【短編】バカ犬のリードになってしまった私

ほづみエイサク

前編

 わたしの飼っている犬は、大バカ犬だ。


 来客がくれば吠えまくるし、どこまでも追いかけまわしてしまう。


 夜に突然吠えることがあれば、玄関の前で切なそうに鳴くことだってある。


 名付けた『モモ』という名前に反応しなくて『バカ犬』と呼んで反応したりもする。そのせいで散歩ですれ違う人にすごい顔で見られてしまったことがある。


 極めつけには、目の前にご飯があるのに、食べ物だとわからない時がある。わたしがドッグフードを食べてみせると、ようやく理解して食べ始めてくれる。


 そのせいで。味や食感だけでドッグフードの種類を当てられるようになってしまった。



(そんな特技、恥ずかしくて誰にも自慢できない……)



 しかもいくら躾けても。それらの悪癖が治ることは無い。お母さんやお姉ちゃんはとっくの昔に諦めて、犬の世話をわたしだけ・・に押し付けてくる。


 本当にいつまでも手が焼けるし、相手をするだけで疲れてしまう。


 そんな日々を送っていると、たまに思ってしまうことがある。



(犬を飼う前は、こうなるとは思わなかったのに……)



 バカ犬は親戚からもらった子だ。


 子犬が産まれたからもらってほしい、と親戚から言われて引き取ったのだけど、家にやっていたのは子犬ではなかった。二年前に生まれたバカ犬だった。しかも雑種犬だ。



「だって、犬の赤ちゃんの面倒は大変なのよ?」



 親戚のおばちゃんはそう弁明していたのだけど、厄介払いなのは明らかだった。今思えば、去勢をしていない時点で、かなり適当な人だった。


 結局は断ることもできなくて、バカ犬を引き取ることになってしまった。


 それからは本当に大変だった。全く言うことを聞かないバカ犬を何とか躾ける毎日だった。


 いや、躾けという甘い言葉では、あの凄惨さは表現できていない。最早戦争といえるものだった。


 最初夢見ていた『犬のいる優雅な生活』とは全く違う。いつも怒鳴どなってばかりだった。『アニマルセラピー』の『ア』の文字も感じられない。むしろ『アニマルアングリー』だ。


 朝は中学校に行って、部活動から帰ってきたら犬の散歩に行って、家に帰った後も手を焼かされて、ヘトヘトになって眠る。そんな毎日を続けていた。


 そんなある日。目が覚めると、違和感を覚えた。



(あ、あれ……?)



 体が全く動かせかった。それどころか――



(あれ、口も開かないんだけどっ!)



 一応目は見えるのだけど、眼球は動かせないし、周囲は真っ暗だ。


 自分の状況を理解して、一気に不安感と焦燥感が押し寄せてくる。



(誰か助けて!)



 いくら叫ぼうとしても、声が出ない。全身が金縛りにあったようだ。いや少し違う。体が動かない感覚すらない。抑えつけられているのではなく、動かすための神経が通ってないような感覚だ。


 そんな中「おーい、妹いるー?」と間抜けな声が聞こえた。その声を聞き間違うはずがない。



(お姉ちゃんだ、こっちこっち!)



 いくら張り上げようとしても、やっぱり声が出ない。


 もうどうしようもなく、泣き出しそうになった矢先だった。



《さんぽ、さんぽ、さんぽ》



 聞いたことのない声が聞こえた。すごくせわしなくて、能天気で、舌足らずな話し方だ。わたしの家族は両親とお姉ちゃんだけだ。そんな話し方をする人はいない。


 疑問に思っていると、バタバタバタと忙しい足音が聞こえる。



「ワンワンワン、ワワワン!!」


《ねえねえねえねえ、さんぽのじかん! さんぽのじかん!》



 バカ犬の鳴き声と、聞いたことのない声が重なって・・・・聞こえて、直感的に理解できた。



(もしかして、バカ犬の心の声!?)



 わたしが動転していることも知らずに、お姉ちゃんは面倒くさそうに後頭部をポリポリと掻いた。



「ちょっと、勝手に入ってこないでよ」


(ああ、今は6時過ぎなのか)



 バカ犬はいつも庭に作った犬小屋にいるのだけど、散歩の時間を過ぎると家の中に侵入してまで、散歩をせがんでくる。玄関を器用に開けて、


 変なところで賢さを発揮するのだ。本当に腹正しい。



(まあ、マットで足を拭くように教え込んだから、いい方だけど)



 それでも完全に綺麗にはならないけど、マシな方だ。 



「おーい、いもうとー。モモを散歩に」と言った後すぐに「――って、あー、そういえば妹は今日修学旅行か」と続けた。


(え、そうなの?)



