗と百合がその音に視線を送ると三嶌が目を細めて立っていた。
「TBI終わった?」
「あ、はい。オッケーです」
香苗が慌ててチェアーサイドを片付けだすと百合の体の硬直に気づく。
(え、めっちゃ緊張してるじゃん……もう絶対好きなんじゃない?これはもう恋による緊張と硬直に間違いないな!!)
香苗もまた百合への好感度が上がったことで興奮が暴走しかけていた。
「お待たせしてすみませんでした。あれから痛みどうでした?」
三嶌の問いかけに百合はしどろもどろに答える。
「少し……痛みはありましたけど先日よりはマシかなって……」
「歯茎はまだ腫れてそうですね。お口の中見せてもらえますか?谷くん、口腔内チェックするからついてくれる?」
「はい」
さて、と三嶌が椅子に腰かけてグローブをはめた。やはり長くて細い指だ、と百合は先日のことを思い出してそのきれいな手を見つめていた。あの指がまた自分の口の中に入り込んでくることを想像して恐怖より変な気を起こしかける。
(いや、なんで?口の中だしナニするってないし!!)
二次元へのスイッチを勝手に入れかけて踏みとどまれた。危ない、そう思っていた矢先、三嶌が見つめながら聞いてくる。
「今日はどんなスタイルでやりますか?」
(どんなスタイルでヤル!?え!!選択制?!むしろどんなスタイルがあるの?!)
百合の脳内が一瞬でぶれ始めた。
「こないだはだいぶ恐がっていたから……今日はもう少しちゃんと触りたいな」
「さわっ、さわる?な……なにをですか?」
「笹岡さんの……中、赤くなっているところ。いっぱい我慢して……辛かったよね?楽になりたいでしょ?痛くしないから、ね?」
三嶌が優しく微笑む。百合はその顔を見て赤面した。
(なーー!なんか言い方ぁぁ!!ど、どこのことぉ!それぇ!!な、なか……我慢って……痛くしないって……痛いよね?え、何するんだっけ、どうされるの?どういうこと?)
「あの、わたし……いろいろよくわかってなくて……はじ、初めてで、全然わかんなくって……」
「うん、平気。僕に任せてくれたら」
「こここ、怖く、ない、ですか?」
「うーん……怖いって思うと余計怖いかも。あんまり考えすぎないで?笹岡さんが痛いとか辛いは僕も辛いから。優しくしたい」
「やぁっ――、せ、先生は、いつでも……やさ、しいです」
「じゃあ僕に全部預けてくれる?」
(ねぇ、なにこの時間)
横で待たされている香苗は二人のやり取りに違和感を感じ始める。
「先生……私、慣れて、ません……よく、わかんなくて……そのまだなにも決められないと言うか」
「うん。大丈夫だよ、わかってます。ゆっくり考えて笹岡さんが一番納得できて望む形を選びましょうね。僕はいつでも大丈夫だし、待ちますよ?なんでも不安なことは相談して?」
「せ、せんせい……」
(……だから、なにこの二人の会話、なんかおかしくない?何の相談?なんかさ、変な話してないよね?なにこれ)
傍でボールペン片手に口腔内チェックを待っていた香苗は二人の会話のやり取りにいつしかドン引きしはじめた。
診察と今後の治療の話をしているはずだ。三嶌は怪しい言い回しをしているようだけれどあくまで治療の話をしているのはわかる。一方の百合はなんだか理解がズレて受け答えをしているようにも感じた。それを完全に三嶌が煽っている気がする。
(ていうか、先生……遊びすぎじゃない?)
