老人

中尾よる

老人

 その日、僕はいつも通り七時に布団から出て、顔を洗ってから台所へ行った。うちは代々朝はご飯派で、今日も台所からは少し湿った、ご飯の炊ける甘い匂いが漂ってきた。

わたる、もう少し待ってね。お魚、後少しで焼けるから」

 肩越しに僕を振り返り、母さんが言う。

「ん」

 そのまま居間へ行き、昨日準備したランドセルの中身を確認する。廊下横の襖越しの窓に、ふわふわとした雪の影が見えた。その先に広がる灰色の空も雲も、冷え冷えと肌寒さを催す。

 こたつに足を突っ込み、ふう、と深くため息をついた。その息は白い気体となって空気の中へ溶け込む。もう一度、空気を吸い込み、大きく吐き出した。再び白い気体が宙に浮暮らす。

「朝ごはん」

 そう言いながら、母さんがお盆に乗せた朝食を持って現れた。しかし、目の前に、お盆からお茶碗が置かれた瞬間、僕は目を丸くした。

 お茶碗の上にはいつも通り、ほかほかの白米がよそわれている。他には豆腐とわかめのお味噌汁、きゅうりと大根の漬物、主菜に焼いた鰯。そこまでは何もかも、通常通りのメニューだった。おかしいのは、その炊き立てほかほかのご飯の上に、一人の老人が座っていることだった。老人は当然、と言うように、柔らかなご飯の上に胡座あぐらをかき、にこにことごま塩色の髭を揺らしながら笑っていた。

「何、やってるんですか」

 僕は思わずそう聞く。

「いやあ、居心地がよくてね。炊き立てのご飯ほど、座り心地のいいものはない」

 その座り心地のいいご飯の上に座っているからだろうか、老人の顔には笑顔が絶えない。

「え、そんなこと言ったって。どいてくださいよ、食べられないじゃないですか」

 既にご飯から上がった湯気が、老人の頬を湿らせている。鰯も冷めてしまうし、遅刻するのはごめんだった。

「そんなこと言われてものお……こんなこんな寒い冬の朝、炊き立てのご飯がわしの救いなんだが」

 そう言って老人はふぉっふぉっと、変な笑い方をする。動く気はないようだ。そうしている間にも、湯気が老人の頬を濡らしていく。

「ああもう、寒いならこたつに入っていいですから、どいて下さいよ」

 自分の横のこたつ布団を持ち上げると、老人はおや、といいものを見つけたような顔をして、いそいそとこたつの中に潜り込んだ。

 それ以来、老人は、僕の隣の席が定席となった。




 それから、老人は僕の学校にもついてくるようになった。ついてくる、とは言っても、給食の時間にぽっと現れ、僕の机のそばに屈んでご飯を見ているだけだ。よほどご飯が好きなのだろう。

 時々授業が始まっても机のそばにいることもあったが、大抵は、給食の時間が終わるとつまらなそうに姿を消した。僕は老人がいてもいなくても、さほど気に留めなかった。時には少しの間、温かいご飯の上に乗せてあげることもあったが、そうしていると給食を食べる時間が削られてしまうので、次第にやらないようになった。

「渡くんてば、何してるの。時間なくなっちゃうよ」

 そんなふうに、女子に言われることが増えたからというのもある。そんな時、老人はいつも、ふぉっふぉっとあの変な笑い方をしていた。




 老人は、時折、炊飯器の中に入っている日もあった。そういった日は、大抵、いつもに増して寒さが厳しい日で、朝母さんがご飯をよそおうと炊飯器の蓋を開ける時に、ご飯と共にニコニコと僕のお茶碗に乗ってくるのである。

「ほら、早くこたつ入って」

 僕がこたつ布団の端を持ち上げると、待ってましたとばかりにこたつに移った。

「炊き立てのご飯ほどじゃないが、これもなかなか」

 そしてそう言うのだ。湯気で湿った頬を蒸気させ、持ち前の笑顔をこっちに向ける。




 その日の給食は、ラーメンだった。今日は来ないだろうと思っていたが、いつも通り老人は現れた。

「今日はラーメンだよ」

「たまには、たまには」

 そう言って老人は油の浮いた醤油ラーメンを覗き込んだ。さすがに、ラーメンの上に座るのは無理だと思ったのか、老人はすぐに首を引っ込め、珍しく教室内をぶらぶらと歩き始めた。他の生徒のラーメンを覗いたり、机の下に潜り込んだりしている。僕は特に気にせず、学校給食特有の、伸びて柔らかくなった薄味の麺を啜った。

