マリアの中のミチコ、ミチコの中のマリア

藍埜佑(あいのたすく)

マリアの中のミチコ、ミチコの中のマリア

 マリアは行きつけのバー「カナリア」の片隅で一人静かにギムレットを傾けていた。

 その顔には深い憂いが刻まれていた。それは今日親友のミチコの葬式があったからだ。マリアはそのまま家に帰る気にもなれず、ここで杯を重ねていた。

 いつもは陽気に語りかけてくるマスターも、今日ばかりはマリアに気を使ってそっとしておいてくれている。マリアにはその気遣いが嬉しかった。


「あたしの方が死ぬべきだったのよ……」


 マリアは誰に語り掛けるでもなく、そう呟いて紫煙を吐いた。

 そう、考えれば考えるほど、ミチコは死ぬべき人間ではなかった。大学で知り合ってから十数年、ミチコは常に自分にまっすぐに、そして他人に対しても真摯に向き合ってきた。誰よりも真剣に生き、周囲に愛を振りまいていた。

「あたしの夢?」

 いつのことだっただろう。マリアが自分の将来に悩んでいた時、ミチコに相談したことがあった。彼女の夢を自分の参考にしたかったのだ。

「そうだな~、自分が生まれた時よりも、ほんのちょっとだけ世の中を良くして死ねたらいい……っかな?」

 彼女はそう言って笑った。笑顔が眩しかった。自分にはとても持てない夢だと感じた。

 そんな彼女が。

「すい臓がん、ステージ4……」

 マリアは吸いかけの細い煙草をもみ消した。

 見舞いに行くたびに痩せ細っていく彼女を見るのが辛くって、マリアの足はいつしか病院から遠ざかっていった。

 死という現実に蓋をしようとしたのだ。

 弱い自分。卑怯な自分。

 そんなことできるわけないのに。

 そこに届いたミチコの訃報。

 本当は怖くてお葬式にも行きたくなかった。

 だけど勇気を奮い起こして行った。

 そこには棺の中で静かに眠るミチコの姿があった。

 信じられないほど痩せ細っていたが、その表情は穏やかだった。マリアは……聖女マリアを連想した。同じ名前なのに。自分とはかけ離れた聖なる存在。それをミチコと重ね合わせた。

 ミチコの伴侶は気丈に振舞っていた。中学生の長女は泣いていた。まだ幼稚園の長男はなんだかわからない様子で、ずっときょとんとしていた。

「ねえ、ママはいつになったら起きるの?」

 そう問う長男の姿が痛々しかった。


 世の中は理不尽だ。


 こんなに酒を飲んで煙草も吸って……子供もいないし、何か高い理想があるわけでもない。毎日の生活のために広告会社で企画の仕事で忙殺されてはいる。しかしその仕事も結局資本主義の大量消費を促すだけの虚業……。

 考えれば考えるほど、やはり自分が死ぬべきだったのだ、と感じてしまう。自分が死んで、ミチコが生きていれば、少なくとも世の中はちょっと良くなっていたはずだ。

「マスター」

 マリアはアブサンをオーダーした。マスターは黙ってグラスを差し出してくれた。



「ミチコからの……手紙?」

 ミチコの葬儀から1週間。自分のマンションのポストに入っていた手紙の差出人を見て、マリアは驚いた。消印は昨日。ミチコが死後、投函した手紙……?

 マリアは震える手で封筒をひらいた。

「久しぶり、マリ! 元気? これを貴女きみが読んでいるということは、あたしはもう既に死んじゃったってことだね。えへっ、こんなスパイ映画みたいな書き出しの手紙を出すなんて、あたしも思ってなかったよ」

 いつもの明るいミチコの顔が脳裏に浮かんで、マリアは思わず泣きそうになった。

「この手紙、フェイクじゃないよ。あたしが死んだらマリにこれを送ってくれって旦那に頼んだんだ。あたし、どうしてもマリに言っておきたいことがあってさ。本当は生きてる間に言えれば良かったんだけど……ごめんね」

 いつもの丸い文字と、明るい口調。変わらないミチコがそこにいた。

「あのさ、マリ。あたしはマリのことを、ずっと見てきたんだよ。

 だから誰よりもあなたのこと、わかってると思う。

 マリがあたしに夢の話をしてくれって訊いたときのこと、覚えてる?

 あたしははっきり覚えてる。

 そのときのマリの真剣な顔、忘れないよ。

 ああ、マリはマリだな、ってその時しみじみ思ったんだ。

 どんなことにでも一生懸命取り組むマリの素敵なところ。

 マリはどう思ってたか知らないけど、あたしの夢とか理想とか、あたし何も特別なことしてないよ。

 ただ、あたしのできる範囲で生きて、愛して、苦しんで、時には笑って……そんなことをひたすら繰り返してただけ。

 だからマリも自分を責めないで。大切なのは、自分がどう生きて行くかだよ。

 最初にお見舞いに来てくれた時に、すぐにわかっちゃったんだ。

 マリが何を考えてるか。

 自分の命をあたしにあげられたら、どんなにいいのに、とか、あたしじゃなくて自分が死ぬべきなのに……とか考えてたんじゃない?w


 そんなことないよ。


 だって世界をちょっとずつ良くする努力って、どうするかなんて人それぞれだもん。

 今、広告の仕事を頑張っているマリだっておんなじだよ。

 誰かがマリの作った広告を見て、生活が豊かになったり、幸せを感じたりすることだってあるんだよ。

 それは、マリがその仕事を通じて、世界に影響を与えているってことでしょ?

 大切なのは、自分が生きていること、生き続けること……それ自体が世界を変えていくことだと思うんだ。

 まあ、あたしは死んじゃったんだけどねw

 でもね、うぬぼれるわけじゃないけど、死んだって世界に影響は与えられるんだよ。

 それはマリを通してだったり、旦那を通してだったり、子供を通してだったりするけど。

 その事は確信してるんだ」


 マリアは溢れ出る涙をどうすることもできなかった。


「思い出したら、でいいんだけどさ。

 例えば仕事帰りに今日の夕陽は特別きれいだな、とか、道端に咲いてる雑草がやけに可憐だなって思ったら、それはあたしの魂がそこにあるんだって、思ってみて。

 実際、あたしはそう信じてる。

 ずっとマリのこと見守ってるから。

 あたしが信じるように、マリもそう信じてくれたら嬉しいな。


P.S.

 煙草とお酒の量はもうちょっと減らしたほうがいいよ! 本当にヘヴィスモーカーの癖に健康優良児なんてずるいよ!w」

 

 手紙から顔を上げたマリは、エントランスの鏡に映った自分の泣き笑いの表情に気がついて微苦笑した。まったくミチコったら……ほんとに……ありがとう。


 涙を拭いて夜空を見上げた時、ちょうど碧い流れ星が満月を横切っていくのが見えた。


 そこにもきっとミチコはいるんだと思いながら。


(了)

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