第4話

 異変があったのは彼女が入院して三週間後のことだ。

 土曜日の午後、僕はいつものように献血を終えた腕を押さえたまま彼女の病室に向かった。

「会川おつかれー」

 いつもこの時間は会川が昼食を終え、午後のトレーニングに入る前の準備時間だ。

 しかしベッドに座ったままの会川はまだ病衣を着ていて、じっと窓の外を見つめている。

「あれ、時間大丈夫か? 着替えるなら出てくけど」

 声をかけるが会川は何も答えず外を眺めるばかりだ。窓は少し開いていて、冷えた風がすっかり伸びてしまった彼女の髪を靡かせる。

 そのときちらりと覗いた耳が、石膏のように真っ白だった。

「会川‼」

 僕が駆け寄ると、会川は夢を見ているかのように虚ろな目をしていた。

 それから彼女の身体がぐらりと傾く。間一髪で抱き留めると、会川の身体はひどく冷たい。

「くっ……!」

 人の身体ってこんなに重いのか。

 目と口を薄く開けたままの会川を支えながら右手を枕元に伸ばす。震える手でナースコールを押し込んだ。

「意識を取り戻しました。命に別状はありません」

 集中治療室から出てきた医師の一言目がそれだった。

 僕は握っていた拳を緩めて息をつく。手のひらには食い込んだ爪の跡が残っていた。

「行ってあげてください」

「でもさっき家族の方が」

 会川が倒れて運ばれた数十分後、彼女の両親が転がるように病院へと駆けこんできて集中治療室へ入っていくのが見えた。僕が入っちゃいけない場所だ。家族でも親戚でもない僕は暗い廊下でただ祈ることしかできない。

 けれど僕が言い終わる前に医師は白衣を翻した。僕に背を向けて、静かな夜の廊下に足音を響かせる。

「彼女が君を呼んでます」

 そっとICUと書かれたドアをスライドさせると、膨らんだベッドの横に会川の両親が立っていた。彼女の治療が始まったとき、うちに挨拶に来たので顔は知っている。初めて会ったときよりも随分やつれているように見えた。

 僕に気付いた二人は寝ている彼女に一言二言声をかけてからこちらに歩み寄り「娘を助けてくれてありがとうございました」と頭を下げて集中治療室を出ていった。

「また助けられちゃったね」

「ああ、前世はヒーローだったのかもな」

「現世でもヒーローだよ」

 会川は力なく笑う。

 左手にひやりとしたものが触れた。ベッドからはみ出た彼女の左手が僕の手を握っている。

「こわかった」

 力が入らないのか、触れるように掴まれた手は小刻みに震えていた。

「最初はちょっと寒いなって思ったの。それから少し指先が痺れてきたなって思ったら急に全身が動かなくなって、音が遠くなって、目が見えなくなって、気付いたらここに寝てた」

 彼女は小さく震える声で箇条書きのように言葉を紡いでいく。必死に、感情を込めないように。

「死ぬってこういうことなんだね」

 その言葉を最後に、二人の間に沈黙が降りた。

 彼女は何も言わず、僕も何も言えず、ただ握った手を温めることしかできない。

 会川は天井を真っ直ぐに見つめている。昼間とは違い、意志を持って彼女はそうしていた。何かを耐えるように、何かから逃げるように、見つめている。

 痛い、と言われて、僕は会川の手を握り締めていたことに気付く。

「あ、ごめん」

「ううん」

 小さく首を横に振って、会川は微笑を見せる。

 どうしてこんなときまで彼女は笑うんだろう。「泣くと思った?」と声がする。

「泣かないよ。涙がないから」

「返そうか?」

「いらない。他人ひとから貰った物を返すなんてサイテー」

「押し付けられたようなもんだけどな」

 静かなICUの中に僕たちの控えめな笑い声が響く。

「ねえ、日坂くん」

「ん、どうした」

「一生に一度のお願いがあります」

 一生に一度。その言葉は僕から選択肢を奪う。彼女にもそれがわかっているだろう。わかっていて尚、そう言うのだ。

「もう一回助けて、ヒーロー」

 うまく笑えていない会川明音を僕ははじめて見た。

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