後編
「本当、大変だった。もう二度とやりたくない」
バカ犬の散歩を終えたお姉ちゃんは、リビングのソファでグッタリとしている。
「まあ、あの犬はねえ」
お姉ちゃんの愚痴を聞きながら、お母さんは煎餅をバリバリと食べている。二人ともソファに寝転んでいるのだけど、そのポーズが全く同じで「親子だ」と強く感じる。
「まったく、あの子は犬にめちゃくちゃ甘いから。なんでもかんでも世話焼いて……。最終的に全部の世話をやりはじめたんだから」
お母さんがため息交じりに言うと、お姉ちゃんが話を広げていく。
「部活の練習試合があるのを忘れて、犬の散歩に行っていたこともあったし」
「そうそう。なんだかんだでモモのことばっかり考えてる証拠よね」
「家に連れてきた友達にモモをバカにされた時なんて、すんごい怒ってさ」
「あったあった」とお母さんは大きな声で同意した後「あの時はなだめるのが大変だったわ」と穏やかな顔で続けた。
(そんなんじゃないし!)
全部見透かされているのが恥ずかしすぎて、逃げ出したくて仕方がなかった。
でも何度も描写している通り、今のわたしは無力なリード紐だ。自分だけの力では動くこともままならない。
まるで拷問のように、お母さんとお姉ちゃんの井戸端会議は続く。
「本当、甘すぎるよねぇ、あの子。ドッグフードを食べてみせるのだって、本当はやらなくていいのに」
「違うよ。妹の前だけ、絶対妹が食べてからじゃないと食べないの。お母さんや私だと普通に食べるけどね」
(そうなの!?)
わたしは初めて知った事実に、驚愕した。目があったら飛び出していただろう。
「モモもさ、妹が呼ぶ時だけ『バカ犬』でしか反応しないの、不思議だよね」
「わたし達が『モモ』って呼んでも反応するのにね」
(そうなんだ……)
さっきから驚きの連続で、反応が薄くなってしまった。
「あの二人を見ていると、本当に姉弟みたいだ、と思うことがあるのよね」
「わかるわかる。妹は口も態度も悪いから、友達はなかなかできないし、学校ではイザコザばかり起こしていたけど、モモが来てから大分丸くなった。それでも口は悪いままだけどね」
(そうかな……?)
釈然としない気持ちだけど、悪い気分ではなかった。
「でも、モモとは出会った時から仲がよかったんだよね」
「本当、不思議。お腹の中からずっと一緒にいたみたいにね」
「お母さん、犬も産めたの?」とお姉ちゃんが冗談を言うと
「このバカ娘!」とお母さんは普段よりも少し強い口調で罵った。
本気で怒っているのではなく、わたしの「バカ犬!」を真似たのだろう。全然似ていなかったけど、二人から笑い声が漏れ出ていた。
楽しそうな姉と母を横目に、わたしは上の空だった。
(弟かぁ)
その言葉がこそばゆくて、ユラユラと揺れていた。
「ほら、行くぞ、バカ犬!」
少女の声が聞こえた。すごく聞きなじみのある声質なのだけど、違和感がある。
声自体がおかしいわけじゃない。聞こえ方がおかしいんだ。
普段なら、もっと近くで聞こえていないとおかしいはずだ、と気づく。
違和感の答えは、すぐにわかった。
(あれ、私だ)
リビングに顔を出したのは、わたしだった。正確には『わたしの体のわたし』だ。『リード紐のわたし』じゃない。
リード紐でヒョロヒョロのわたしと違って、ちゃんと細長い手足もあって、パッチリお目目で、読者モデルになれそうな見た目をしている。
唯一の友達から「わたしがお前の体を乗っ取ったら、絶対にモテモテになる。もったいなさ過ぎて吐き気がする」とまで言われた自慢のボディだ。
体のわたしはリード(わたし)を持ち上げて、バカ犬につけた。
「ほら、いくぞ!」
ワン!
《うん!》
早速バカ犬が走り出して、体のわたしもついていく。
ふと気になって、体のわたしの顔を見ると、とっても楽しそうな顔をしていた。目元も口元もだらしなく緩んでいる。
(うわ、いつもこんな顔してたの?)
自分ではもっとキリッとした顔のつもりだっただけに、羞恥心もひとしおだ。
公園につくと、バカ犬は体のわたしの周りをグルグルと回り始めた。一緒に遊びたいときのサインだ。
「まったく、バカ犬だな」
体のわたしが笑みをこぼしながら言った。
ワン!!
