第2話 悲痛なる愛犬の叫び、殺処分ゼロへの道は遠く。

 その頃、大崎夫妻は、ダックスフントの、マー君をお風呂に入れたり、ペットトリマーに連れて行ったりして、マー君を宝物のように扱った。


 ポチと違って、よく甘い声をだして鳴くマー君は、おねだりするのも、人に甘えるのも、とにかく上手だった。 


 あるとき、ポチは親切な村の人に出会った。

 歳が50歳くらいの、にやついた中年は、ポチの前に盛大な、ごちそうの山を広げた。


 タマネギと肉の炒め物。にんにくのタレをこれでもかとかけたステーキ。ドライフルーツにビーフジャーキー。なす。銀杏。チョコレート。するめいか。犬が食べてはいけない、NGフードばかりをポチの目の前に並べ、ポチにすすめた。


 ポチはもう3日も何も食べていなかったので、腹に入れられるだけ、まし。そう判断して、なりふりかまわずそれらを腹にかき込んだ。そして1時間後、原因不明の食あたりで動けなくなった。


 動こうにも腰が抜けてしまい、身動きが取れなかった。そうこうしているうちに、土砂降りの雨で、びしょびしょになり、泥の中で死んだようにうずくまった。


 ポチはその場所で2日を過ごした。

 泥まみれになり、雨水に濡れ、ポチはその場で動けずにいた。


 そんなポチをみかねたのか、畑の持ち主が犬用のゲージを作ってくれた。親切な人だったが、やはりこの人もポチを飼ってくれるわけではなかった。


 元気を取り戻したポチは今度は進路を東に取ることにして歩き始めた。

 体の調子もよくて、足並みも軽かった。

 5時間も歩くと、むかし車で訪れた、キャンプ場に辿り着いた。


 そのキャンプ場は、忘れもしない、昇がポチに鮎を5匹食べさせてくれたワンダホーな場所だった。


 キャンプ場は連日連夜、夏休みということもあり、家族連れで賑わった。

 バーベキューで食べ切れなかった肉や魚、釣った鮎やニジマス。ヤマメをポチは何度も利用客から食べさせてもらった。


 食うに困らない日々が続き、ここで一生暮らすのも悪くないな。

 ポチはそんなことを考えるようになっていた。

 2ヶ月が足早に過ぎた。


 しかしこの地区一帯では野良犬の権力闘争が起き、ポチを可愛がってくれた老犬のボス犬が、群れを追われる羽目になった。その煽りを受け、ポチも群れを追われるようになった。ポチは老体にムチを打ち、またしても、とぼとぼと歩きだした。


 1日30キロ歩くものの、かつて見慣れた風景には一向に巡り会えず、それでもポチはひたすら歩いた。


 いつしか季節は夏から秋に変わり、木々も色彩を深めた。

 鳥が、せわしなく、さえずり、もうじき訪れる冬の準備をしているかのように、ポチの目には映った。


 ポチの現在地は大崎夫妻の家から50キロの距離まで迫っていて、そのまま北東にまっすぐ行けば、かつて知ったる集落が現れるはずだった。


 ポチは西に歩き東に歩き、そして南に下り、時には北を目指し、大崎の家に少し近づき、そしてわずかばかり離れ、探り当てそうで、できない場所をぐるぐると彷徨った。


 冬が本格的に押し迫る11月の晩、またしても偶然、むかし行ったことのある大型スーパーに辿り着いた。


 かつて連れて行ってもらったことのあるその駐車場では、来場者にフランクフルトを振る舞っていて、ポチはおじいさんからフランクフルトを3本食べさせてもらった。


 「もっと食べたいのか? でも、もうやれないよ。もっと食べたいなら財布でも拾ってくるんだな。ここ掘れわんわん言うてな。千両箱のありかでもオラに教えてくんな」

 おじいさんはポチに言った。


 ポチはお腹を満腹にして今来た道を舞い戻ることにした。

 富士山が見え、かつて車で行った、割と近場の公園で見た景色と同じ光景が、眼前に広がった。ここから大崎の家まで近いことが、なんとなくではあるけれど、わかった。


 1ヶ月が過ぎ、そして12月に入り。

 放浪の生活にも慣れ、1日のリズムが、掴めるようになった。


 歩き疲れたポチは、その晩、小さな公園で野宿した。

 そして朝を迎えた。


 何やら予感めいた感情が胸の奥底から突き上げてきて、心がはやって仕方なかった。


 この感情は何だ?