 不意に、前の席のタカシの椅子が音を立てて倒れた。見ると、いってぇ…と頭をおさえるタカシを、老人が繁々と眺めている。

「おいタカシ、何やってんだよ」

 他の男子たちが、腕をとって立ち上がらせた。タカシは痛え、ともう一度言ってから、僕を睨んだ。

「吉田、何すんだよ」

 そうして椅子を起こし、不機嫌そうに音を立てて椅子に座る。しん、と教室が静まり返った。みんなが僕をチラチラと見る。タカシの言葉で、みんなが椅子を倒したのが僕だと思っているのが分かった。

 居た堪れなくなって下を見ると、ニコニコ笑って首を傾げる老人が、目の端に見えた。




 その日の夕食が運ばれてきた時、炊き立てのご飯の上にはいつものように老人が座っていた。主菜は豚の生姜焼きで、甘いタレの匂いが鼻をつく。老人は、いつものように、僕がこたつ布団を持ち上げるのを待っているようだった。

 だが、僕はそうする代わりに、苛立った声をぶつけた。

「邪魔だよ、どいて」

 老人が、目を見開く。その目を見て、少し後悔したが、構わず続けた。

「いつも、邪魔なんだよ。学校にも来てさ。今日なんか、タカシの椅子を倒したのあんたなくせに、僕のせいにされて……何もしてないのに」

 老人は困った顔をして、首をかしげる。昼間も見たその仕草に、僕はますます苛立った。

「あんたなんて、最初からいなければよかったんだ!!」

 そんな顔するなよ。まるで、罪のない子供に僕が八つ当たりしてるみたいじゃないか。……ずるいよ。

 しばらく深呼吸をして、気持ちの高ぶりがおさまった後にゆっくりと顔を上げると、そこに老人の姿はなかった。




 次の日の朝、炊飯器を開ける母さんの横で、中を覗いたが老人はいなかった。よそってもらったご飯が、甘い匂いを漂わせながら食卓に並んでも、老人は現れなかった。僕は、きっと老人は怒られて拗ねているのだろうと思った。明日には、あの人懐っこい笑顔で現れるだろう、と。

 しかし、翌日も老人は現れなかった。給食のカレーを、穴が開くほど見つめたり、机の下を覗き込んだりしたが、どこにも老人はいなかった。

 今朝は、炊飯器の中のご飯をしゃもじで延々とかき混ぜ続け、母さんに不審な目で見られ、夜になるとこたつの中に頭を突っ込んで父さんに叱られた。

 老人がそばにいることに慣れてしまったせいか、いなくなると何か物足りなさを感じる。僕が言った言葉に反省しているならいい。しかし、一週間も経つと、クラスでのコソコソとした視線や陰口も無くなり、タカシとも和解して普通に話せるようになった。それでも、老人は姿を現さなかった。

「何してるの」

 給食の混ぜご飯を注視していた僕の頭上から、クラスメイトの女子の声が降ってきた。

「あ、いや」

 そう答え、僕は自分の器によそわれた混ぜご飯を口に押し込む。冷めたご飯が、それでも甘く口の中に広がる。その味になぜか、僕は空虚感を覚えた。

 夕食に出されたご飯も、物足りなく感じた。自分の席が、やけに広かった。あの無神経にも思える微笑みがないことに、一週間経っても慣れない。ご飯から立つ湯気に、老人の面影を映すのは何度目だろう。

 もういいよ。

 眠りにつく前の布団の中で、僕は思った。天井の木目が暗闇の中に浮き上がり、木の模様を淡く目立たせる。

 許してあげるから。

 木目はうねる波のような模様だった。頬は空気の冷たさに、カサカサと乾いている。まだ冬だから、老人はどこかで震えているかもしれない。いや、それとも僕の時みたいに、知らない人の家にいきなり行って住みついているのだろうか。そう考えると、なんだかとてもむかついた。

「いいから、帰って来いよ」

 口に出して言ってみる。炊飯器の中で寝ていても、お茶碗によそわれたご飯の上に座っていてもいい。給食を食べる時、机の下にいても、タカシの椅子をひっくり返してもいいから。戻って来いよ。

 大きく、ため息をついた。何でだろう。あの変な笑い声を、聞きたいと思っている自分がいた。




 翌朝、炊飯器の中を覗くと、老人が悠々と寝そべっていた。母さんがご飯をよそおうとすると、いそいそと、お茶碗の中に移動する。こっち、とこたつ布団を持ち上げると、ニコニコと両足をこたつの中へ入れた。

 そして、ふぉっふぉっと、例の変な声で、笑っていた。

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老人 中尾よる @katorange

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