第5話

「彼女の血液消化速度がこちらの想定以上に速くなっています」

 四日前の医師の言葉が頭を過る。会川がICUに運びこまれた日の翌日のことだ。蛍光灯が照らす顔はいつもよりさらに青白く見える。

「血液のストックもこの速さじゃ持って数ヶ月でしょう。状況によってはもっと短くなる」

「僕から採る量を増やせばなんとかなりませんか」

「日坂さんからはもう最大量をいただいています。これ以上はあなたが危ない」

「会川にはこのこと」

「最初に伝えました」

 医師は短く答えた。膝に握り締められた拳が乗っている。それは彼の膝と、僕の膝の上にもあった。

「辛いですが、伝えなければいけなかった。彼女にまだ選択肢が残されているうちに」

 僕はリクライニングベッドで横になっている会川を見る。

 通い慣れた病室には僕と会川の二人きりだった。両親には何も話していないらしい。

 彼女の腕に半透明な管は繋がっていない。会川の手によって心電図モニターは切られ、カーテンは閉められている。輸血も三日前から止めていた。ベッド脇の引き出しには家族や友達に向けた直筆の手紙が入っている。

 それが彼女の選択だった。

「ごめんね、こんなこと頼んじゃって」

「きついこと頼んでる自覚はあるんだな」

「だって逆だったら絶対やだもん」

「自分が嫌なことを人にさせるなよ」

 会川はにししと悪戯っぽく笑う。僕はため息をついた。

 一人で死ぬのはこわいから、そばにいてくれないかな。

 あの日、彼女は僕にそう願った。

 なんて残酷なことを頼むんだろうと思う。死に向かう姿を近くで見てろなんて。

「さて思い残すことはないか」

「それ悪役の台詞だよ」

 思い残すことねえ、と考えるように会川は自分の顎に手をやった。

 僕たちが口を閉じれば、辺りはしんとした静けさに包まれる。まるで崩壊した世界でこの病室だけが取り残されてしまったかのようだ。

「うん、特にないかな。この一ヶ月でいろんな経験したし」

「世界で初めての人生だもんな」

「そうそう。おかげでみんな知らないことも知れたしね」

「知らないこと?」

「日坂くんの血はすごくあったかい、ってこと」

 両手を顔にやる会川はその頬を紅く染めて、心の底から嬉しそうに笑った。


「ドキドキするね、二人だけの秘密って」


 ――馬鹿言うな。

 思わず飛び出しそうになった言葉をぐっと飲み込む。

 何幸せそうな顔をしてんだよ。知らなくてよかったんだ、そんなこと。

 僕の温度なんか知らないまま百年生きてほしかった。

 喉の奥から溢れ出す想いを噛み殺して、僕は会川を抱き締める。

「……あったかい」

 穏やかな声と糸のような髪が僕の頬をくすぐる。ぎゅっと会川の両腕が僕を抱き締め返した。しかし、その腕からゆっくりと力が抜けていく。

「日坂くんごめんね。ありがとう」

 背中に回された彼女の手が小刻みに震えていた。徐々に小さくなっていく声とともに、華奢な身体から温度が失われていくのが伝わってくる。

「おかげで全然こわくないよ」

 会川の吐息が僕の耳に触れる。するりと僕の背から彼女の腕が滑り落ちた。

 僕は彼女の肩を優しく掴んで、雪のように真っ白な顔を見る。

「……僕も最後の最後にこんな役目押し付けられるとは思わなかったよ。こんなの絶対トラウマだ」

 血の気のない彼女はとろんと力なく虚空を見つめたまま何も答えなかった。

 もう彼女の頭に僕の声は届いていないかもしれない。

 それでも言葉にして伝えたかった。

「一生忘れない」

 ぴくりと、彼女の頬が震えた。

 それはいささか不自然な動きだった。体温低下による振動とは少し違う。まるで固まってしまった筋肉を無理矢理動かそうとしているような――。

「……き」

 かすかな声が聞こえた。

 彼女が何か言おうとしている。そう気づいた瞬間、僕は会川の頬を両手で包みこんでいた。作り物のように冷たくなっていた彼女の肌に自分の熱を伝える。

 氷が溶けていくように、ゆっくりと彼女の頬が形を変えていく。吐息が聞こえて、ふたたび僕は耳を寄せる。

 唇の隙間から漏れたそれは今にも消えてしまいそうに弱々しく、舌足らずで、けれど確かに彼女の声だった。

「きが、ききすぎだぜ」

 おそらくその台詞に続くはずだった名前はもう聞こえなかった。

 震えの止まった彼女の頬から手を離して、薄く開いていた目蓋をそっと閉じる。口を開くが結局何も出てこない。

 音のない病室に一人取り残された僕は、真っ白に微笑む彼女をただただ見つめていた。

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