迷い犬、ポチの涙
婆雨まう(バウまう)
第1話 愛か死か!家族の絆、殺処分についてのお話。
大崎夫妻はお昼の煮魚定食を食べ終え、デパートのペットショップの前、ショーケース前で佇んでいた。
透明なガラスケースの中には、生後、間もないダックスフントが寝そべっていて、布でできた小さなボールで遊んでいた。
ほかには鼻のつぶれたフレンチ・ブルドッグ。
きれいに毛を刈りそろえられたヨークシャー・テリア。
銀塩の体毛を持つ、プードル。
頭にピンク色したリボンをつけたメスのシーズー。
コリコリをむしゃむしゃ食べているチワワ。
白い体で左目の周りだけが黒いブルテリアがそれぞれ、ショウケースに入れられ、時間をもてあましているかのような目で通り過ぎる買物客を眺めていた。白いマルチーズは眠っていて、大崎夫妻の問いかけにも応じないほど、熟睡していた。
その中に1匹。
見るからに人なつこそうなダックスフントがいた。
「あっ、かわいい。こっちを見てる」
祥子が言い、昇の顔をまじまじと、のぞき込んだ。
大きな愛らしい瞳で祥子の瞳を見つめるダックスは、元気もりもりで寝転がり、まだら模様の、ちょいポチャな腹を横にして、シーツの上で遊んでいた。
「飼いたいな~」
祥子がもう一度、昇の瞳をのぞき込む。
「うちにはポチがいるだろ」
昇が、すかさず駄目出しをする。
祥子は老犬のポチを頭に思い浮かべ、
「ポチか。私、ポチきらい」
何やらひとり言を言った。
隣町の川原で拾ってきた、老犬、ポチは、うちに来て既に15年経過していた。人間でいえば70歳くらいか。雑種で、人間の問いかけにも応じないほど、耳も目も、もうろくしていた。
「ねえ、あのダックスフント、飼おうよ。さっきからじっと私の目を見てる」
大崎夫妻は結婚して20年を迎えた。
結婚記念日に、犬を買おうというのが、祥子の提案だった。
2人に子供はいなかった。
「ポチの弟か。悪くないけど。犬、2匹もいらないんじゃね」
昇はショーケースに貼られたプレートの情報から、ダックスフントがオスで、産まれて2ヶ月であることを知った。
「私、ポチきらい。なんかちっともなつかないもの。飼うなら小型犬がいいって前から決めてたんだ」
「そんなこと言って、ポチどうするんだよ」
祥子の言いたいことが昇には飲み込めなかった。
「ポチが死ぬまで飼っちゃいけないっていうの? それまで大好きなダックスフントを飼えないなんて生き地獄だわ。どこかにポチを放してあげない? 犬も死ぬ間際くらい自由を味わいたいんじゃないかしら」
その日はそれで終わった。
翌週、昇と祥子は、懲りもせず、またペットショップのショーウインドウを眺めに行った。隣にいたコーギーは販売予約の札がついていて、お目当てのダックスフントは相変わらず布製のボールに、じゃれて遊んでいた。
「このままじゃ、マー君、売れちゃう。どうしたらいいの?」
「マー君って誰?」
昇が祥子に問いかける。
祥子は小型犬ダックスフントに既に名前をつけていて、飼う気まんまんだった。
「ポチはさあ、山に放してあげようよ。それがさあ、一番幸せだと思うよ。鎖につながれて自由を奪われて。こんなの幸せとは言えないんじゃないかしら?」
「残念だな。ペットを買うお金がないもの。こればっかりは…」
わっはっは~。昇がわざらとしく声に出して笑い、少し意地悪な笑みを浮かべた。祥子には、それが挑発に思えた。
「何を言っているのよ。こういうときのために、私のへそくりがあるじゃない。それを使わせてもらうわ」
祥子はぺろっと舌を出し、来週買いに来て、もしマー君が売れていなかったら、マー君を飼うつもりでいた。
1日過ぎ、3日過ぎ、祥子は毎日のように夕方、買い物のついでにマー君を眺めに行った。マー君は終始退屈していて、布製のボールにも飽きたのか、寝てばかりいた。
1週間が過ぎ。
とうとう約束の日が訪れた。
大崎夫妻はデパートを訪れ、ようやく念願のダックスフントを手に入れた。狂犬病の予防接種をしてから犬を昇夫妻に引き渡すため、受取りは3日後となった。
祥子がレジで20万円をブリーダーに支払い、マー君は晴れて大崎家の一員となった。
ポチは、とうとう用済みとなってしまい、3日後、丹沢のふもとに捨てられることに決まった。今まで食べたことのないようなステーキが3日3晩、ふるまわれ、牛乳が毎日、大きな皿に与えられた。