結局今日の診察は香苗によるブラッシング指導とスケーリングを行って、詰め物を新しく作るための型取りをされた。最後に歯茎の炎症を抑えるお薬を塗られて終了。診察はまだまだ続きそうである。次回の予約は金属が出来上がる一週間後になった。その間にまた炎症や腫れが起きたら飲むようにと痛み止めを三錠処方され、何かあればいつでも来ていいといわれ百合は病院をあとにした。
「先生」
カルテを打ち込んでいる三嶌に香苗が声をかける。
「なんですか?あの僕は待ちますって」
「八番のエキスト」
(おいおい、親知らず抜くことをあんな乙女心刺激するように甘く言うんじゃねーよ)
香苗が心の中で毒づく。
「可愛かったでしょ?彼女、なんか妄想癖が強めなのかな。言うこと言うことトンチンカンでさ、すごく面白くなかった?」
「面白がって遊びすぎでしょ、先生」
しかしそれは否定できない、と香苗も同意せざるおえない。三嶌の言葉に過剰反応していたがどれもなんだか意味をはき違えているのが見ているだけでわかった。
「初診のときもさぁ、するってなにをするんですか、とか聞くんだよ。触るねって言ったらどこをって……面白すぎない?どこ触ってほしいんだよって、ツボに入っちゃった」
(変態かよ)
安定の心の中でだが、香苗は三嶌に対して暴言を吐く。
「だからって面白がって弄ぶのはどうかと思いましたけど……あんな地味で大人しそうな子に」
「谷くん、ちゃんと顔見た?」
え、と香苗は顔を上げた。そう聞いてくる三嶌の表情は遊びとは思えないほど真剣で確信的な自信を持っている。
「あの子、メガネとモサッとした感じで誤魔化されてるけどなかなかの原石だと思うな。かわいい」
本気なのだ、と香苗は思う。三嶌は本気で彼女に好意を抱いていて、手懐けるつもりでいる。そして多分、彼女ももう時間の問題で落ちるだろう。この三年、患者に手は出さないと貫いてきていたはずの院長がそんなポリシーをあっさりと打ち砕いてしまったのだ。それが三嶌の気持ちの本気を物語っていると悟ったのだった。
「あれはもう加虐心も煽られてる感じがしたね。先生ってさどっちかって言うと操作型っていうか洗脳型っていうか……」
「サイコパスですよね」
桃瀬がバッサリと言い切る。香苗もそれをフォローしたいが言葉を見つけられない。穏やかで優しい知的な雰囲気からは想像もつかないほど三嶌は病んでいるらしい。
「旭先生から昔の彼女の話聞いたときは度肝抜かれましたよ。ガチの首輪あったらしいですよ?ヤバくないですか?独占欲は強い、嫉妬深い、自分がどれだけ愛してるか伝えまくってそれが怖くて逃げられるってもはや普通にストーカーでしょ。あれだけのスペック持ってて残念過ぎません?美形だから余計怖いんですよね、見た目ソフトで優しそうだから騙されて近寄ったら監禁レベルって……捕まりますよ」
「しかも寄ってこられるとダメなんだよね、黛様とかさぁ」
「黛様もヤンデレっぽいけどあれメンヘラ女でしょ。絶対先生とはうまくいきませんって」
香苗もそれに納得した。実際黛のラブレターは開封もされずアシスタントたちに手渡されている。それはシュレッダー行きという無言の命令だ。興味のない人間には三嶌は容赦がなかった。廃棄命令のラブレターを二人がこっそり読んでいることは秘密にしているが多分バレている気がしている。
「でも可愛かったわ、確かに。ちょっと変だけど。先生も言ってたけど妄想癖が激しめっていうか……なんか頭の中常に暴走してる感じはあったな」
百合のことを思い出しつつ香苗は口にする。
「聞きたかったなぁ、その変態会話!ギャグじゃないですかぁ!」
桃瀬がケラケラ笑うが正直あの場にいた香苗は笑えなかった、ドン引きしていたくらいなのだから。
百合の口の中はあれから痛みは落ち着きだして比較的穏やかな生活が送れている。痛み止めは一度だけ飲んでそれっきり飲まずにやり過ごせていた。たまに鈍痛と違和感はあるが生活するうえで気になるレベルではない。
「良かったね。先生と相性良さそうで」
お昼休憩に冴子に笑顔で言われて百合は三嶌のことを思い出して少し照れて俯いた。
「カッコよかったでしょ?優しいし、いい先生じゃなかった?」
「はい……や、やさしかった、です」
「可愛い人って先生言ってたよ、百合ちゃんのこと」
冴子の言葉に飲みかけていたお茶が喉もとでゴキュッと鳴った。
「ななな、なんの話ですか?ていうか、冴子さん通ってるんですか?」
「ううん、ちょうど昨日三カ月検診で予約取ってたから行ってきただけだよ?歯石取りしてもらっただけ。先生と百合ちゃんの話で盛り上がっちゃったよ~」
綺麗な冴子は口の中までしっかりとケアしていた。病院嫌いで必要に駆られなければ行かない自分とは大違いで尊敬しかない。しかし、冴子と三嶌が自分のことで何を話してそんなに盛り上がれるのか。聞きたいけれど聞くのが怖すぎて何も問いただせなかった。
そしてそれは冴子に自分の邪な気持ちを悟られたくないという理由もあったのだ。
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