《バカっていうときの かお すき!》
バカ犬の声を聞いて、わたしの中でストンと落ちるものがあった。
(あ、そうか。わたし、バカって呼んでも反応してくれるのがうれしかったんだ)
わたしは生まれつき口が悪くて、人前で素直になれなくて、周囲になじめていなかった。それでも周囲に優しく接する理由がわからなくて、自分を貫いてきた。
でも、本当は寂しかった。
友達がうまく作れない自分が憎かった。
そんなわたしにも、愛嬌よく接してくれて「バカ犬」と呼んでも、元気いっぱいに尻尾を振ってくれるバカ犬の存在に、いつの間にか救われていた。
ドドド、と。
自分の気持ちに気付いた瞬間、低い音が聞こえた。
刹那、全身が凍るほどに冷たい風が突き抜ける。
音のする方向を見ると、バイクが猛スピードで接近してきていた。止まる気配は全くない。
「避けろ!」
すごく切羽詰まった声で、誰かがわたしに対して叫んでいた。
(あ、思い出した)
その瞬間、わたしの意識はリード紐から本来の体に戻った。本当に最悪のタイミングだ。
「早く避けろ!」
そんなことを言われても、全く体が動かなかった。まるで自分の体に「このまま死ね」と言われているように思えた。
茶色の塊が視界をかすめたかと思うと、バイクとわたしの間に割って入ってくる。
(ダメ……っ!)
声が出なかった。わたしはもうリード紐じゃないのに、口が全く動かなかった。
どれだけ手を伸ばそうとしても、体は石のように固まってしまっている。
(このバカ!!!)
ダン! とすごく重い音とが響くとともに、目の前が真っ暗になった。
目が覚めると、真っ暗闇の中にいた。
窓があるはずの方向を向くと、真っ暗だった。おそらくはまだ日も昇っていない深夜なのだろう。
「なんだったんだよ、さっきの夢」
なぜだか、とても目の周りが腫れぼったくなっていた。体もどこか重い。
(熱っぽい……?)
喉も痛いし、体の節々もきしんでいる。まるで高熱にうかされた後みたいだ。
自分の手の中に何かがあることに気付いて確認すると、リード紐を握りしめていた。
(バカ犬……)
あの気の抜けるバカ面を拝みたくなって、ベッドから這い出る。
家族はまだ寝ているのか、静かな廊下を歩いていく。
冷たい靴を履いて、玄関を出て、庭に向かう。
(なんだっけ、あれ)
わたしは見覚えが無いものを見つけて、小首を傾げた。
庭の植木の間に、土が盛られているスペースがあったのだ。小さな木の板が立てられていて、文字が書かれている。だけど薄暗くて読めない。
目を凝らしていると、ワン、とバカ犬の声が聞こえた。
わたしはついつい弾む声が押さえられずに
「いつも言ってるだろ。夜に鳴くなって――」と言いかけて――息を呑んだ。
振り返った視線の先には、犬小屋
「ぁ……」
そこには
ゆっくりと近づいて「バカ犬」と呼ぶ。返事はない。
ドッグフードをかじって「ほら飯だぞ」と叫ぶ。返事はない。
(いつもなら、喜んで出てくるだろうが)
静寂があまりにも痛々しくて、ひどい耳鳴りに襲われる。
まるでイナゴの群れに食い漁られるような感覚が、下腹部からせりあがってくる。胸を通って、喉を貫いて、頭の中を掻きむしてっていく。
背筋が凍って、全身の体温を集めたように熱い涙が頬を濡らした。
「まったく、死んでんのにも気づいてねえのかよ。バカすぎだろ」
震えた声で悪態をつきながらも、リードを強く握りしめる。
染み込んでいるバカ犬と自分の臭いが鼻腔をくすぐって、心を少しだけ満たしてくれる。でも、そんなものじゃ全然足りなくて、心の中に空いた穴の大きさを自覚してしまうだけだ。
(ああ、なんで、もっと素直になれなかったのかな)
一気に後悔が押し寄せてくる。全部後の祭りなのに『ああすればよかった』『こうすればよかった』と止めどなく考えてしまう。
切なさで胸が張り裂けそうなほどつらい。
(ああ、でも、忘れたくないよ)
バカ犬との記憶が、脳内で流れ続けている。
それは全部〝つらい記憶〟じゃなくて〝思い出〟なんだ。今は少し思い出すのがつらいけど、消えてほしい記憶なんて一つもない。
それらはもう増えることはないし、風化していくだけだ。そう思うと、もっと大事に思えて愛おしくなってしまう。
ふいにバカ犬の死に顔が脳裏をよぎった。とても穏やかで、満足気に笑っていた。
(死んでから、賢そうな顔しやがって)
もう立っていることもできなくて、ペタンと地面に座り込む。しっとりと濡れた地面からズボンが水分を吸い上げて、冷たさが上がってくる。
その感覚が、まるで地面の中に沈み込んでいるように思えた。一瞬、それでバカ犬に会えるならいいかも、と考えてしまう。でも踏みとどまって、涙をぬぐう。
「バカなんだよ、本当に」
落ち葉が風に運ばれてきて、頬に触れて涙をぬぐった。その感触は、バカ犬の舌の感触に似ていて、もっと大きな涙がこぼれていく。
「本当に、大バカ犬なんだよ」
口をついてでた〝バカ〟という言葉は、ひどく冷え切っていた。バカ犬がいる時は、とても暖かい言葉だったのに……。
きっと、ただの悪口に戻ってしまったんだ。
それがとても虚しく感じて、もう〝バカ〟と口にする気分にはなれなかった。
結局、口の悪いわたしは、ただ嗚咽を吐き続けるしかなかった。
【短編】バカ犬のリードになってしまった私 ほづみエイサク @urusod
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