 ポチは動物の第六感で、この町を中心とした10キロ四方に何かがあると確信した。


 これは予感なんかじゃない。

 予言みたいなものだ。


 ある確信めいた第六感が、ポチの心を突き動かした。

 そうだ。

 こうしちゃいられない。


 ポチは再び走り出した。

 ポチはとりあえず進路を北に取り、そこでかつて知ったる散歩コースを目のあたりにした。


 近い。

 それもかなり近い。


 心がはやり、今にも昇、祥子に会えることを想い、駆けだした。

 たしか、こっちの方角だと思うが思い出せない。


 30分走ると、ようやく眼前に郵便局が現れた。

 ここから200メートルほど下れば、大崎の家に辿り着けるはずだ。

 息をするのも忘れて、ポチは走った。


 そうだ、この町並みだ。

 この風景だ。

 この壁の色。

 電柱。


 そしてとうとう念願の大崎の家。

 かつて自分が住んでいた犬小屋に辿り着いた。

 無我夢中だった。


 犬小屋は既に廃墟となっていたけれど、犬小屋のなかにはあの日のままタオルが数枚敷かれていた。


 見慣れた、アヒルのゴム人形……。

 そうだ、この町だ。この匂いだ。


 今日まで生きながらえたのは、このときを迎えるためだったのか。

 犬小屋を前に、ポチはへたれ込んだ。

 そして、くんくん鳴いて、安堵のため息をもらした。


 しばらくして、家の中から小型犬の鳴き声が聞こえた。

 ポチは、自分が捨てられることになった原因が、まさかこの犬にあろうとは夢にも思わなかった。


 ポチは、今までの苦労も忘れ、かつて知ったる犬小屋で眠ることにした。

 うつらうつらしているうちに、やがてあたりは暗くなり、冷え込んできた。

 ポチは犬小屋から出て、祥子の帰りを待った。


 自転車を15分こぎ、買い物袋を下げた祥子が、やがて電子機器メーカーの部品工場から帰ってきた。そしてポチを見つけ、腰を抜かしそうになった。


 自転車を所定の位置に置く祥子。

 「あらやだ、ポチじゃないの? どうしてここがわかったの? 本当にポチなの?」 


 ポチはうれしさと喜びで祥子の足元を何度も飛び回り、そして跳ね回り、素直に感情を表現した。


 ポチが喜べば喜ぶほど、祥子の心は複雑だった。

 幼い子犬のように、はしゃぐポチをみて、祥子は困惑した。


 ポチの目を見て祥子は言った。

 「ポチ、よく聞いてね。私は、あなたを飼うことができないの。でも1週間だけ時間をあげる。あなたに家族団らんの思い出をあげましょう」


 しばらくすると祥子は、いつもの祥子に戻っていて、すき焼き用の牛肉を150グラム、そして好物の冷凍物、肉団子を7つ焼いてくれた。ポチは、がつがつと差し出された祥子の手料理を食べ、失った時間を取り戻そうと必死だった。


 これで家族団らん、しかも水入らずで過ごせる。

 牛肉でできた肉団子は、レトルトだったけど、ポチの胃袋を満たすには十分だった。


 そうこうしているうちに昇が帰ってきた。

 車のエンジン音に興奮して、ポチは失禁した。

 のどを鳴らすポチ。


 かつて聞いた、犬の野太い鳴き声に、昇も興奮して、

 「ポチか。本当にポチなのか? サチ、どうしてポチがここにいるんだ?」

 状況が飲み込めず、昇が祥子に何度も尋ねた。しどろもどろになる祥子…。 


 「そんなの、ポチに聞いてくれる? 何がなんだか、私にもよくわからないの。家に帰ってきたらポチが犬小屋の前に座っていて……」


 昇が何度もポチの頭をなでた。

 喜ぶポチ。

 それから新しい家族、ダックスフントのマー君を囲い、家族の団らんが始まった。


 「祥子、どうする? オレは2度も同じ犬を捨てには行けないよ」


 ばさばさの毛づや、皮膚病で肌がむき出しになったポチの目を見て、昇が悲しい瞳を向ける。


 「そんなこと言って、マー君に病気が移ったらどうするの? あなた責任持てるの?」


 祥子が反論する。


 「ポチを飼えるほど、うちは裕福じゃないし。マー君を取るかポチを取るか。この際、はっきりさせましょう」


 ボロボロになった老犬とマー君。

 結果はおのずと知れていた。


 「ポチには1週間だけここで過ごしてもらい、1週間後、ポチを保健所に引き取ってもらいましょう」

 祥子の答えは決まっていた。


 「おまえ、ポチに死ねっていうのか?」

 昇が悲壮感漂う瞳で、祥子を見る。しかし、そんなことくらいで、ひるむ祥子ではない。

 

