ナギサちゃんの脳から、始業式前1か月の記憶が、抜け落ちた。
病院の検査結果だと、異常はない。
青薔薇病の症状とも、違う。
ストレス性と診断されたけど、納得できなかった。
巨大な青薔薇は、まだ咲いている。他の花弁は、数分で枯れたのに、不気味だ。
病室に飾ると、ため息があふれ出る。
「あの……恵巳さん。何があったんですか?」
ナギサちゃんの幼顔は、陰鬱としてる。
私は穏やかな微笑を意識して、振り向いた。
「安心して。大したことは起きてないから」
「本当、ですか?」
「うん。ナギサちゃんは体調を戻すことだけ考えてて」
「でも……」
不安なのかな。そうだよね。
ナギサちゃん視点だと、1か月後にタイムスリップしてるんだから。
「ほら。日記も読んだでしょ?」
「……昨日だけ、何も書いてありませんでした」
「ナギサちゃんが突然倒れたから、書けなかっただけ」
母親の来襲も、明本先生との再会も、忘れているべきだ。
「恵巳さんが花を飾るなんて、怪しいです」
「そうかな? そういう気分の日もあるよ」
「忙しそうに動く時は、何かを隠している時です」
思わず、視線をそらす。
「……ごめんね。忘れたままでいてほしいの」
彼女の表情は、晴れない。
「恵巳さんの辛そうな顔、見たくないんです」
「生きている限り、ずっと辛いよ」
「……はぐらかすんですね」
私だって、隠し事をしたくない。
ナギサちゃんに、人生の全部を共有すべきだ。
脳裏に、悪夢のような想像が浮かぶ。
母親の2文字がトリガーになり、私との営みを全部、忘れたら……。
突然、ドアを叩く音が響いて、私の肩が震えた。
「ちょっと待ってて」
「誰ですか?」
「多分、看護師さんかな。すぐ終わると思うからー」
廊下に出ると、視界に映る。明本先生の、憂い顔。
「何の用なの?」
「ねえ、ナギサちゃんはどうなの?」
「……大丈夫。落ち着いてる」
「そう。よかったわー」
メガホンぐらい、声が大きい。周囲に迷惑だし、ナギサちゃんに聞こえるかも。
待合室まで、連れ出した。
「病院って慣れないわねー。辛気臭い」
呑気な態度を見ると、歯がかゆくなる。
「ねえ、ナギサちゃんの両親に、私の家を教えたでしょ?」
「姉さん、もう会いに行ったの? 相変わらず、娘のことが大好きねー」
「職権乱用しないで」
「保護者に連絡をとっただけよ」
「そのせいで……!」
にらみつけても、明本志緒里は動じない。
「だって、あなた、収入はあるの? 高校になんか通ってて」
「まだ、貯金はあるから」
「それに、恵巳ちゃんにはなんの権利もないでしょ? 血もつがなってないんだから」
無意識に、足が後ずさる。
「ナギサちゃんと、約束したから」
「あのねぇ。子供相手なんだから、適当にあしらわないとダメでしょ」
「彼女は頭、いいから。私なんかより、ずっとずっと考えてる」
「いくら成績が良くても、子供は子供なのよ? 社会を知らないから、正してあげないと」
「うるさい! うるさいうるさい!」
もう、聞きたくない。
私はナギサちゃんと死にたいだけなのに、正論をぶつけないでよ!
ふと、髪を撫でられた。
アイロンみたいに熱くて、身が固まる。
「ねえ、来週、一緒に姉さんのところに行かない?」
「放っておいてよ。あと半年なんだから……」
「どうせ、姉さんはまた、家に行くわよ。エスカレートしていくかもね」
「…………」
顔を上げると、聖母のような微笑みが、向けられていた。
意味が分からない。
「ねえ、一体、何をしたいの……?」
「ただ、自分が正しいことを実行しているだけよ」
ああ。
|こいつ《・・・》は、自分の考えを、疑っていない。
自分は正しいと、信じている。
瞳が、立ち姿が、口調が、一切揺らぎない。
…………あれ?
間違っているのって……?
「大丈夫よ。全部、うまくいくから」
言葉が、微笑みが、脳に染みる。
約束が、揺らぐ。
知らない私が、語りかけてきた。
ねえ、鳥海恵巳。
このままでいいと、思ってるの?