第4話 巡る夢幻


 突然、先を進むわたしが立ち止まった。わたしは黒闇こくあんの中に佇んで、動かない。

 

 わたしはわたしの留まっている内に急ごうか、と何処かで考えた。けれども、わたしは足を早めることができない。

 速度を上げると、鉛のように体が重くなって息苦しくなるのだ。めりめり、めりめり剥き出しになったわたしの白い骨が軋むのだ。

 

 だから、わたしはゆっくり、ゆっくり進んだ。足を引きずるように、体を引きずるように。

 皮の剥がれた肚が蹴込み板に擦れて削れて、きりきり、きりきりと音がするけれど、それでもわたしは螺旋を下りた。

 

 ひたひた、ひたひた

 ひたひた、ず、ず

 

 ひたひた、ひたひた

 ぷちぷち、ず、ず

 

 散りばめられた色鮮やかな肉片は、最早それが花の蝶のものなのか、それともわたしの削げたものなのか判ぜない。

 時おりわたしは立ち止まって、視えない壁を見た。その壁にはぞわぞわ、ぞわぞわと肉の破片が蠢いて嗤っている。

 

 あれはわたしで、わたしじゃないなにか

 

 ふと目が覚めればわたしは肉片のひとつで、上を通るわたしに押しつぶされる。ふとまた目が覚めれば、わたしはわたしに絡まる肉で、ばりばり、ばりばりと爪を立てられて引き裂かれる。

 

 あれはわたしで、わたしじゃないなにか

 

 わたしは掻く。掻き毟る。骨の削れるまで、肉に張り付いた神経を一枚一枚剥がして、わたしはわたしを探す。

 

 あれもわたし

 これもわたし

 

 目が覚めても、目が覚めてもわたしは定まらない。わたしはここにも、あそこにもいる。わたしはどんどん、どんどん増えていく。

 わたしという思考はあちらにもこちらにもある。わたしの思考はどんどん、どんどん分かれていく。別れていていく。

 

 わたしがわたしに責立てる。

「下に、行かなくちゃ」

 

「なぜ?」

 とわたしがわたしに問う。


 けれども、それにはどのわたしも応えない。――だって、行かなくちゃ。

 

 わたしはまた歩行き始めた。わたしよりずっと下にいるわたしの元へ足を引きずって進んだ。

 

 ひたひた、ひたひた

 ひたひた、ず、ず

 

 ひたひた、ひたひた

 ぷちぷち、ず、ず


 壁中に花の蝶の目が張り付いて、ぐるぐると廻っている。ぐるぐる、ぎょろぎょろ廻ってわたしがわたしを視ている。

 時おりそのわたしはぷちっと音を立てて爆ぜて足許に散らばる。何色も織り交ぜた汚泥の蟲となって、わたしの足許を這う。わたしの足の裏に張り付いて、うぞうぞ、うぞうぞと這い回る。

 

 その蟲が擦りむけた爪の隙間や削げた瘡蓋の間を縫ってわたしの中に這入って、皮膚かわの下を這い回る。

 わたしはそれでも何も感じなくて、足の肉がすっかり無くなって皮と骨と蟲だけになっても尚、螺旋の階段を下っていた。


 そしてとうとう、眼の前にわたしがいた。わたしはわたしの肩を掴んで言った。

 

「ねえ、どこへ行くの?どこへ進むの?」

 

 わたしは答えない。ずっと俯いて下を見て、何も言わない。わたしはぼんやりと下にいるわたしを見下ろしていた。すると、わたしがぐるりと首だけを回して振り向いた。

 

 それはのっぺらぼうだった。

 

 眼窩も口腔もぽっかりと空いていて、ぐりぐりとした黒い石ころやてらてらとした薄紅の板きれを中に入れているだけ。

 

 違う。これはわたしじゃない。わたしはこんなに、醜くないもの。

 

 のっぺらぼうのそれはぎしぎしと音を立てて首を傾げて言った。

 

「いいえ、わたしはあなたよ」


 気が付けば、わたしはわたしに見下されていた。


 わたしがじっと、わたしを見詰めていた。――あれはわたし。もうひとりのわたし。真のわたし。

 

 わたしはまた、ゆらゆら、ゆらゆらと歪んで定まらない蹴込み板を這うように進んだ。わたしは追われていたのか、追っていたのか。


 わたしはわたしの貌がわからないまま追って追われて、何処までも続く螺旋の階段を下り続けた。


 ひたひた、ひたひた

 ひたひた、ず、ず

 

 ひたひた、ひたひた

 ぷちぷち、ず、ず



 かり……






 了

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夢幻階段 花野井あす @asu_hana

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