 「生きていたって何もいいことがないのよ。どこにも行くあてがないなら、せめて、ポチには1週間の間にたくさん思い出をつくってもらいましょう。そして、つらいけど、さよならしましょう」


 昇もそれ以上、口にはできなかった。

 ただならぬ雰囲気に、ポチは尻尾を丸め、クンクンと鳴いた。


 2人がケンカしていると思ったポチは、まさか自分のことを話しているとは夢にも思わなかった。

 

 上目遣いで2人を見つめるポチ。

 こんな夫婦を見るのは、実に久しぶりのことだった。


 「もともと懐かない犬だったし。人に可愛がられないペットじゃ、ペットの意味なんてないでしょ?」


 悪いのはポチだと言わんばかりに、祥子が言う。

 次の日も次の日も、今まで食べたことのないようなごちそうが振る舞われた。いい加減おかしいと感じたポチも、まさか2度も家族から捨てられるとは思わなかった。


 しかし悲しいことだが、それは、またしても現実となった。

 雨降る12月の、とある日曜日。


 ポチはお風呂に入れられ、体を清められてから保健所に連れて行かれた。

 そして犬用の50センチ四方のゲージに入れられ、再び自由を奪われた。


 そこはかつて知ったる病院のベッドとは少し趣が異なっていて、野犬や捨て犬、くたびれた老犬であふれていた。


 ノイローゼ気味の犬。

 統合失調症の犬。

 野犬のボス。


 吠えたり、くんくんと飼い主を懐かしむ犬が所狭しとゲージに詰め込まれ、クソも味噌も一緒に飼い慣らされた。


 食事はドッグフードが少量。

 病気で死のうが精神が崩壊しようが、そんなことは知ったこっちゃあなかった。


 ゲージから連れ出される犬が2度と同じ場所に戻ってこないことから、ここが死を宣告された場所だということをポチは遅れて知るのである。


 毛並みの悪い、薄汚れた犬ばかりが、来る日も、明くる日も保健所にやってきた。どこか獣くさい犬ばかりで、満足に食事を与えられていない、ガリガリにやせ細った犬も多かった。


 ポチはなぜ自分が大崎夫妻から疎まれ、あろうことか2度も捨てられることになったのか、そればかり考えて過ごした。自分に悪いところがあるなら教えてほしかった。ガス室に送られる日がいよいよ明日に迫った。 


 昨日までの自分が果たして幸せだったのか?

 自分は産まれてくるべきではなかったのではないか?

 自分は愛される資格がなかったのではないか?

 生きているだけで、息をしているだけで迷惑な存在だったのか?


 今まで大切に育ててくれてありがとう。

 たとえ一時でも、僕は幸せだった。

 そう思おうとしたが、どこかで納得できない自分がいた。


 ポチは翌日、クリスマスを1週間後に控えた朝。

 ガス室へと送られた。

 

 「とうとうこの日がきちまったな。それにしてもなんて悲しい目をしていやがる。そんな目でおいらを見つめないでくれ。胸が張り裂けちまうじゃないか。頼むからオレを恨まないでくれよ。これも仕事なんだ。好きでやってるんじゃないからな」


