走光性

茂木英世

走光性

 六年前、世界が焼き尽くされる光景を見た。万物の構成要素が限りなく分解され、あらゆる質量が光の粒に転化し、炎となる。体の一部を奪う激烈な痛みが法悦に移り変わっていく。振り返れば極大の冷気が光すらも停止させていて、その漆黒の凍土が拡大するほどに、目前の紅の世界は対照的に火を猛らせていた。赫灼と輝く世界は焦熱地獄とはまた違う。これは現世だ。現世が炎に包まれるという到底あり得ない事象だからこそ、これほどの快楽が身を焦がすのだ。何もかもが炎に覆われ、炭化し、灰となって彼方へと去っていく。この全焼する世界に溺れていたい。そう夢見る私の眼が開いた時、そこに映ったのは病室の白い天井だった。



 燃えている男が立っていた。

 澄み渡る青空の下、爪先から頭の先に至るまで燃えている。炎に覆われたその相貌は黒く陰って見る事が出来ない。身長は優に二メートルを超えていたが、それも陽炎で揺らめいて正確には分からなかった。人が目の前で燃えているというのに焦げ臭さくもなければ、唇が脂でギトつきもしない。白昼堂々と燃え盛る苛烈な炎は、例えばプロメテウスの炎や祭儀の為の炎のような神々しさは持っていなかった。しかし恐ろしくもない。その燃えている男は不調和だがそこにあるべくしてあるように私には思えたのだ。

 非現実的な状況を前にして──あるいはあまりにも非現実的だからか──そんな事をぼんやりと考えている私の方をじっと向き、そして何の拍子もなく男はどこかへと歩き去っていった。追おうという気にはならなかった。炎天下で溶けるように揺らぐ道には、私以外誰もいない。遠ざかっていた蝉の声が耳に再び届き始めたのは、それから数秒後の事だった。



 次にその男を見たのは、満月が南中しようとする深夜の公園だった。熱帯夜の暑気を少しでも紛らわせようと手で顔を仰ぐ私の視界の端に彼はいた。誰もいない公園で男は盛大に火の粉を散らしていたが、やはり何にも燃え移らない。まるでこの世界の物質とは存在する層が違うように、静止した彼の周囲で激しく揺れ動く炎は何にも干渉していなかった。これだけの近距離で炎が燃えているというのに直視することが出来たし、喉も乾かない。ただ唯一、私の右腕だけが熱を感じていた。

 不意に男は歩き出し、姿を消した。大きな光源を失った世界は、電灯の明かりがあるはずなのに暗闇に包まれたように思えた。


 

 最初に燃えている男を見てから数週間が経った。私は無機質な部屋の中でジッポライターを指の間で挟み、踊るように回転させていた。遠心力でキャップがカチンと開く。私はそのまま樹脂表面の親指を動かしてフリントホイールを擦り、火をつけた。バーでアルバイトをしていた時に同僚から教えてもらった小技だが、今でも難なくこなせた。義手の調子は悪くない。それでもその痛みはやって来る。もう存在しない右腕が主張する、神経の束に釘を刺されているかのような痛み。幻肢痛だ。脳の神経マップが腕がまだあると誤認してエラーを起こしているなど様々な説はあるが、痛みが発生する正確な仕組みはまだ解明されていない。歯を食いしばりながらライターの火をじっと見つめて痛みをそらそうとするが、どうにも上手くいかない。

 焚書の精神史などという学部生には大それた題の卒業論文を書く事だけに大学最後の一年間を丸ごと使った私はもちろん就職活動なんてしておらず、その癖妙に太々しく構えているところに親が泣きつき、伝手で溶接工の仕事を紹介してもらったのが卒業寸前の一月の事。仕事に特段拘りの無かった私は二つ返事で頷き、近寄った事もない工場で大人しく働いていた。そして私は腕を失ったのだ。

