第6話
病室の戸を開いたのは二週間ぶりだった。
避けていたわけではない。単に病院に来る用事が無かっただけだ。
室内の風景は様変わりしていた。空になった病室は綺麗に片付けられている。ここに世界初の透血病患者がいたなんて微塵も感じさせない。
彼女が生きる道はあれほど困難だったのに、死後の対応は驚くほどスムーズだ。
僕が今日病院に来た理由は献血を再開したからだった。今後どこかで彼女と同じ病気が発症したときストックは多い方がいい。せめて今回彼女の命を繋いでくれた分くらいは僕が返したかった。
医師は透血病の研究を始めたそうだ。先程の診察でそう話していた。彼だけでなく世界中の医療機関が専門チームを組んで研究に取り組んでいるとのことだ。彼女から得た貴重な情報を次に繋げるべく奔走しているらしい。
こうやって世界はまた円滑に回り始めるのだろう。
「冬だな」
窓から見える景色だけは見覚えがあった。銀杏の葉はすべて落ち、残った枝の向こうにはどこまでも青空が続いている。
世界で新しい病気が見つかるたび、それにかかった最初の人間が現れる。彼らが助かる確率は一体どのくらいなんだろう。きっと絶望的な数値に違いない。
だからこれも。
救いようのない少女が救われなかった。ただそれだけの話。
戸を閉めれば病室は静寂に包まれた。シーツもマットレスもない真っ新なベッドに歩み寄る。金属のフレームに触れると、さらりと冷たい感触が指先に伝わった。
この上で彼女は眠っていた。淡い橙色の病衣かスポーツウェアを着ていた。
僕が病室に入ると顔を上げた。
僕が隣に座ると笑顔を見せた。
彼女は確かに、ここにいた。
「会川明音」
ネームプレートを読み上げるように名前を呼ぶと、ぽたりと
僕は泣いていた。
彼女の笑顔が浮かぶたび涙が溢れた。彼女の声が蘇るたび嗚咽が漏れた。
ベッドのフレームを強く握り締める。手の甲に血管が浮き出る。
この管を彼女と直接繋げれば何か変わったかもしれない。そんなどうしようもないことを考えては嫌になる。
彼女は確かにここにいて。
彼女はもうここにいないのに。
一粒、また一粒と降り注ぐ熱に両手が塗れていく。
いつまでも尽きる気配のない涙は、僕の体温よりも熱くて、眩しかった。
(了)
輸涙 池田春哉 @ikedaharukana
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