 何も知らない、ただ尻尾を振り続けるポチを保健所の係員が誘導し、ポチは畳2枚分ほどの狭いガス室に閉じ込められた。辺りには死臭が漂っていた。


 大型犬、小型犬。

 大小様々な犬が小さなガス室に押し込められ、ここから出してくれとばかりに泣き叫ぶ。


 懸命に尻尾を振り続けるポチ。

 もしかしたら、ここから出してくれるかもしれない。

 ポチは淡い期待を胸に最後の望みをつないだ。


 「今更、人間に愛嬌を振りまいたところで、どうにもならないんだ。オレを恨むなよ」

 係員が最後通告した。


 「おまえたちは捨てられたんだ。飼い主から見放されたんだ。これも運命だ。受け止めてくれ」

 とてもきれいな、澄んだ目をした、係員が言った。


 ポチが最後に見た人間の瞳とは、このうえなくきれいな瞳だった。

 それだけが、せめてもの救いだった。


 入り口の頑丈な鉄の扉が閉められ、犬たちは戸惑いを強めた。

 これから何が起きるのか。

 何が起ころうとしているのか。

 ただならぬ気配が漂った。


 きゃんきゃん鳴く子犬。

 遠吠えする、ドーベルマン。

 係員が静かに時計を見た。


 処置する時間まで、あと2分と迫っていた。

 犬がガス室に20匹くらい押し込まれ、やがて重く、きしんだ音のする鉄の扉がもう1枚閉じられ、室内は完全に密室となり光を遮断された。


 暗闇の中、四隅の上の方から、そして下の方から、やがて無色透明な、二酸化炭素のガスが、もくもくと送り込まれ、犬たちは呼吸困難で、もがき苦しんだ。


 腹の底から響き渡る怒声が、狭い室内に響き渡った。

 犬たちが一斉に声を上げ、室内に阿鼻叫喚の連鎖が広まった。


 ここから出してくれ。

 息ができない。

 苦しい。


 あまりの苦しさに自分の舌を噛み切る犬たち。

 口から、だらだらと血を垂れ流し……。


 動物の鳴き声は扉が2重に閉められているため、外部には一切漏れなかった。


 ガラス張りの、のぞき窓から係員が室内をのぞき込んだ。

 毎回感じる、胸が張り裂けてしまうような、どこか息苦しくなるような情景が係員を苦しめた。


 苦しい。

 水が飲みたい。

 頭ががんがんする。


 5分経ち、動物たちは、やがて鳴くのをやめ、どさっ。どさっ。

 1匹倒れ、2匹倒れ。


 透明のガラス窓に目線を向け、係員の行動を見ていたドーベルマンも、やがて地に伏した。もう誰も首をもたげていなかった。


 すべての犬が床にふし、足を硬直させ、痙攣を起こしている犬もいた。

 口から泡を吹く犬。

 大きな口を開け、舌をだらりと下げた犬。


 呼吸困難で過呼吸を起こした犬。

 白目をむいた犬が所狭しと床に重なる。


 苦しいのは一瞬のことで、やがて意識を失い、心地よい感覚に襲われるというものの、この光景を見た者は感じるものが強すぎた。体から抜き出た魂が狭い空間をさまよい、天上へと勢いよく浮き上がった。


 「もう少しの辛抱だ」

 係員は時計を見た。

 15分が過ぎた。


 9時58分。

 何匹、犬を殺しても終わりがなく。


 次から次へと犬が保健所に送り込まれ、そしてそのたびに機械的に犬は処刑され、ゴミと一緒に処理された。


 ガス室での出来事は一瞬苦しみをともなうものの、痛みを感じることもなく、やがて静かな時間を取り戻した。


 ポチは午前9時58分。

 空に高く太陽がのぼっていることも知らず、風を感じることなく天国へと旅立った。


 次、産まれてくるときも、大崎夫妻の子供として産まれたい。

 それだけを願い、ポチは天国へと旅立った。


 羽根のはえた天使がポチを迎えにきて、天国へと連れて行った。

 ポチは離ればなれになった兄弟と、雲の上で再会した。


 「ポチよ、おまえは頑張った。もうどこへも行かなくていいんだよ。静かに雲の上で暮らすがいい。ここは楽園だ。もう誰にも気兼ねしなくていいんだよ」


 安らかな心の声が遠くから聞こえた。

 季節は巡った。


 春が訪れ、そして夏が訪れ、やがて秋を迎え、ポチが死んだ冬が巡ってきた。

 それでも保健所には相変わらず悲しい目をした犬やネコが連日連夜、飼い主によって運び込まれ保護期限を迎えた。


 里親になってくれる人はほんのわずかで、ケージに入れられた犬やネコたちは自分の運命を知ってか知らずか、みなどこか寂しそうだった。


 人だからという理由で死を免れ、犬やネコだからという理由で死を受け入れなくてはならない現実がある。


 ポチがもし言葉を話せたのなら、大崎夫妻に何を語っただろう。

 どんな言葉を残しただろう?


 虎は死んで皮残し、人間死んで名を残す。

 ポチは死に、けれど何も残せなかった。


 ポチは幸せだったのだろうか?

 愛とは何なのか。

 家族とは何であるのか。

 ポチが何かを語ろうとする。

 現代社会は、それでなくとも生きにくい、サバイバルゲームのようなものだ。


 ポチはあの日、この世を去った。

 それを知る人はごくわずかしかいない。


 すべての生き物が幸福を迎えることは不可能なのだろうか?

 自問してみたものの答えはでなかった。

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迷い犬、ポチの涙 婆雨まう(バウまう) @baw-mau

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