ポチは異変を感じ取ったのか珍しく祥子に、なつく仕草を見せ、祥子の体にすりより、ふだん舐めたりしないのに祥子の頬を舌でなめようとした。そのたびに、イヤな顔をされて、邪険にされるポチ。
時、既に遅かった。祥子の心はすでにマー君に傾いていて、ポチに、付け入る隙など、あろうはずがなかった。
一週間後、祥子は、いやがるポチを無理矢理、車の後部座席に乗せ、自宅から80キロ離れた丹沢に向かった。
車で1時間かけて東名高速を南下し、それから30分、山道を、くねくねと西、北へ走り、やがて丹沢のふもとに辿り着いた。時刻は夕方を回っていた。車を小さなスペースに停めた。
「ポチ、おりなさい。今、エサをあげるからね。疲れたでしょ」
車から少し離れた場所に鳥肉、豚肉を油で炒めた肉料理を、これでもかというくらい皿に盛りつけた祥子は、改めてポチの顔に見入った。餌に、がっつくポチ。
「さあ、行こう。ポチが我に返ったら行きずらくなる。行くなら今だ」
昇が祥子に声をかけ、先に車に乗り込んだ。
祥子も、さすがにかわいそうに思ったのか、
「捨てるのやめる?」
昇に言った。
「今更、無理だよ」
昇が運転席のドアから顔を覗かせ、ゆっくりと車から降り、ポチの頭を数回なでようとした。これが今生の別れだ。おまえの顔を見る最後になる。
「元気に暮らすんだぞ」
「元気でね、ポチ」
こうして別れの時、運命の瞬間が訪れた。
「これだけあれば3日は生きられる。悲しいけど、これも宿命だ」
再び、車に乗り込む昇。
祥子が続き、2人は車の内部から、外部を見下ろした。
窓を開け、ポチを見おろす祥子。
ポチは山盛りの肉を3分で平らげ、食べ終えたときには、一人ぼっちだった。
隣に盛られた山盛りのドッグフードに口をつけたとき、ポチはふと我に返り、昇と祥子がいないことに気付いた。
いやな予感がして辺りを見回したものの辺りは既に薄暗く、他に誰もいなかった。30分待った。そして1時間が過ぎた。
昇と祥子が戻ってくるものだとばかりに思って、ポチは3時間を同じ場所で過ごした。その場にしゃがみ込み6時間待ったとき、自分が捨てられたことに初めて気付いた。
ポチは山に向かって何度も遠吠えを繰り返したが、周りの反応は何もなかった。闇が、ポチを包む。
その場で朝まで過ごしたポチは、翌朝、別の皿に盛られたドッグフードでお腹を満たし、とぼとぼと東へ向けて歩き出した。
朝日が昇る方角を目指し、とにかく歩くことにした。
長距離を歩いたことがないポチは、すぐに肉球から出血した。
1日が過ぎ、2日目には雨が降り、とうとう3日が過ぎてしまった。
ごはんに3日もありつけず、大柄なポチには空腹が堪えた。
道路脇の水たまりの、茶色く濁った水を飲み、夜も昼も忘れて、ただひたすら東に向かって歩いた。
第六感で、こっちに歩けば昇の家に辿り着けるような予感がして、ただひたすら歩くことにした。
1週間後、ポチは熱でうなされ、神社の境内にうずくまっていた。
栄養失調と水分不足からくる脱水症状で、熱は平熱を5度も上回った。
偶然ポチを見かけた近所の人が食べ残しの鳥の骨を持ってきてくれて、ポチは、がつがつとそれを食べた。
ポチは、ようやく元気を取り戻し、神社を出て旅を続けることにした。
目指すは大崎夫妻の家だ。
畑が広がる集落に入り、ポチは危うくお百姓さんに鍬で殴られそうになった。エサをもらおうと近寄ったポチを見て、自分が襲われると勘違いした農家の長男は、ポチの頭めがけ、黒光りする鍬を思い切り振りおろした。泥で汚れた体は、いつしか、ばさばさの毛づやで、見るからに野犬の風貌をしていた。
その頃には栄養失調から皮膚病にかかり、体の至る所から毛が抜け落ち、体調も最悪だった。
ただ歩くだけの日々。目は、くぼみ、体からは異臭が発し、いつしか歩くのも困難になっていた。
散歩ですれ違う犬たちはみな幸せそうで、人に飼われることがいかに満たされていて平和なことか、ポチにもようやくわかり始めた。
今までの自分は自由でないことをいつも嘆いていた。
鎖につながれ。
首輪で首を締め付けられ。
そしていつかその一切から解き放たれ、自由になりたい。
そればかり願い、そして思いは現実になった。
ポチは、ようやく念願の自由を手に入れた。
でもそれは本当の意味での自由とは異なっていた。
苦悩の始まりだった。
《2話へ続く…ここで終わりではありません》
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