 あの瞬間のことを何も覚えていないが、同時に決して忘れないという矛盾はこの記憶においてのみ──少なくとも私の中では──成立していた。通電した溶接棒が右手首に触れ、肉を焼き焦がし壊死させた瞬間、世界が明滅した。目に映る全てが最小単位にまで分解され、その全てが発火する。五感から入力されるあらゆる情報が常理を超越したビジョンとなって荒れ狂った。熾火のように燃える炎が万象一切を灰に変える全焼する世界の様は、今も私の脳に刻まれている。

「禁煙ですよ、ここ」

 前に座る男の声が意識を現在に引き戻した。私は息を吐きながらキャップを戻す。ライターが着火する煙草はもう吸っていない。私はただの飾りとなったライターを懐に戻し、改めて各指を細かく動かして見せる。痛みはいつの間にか引いていた。三年ぶりに新調した筋電義手の動きは至極滑らかだった。人工皮膚に直接耳をつけないと聞こえないほどに静音化されたモーターが意思通りに指を動かすのを確認して、思わず驚嘆の声をあげる。

「やはり流石です。病院が用意するものじゃこうはいかない」

「五年もすればそれくらいのは病院で買えるようになりますよ。しかしその五年を我慢出来ない人の為に私みたいなのがいます」

「掴みたいという人間の欲は有史以来衰えた事が無いでしょうからね」

「まったく仰る通りで」

 退職後に伝手で知り合ったフリーランスの義肢装具士であるFは形だけの相槌を打つ。白い壁に様々なモデルの義手が飾られた部屋の中で、私はシャツを羽織り直す。Fはもう世間話は終わりだと言わんばかりにデスクに向き直っていた。達磨のように突き出た腹が窮屈そうにデスクの下に収められている。私はシャツのボタンを留めながら、今思い出したような口調を装って口を開いた。

「時にF先生、少しおうかがいしたのですが、幻肢痛は視覚にまで影響を及ぼしますか」

 Fはあくまで義肢装具士であって、医者でもなければ勿論教師でもない。だが義肢装具士という特殊な職業、立ち位置の人間をどう呼べばいいのか分からず、私は「先生」という敬称に落ち着いていた。

「視覚に……。あり得ませんな。見ると触れる事は確定させるという点では似通っているように思えますが、形而下的には──ふむ──まるで違うと言ってよろしい。何か視覚に異常でも」

「おかしなものが見えます。常に燃えている大男です」

 私はあれから何度もあの燃えている男に出会っていた。男は気づけばそこにいて、少しすれば何もせずにどこかに立ち去る。あの男の話を人にした事はない。こんな非現実的な話をして両手で数えきれる程度の友人の数を減らしたくはなかったからだ。だがFになら、義手さえちゃんと用意してくれればあとはどんな陰口を言われても支障はないし、そもそもこの男が人にこそこそと話している姿も想像が出来なかった。

 Fは初めて私の話に関心を示したようにスツールを回転させ、こちらに向き直った。

「ふむ、燃えている男。それも巨漢ですか」

「ええ、二メートルは越えているかと」

「なるほどなるほど。して、その大男から灰は出ていますか」

「──いえ、見た限りでは」

「見えるのは昼間ですか、それとも夜間……。月が見える晩だったかどうかは結構です」

「どちらもです。見える時間に何か意味や関係が……」

「ありますとも。夜であれば太陽欠乏による具象視覚化とも思いましたが、昼夜問わずとなるとどうも違うようですな」私の怪訝な顔を見て、Fは補足説明をした。「太陽欠乏による具象視覚化とは、白夜が起こる地域でよく見られるものです。ずっと見えない太陽を何か別の像として出現させる、いわば認識上に発生する日暈ですな」

「そんな摩訶不思議な事象、私は聞いた事がありませんが」

「でしょうな。あなたはその燃える男が見える事を誰彼構わず人に言いましたか」

 私は首を横に振る。Fはフランクフルトのように太い指で机をコッコッと叩いていた。こんな醜い指先でどうしてこうも超絶的な技巧を凝らした義肢を作り得るのか。この男との関係も六年を超えるが、私にはいまだ見当もついていなかった。