 わたしは修学旅行に行っているという話が気になったのだけど、お姉ちゃんは「しょうがない、やるかぁ」と無気力にボヤきながら、周囲を見渡し始めた。



「えっと、リードは、っと……あったあった」



 ひょいっと。自分が持ち上げられたのがわかった。とても大きな手に全身を掴まれて、軽々と持ち上げられてしまう。



(あれ……? そういうこと!?)



 今までの違和感が、一本の線――いや、紐で繋がっていく。



(わたし、リード紐になってるの!?)



 状況がわかっても、意味がわからなかった。朝起きたら、普通の女子中学生がリード紐になっていたなんて、全くリアリティがない。三流作家でも書かないだろう。


 でも、わたしにとっては紛れもない現実だ。



(ちょっと、どうして……)



 いくら考えても、理由がわからない。いや、そもそも不可思議な現象に理由を求めるのが間違っているのかもしれない。


 混乱していると、わたしはバカ犬の首輪に取り付けられていた。


 玄関に出て、秋のヒンヤリとした風を感じた瞬間だった。



(ぐえっ!?)



 さっきまでの疑問が吹き飛んでしまうほどの衝撃が、全身に駆け巡った。


《はやく はやく!》


「ちょっ、待って!」


(ちょっ、苦しい苦しい苦しい!)



 お姉ちゃんの制止を待たずに、バカ犬が走り出したのだ。


 もちろんリード紐(つまり私)は強い力で引っ張られて、ギシギシと体から嫌な音がしている。


 必死に苦痛に耐えている中、呑気な声が耳に入る。



《はしるのたのしい!》


(わたしは全然楽しくないんだが!?)



 バカ犬のバカさ加減にほとほと呆れながらも耐え続ける。


 10分程経って公園に着くと、やっと止まってくれた。



「ぜえぜえぜえぇ。おぇ……」



 振り回されたお姉ちゃんの嗚咽が聞こえた。普段は運動しないから、早速体力が尽きたのだろう。



(無様な。いつもわたしに押し付けている罰だ!)



 悪役令嬢のように高笑いしたい気分を味わっていると、バカ犬が「キャンキャン」と吠え始めた。



《あー、出そう!》



 言った瞬間には、もうフンを捻り出していた。その姿を見たお姉ちゃんは、面倒くさそうに頭を掻いた。



「あー、袋とか持ってくるの忘れたし。いっか、このままでも」


(それじゃ、ダメなんだよ)



 バカ犬はずっと、自分が出したフンの横に座っていた。微動だにせず、お姉ちゃんの顔をじっと見つめている。



「あー、妹が言ってたな。ちゃんと片付けないと、てこでも動かないって」



 お姉ちゃんは思い出したように言った後、何も握っていない左手を見る。無いものはどうしようもなくて、素手で持っていくなんて論外だ。

 途方に暮れていると、バカ犬がワン、と吠えた。



《ちゃんともっていかないとダメ!》


(バカ犬に言われてやんの)



 あまりにもおかしくて、つい笑いそうになってしまう。だけど、今のわたしはただのリード紐だ。紐らしくユラユラ揺れることしかできない。


 海中のワカメの気分を考えていると、誰かが近づいてくる足音が聞こえた。



「あれ、モモくんじゃない。今日はお姉さんの方と一緒なのね」

「あ、どうも」


(あ、タロウくんの飼い主だ)

 


 声を掛けてきたのは、公園でよく会う近所のおばさんだった。とてもやさしそうな顔をしているが、子供を叱る時とタイムセールの時は、鬼のような形相に変わるような人だ。



「妹はちょっと、修学旅行に行ってまして」



 お姉ちゃんは下を向いたまま、モゴモゴと喋った。人見知りだから目を合わせるのが苦手なのだ。



「どうしたの。困り事?」

「あの、袋とかを忘れてしまって……」

「あら、そんなことならお安い御用よ」



 言うや否や、おばさんは袋とスコップを取り出して、慣れた手つきでバカ犬のフンをエチケット袋にしまった。



「あ……すみません」

「いいのよ。困った時はお互い様でしょ」



 おばさんは決め顔を見せつけながら、バカ犬の前に座って



「相変わらず賢いわね、モモくんは」と褒めながら頭をワシャワシャと撫でた。


(そうか……?)


 

 わたしが疑問に思っているうちに、近所のおばさんは颯爽と去っていった。まるで見返りを求めないかっこいいヒーローみたいな背中だった。


 なのだが、わたしは背中に冷ややかな視線を送っていた。



(おい、タロウくんを忘れてるぞ)



 ダックスフンドのタロウくんに視線を移す。バカ犬と元気に遊んでいて、嬉しそうに尻尾をフリフリさせている。まだ飼い主に置いて行かれたことに気づいていないのだ。



(まあ、いつものことだから勝手に帰るだろうけど)



 一見ただのかわいらしい犬でも、飼い主に振り回されて強くなっているんだなぁ、としみじみ思うのだった。

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