「そういう事です。しかし灰を出さんとは、その男はけったいな程に現代的ですな」

「というと──」

「今どきはなんでも灰を出さんでしょう。例えば──」そういってFは目の前のラックに詰まったファイルを示した。「昔はこういう書類は不要になったら古新聞と一緒に燃やしてその火で焼き芋でも作ったもんですが、電子ファイルじゃそうもいきません。他にも学生街にある木造建築の長屋なんてのが不審火で全焼したりすると、妙にしょっぱい灰が電柱を越えて空を舞ったりしましたな。今じゃ大概のものは全て火にあてれば融けます」

 Fは机の端に置いたものを次々と指さした。水の入ったペットボトル、ボールペン、ステンレスのペン立て。

「昔は全て灰になりましたが、今じゃなんでも融かして冷やしてまた固める。アスファルト、プラスチック、ゴム、鉄……てな具合で。世界の温度ってやつが激しく揺れ動いてた時代と変わって、今は一定なんです。決して発火点を越えず、凝固点を絶対に上回らないんですな。人が融かして世界が固める。そういう因果が出来上がっている。あなたの最新式の右腕だってもう灰にはなりません。融かして終わりですよ。これはいただけない」

「いただけませんか。灰になって無に帰すよりもずっと効率的だとは思いますが」

「馬鹿言っちゃいけません。不死鳥だって一度灰になってから蘇るんです。灰を経由すべきなんですよ全てのものは」

 それを聞いて私の心臓は一際強く跳ねた。あらゆるものが灰燼に帰す世界。それは私が右腕を失った時に幻視したあの全焼する世界のことではないか。かくあるべしと私に焼きつけられた煌々としたヴィジョン。しかし現実では決して許容されない灰暗いヴィジョン。燻っていたそれに突如焦点を向けられ、私は瞠目する。

 Fは立ち上がると陽光を遮っていた緑色のカーテンを開けた。ビルの八階にあるこの事務所からは、墓標のように立ち並ぶ灰色のビルが形成する都市空間を見渡すことが出来た。

「しかしもうこの世界に灰は降らんのです。このビルの森にいくら火を放ったところで、焼き畑はもう出来んでしょう」

「ではF先生は、再び全てが可燃の世界が到来する事を望まれますか」

「というよりはその後ですな。全てが焼けて灰になった土壌から育まれるものに興味があります」Fは壁に掛けた義手を手に取った。「叶うなら、そうして実った新しい可能性を私が収穫したいとも」

 Fの答えを聞きながら、私は自問していた。では、私はどうしてあの全焼する世界に焦がれてやまないのか。その答えを出せないままに、私はFの事務所を後にした。

 


 ペインティングナイフが意思をなぞるように動く。鼻をつくテレピン油の匂いで精神が落ち着くようになったのはいつ頃の事だろう。

 Fから新しい義手を受け取った日の夜、私は納期の近づいていた油絵を一気に仕上げにかかっていた。キャンバスに描かれているのは、自然の息吹を放つ新緑の森と黒々とした溶岩の二面性を同時に見せる桜島の姿だった。私はFが口に出す灰という言葉を聞いて、その柔らかな音韻とは裏腹にざらついた感覚を感じていた。それはかつて大学生の時に一人で訪れた桜島で味わったものだった。島内を周遊するバスから降りてしばらく歩けば、当時私が履いていた黒のスニーカーにはすっかりざらついた感触の火山灰がこびりついていた。ホテルに戻って靴を脱げば中からまだまだ灰は出てきた。その灰は記念に小瓶に詰めて、今でもサイドテーブルの上に飾ってある。

 桜島が浮かぶ洋上の青はキャンバスの上にはない。代わりに島を囲むのは荒々しい炎だった。四方の壁には同じように炎と何かを合わせて描いた絵がいくつも並んでいた。趣味の油絵を仕事にまで延長し、かつての伝手を使って売り払う事でなんとか糊口をしのいでいる。アマチュアに毛が生えた程度の私の作品が情け混じりとはいえ最低限の評価を得られているのは、作品に共通する炎の要素が特徴として機能しているからだった。

 私が描く絵は全て燃えている。言うまでもなく右腕を奪ったアーク放電がもたらした全焼する世界のビジョンが着想元だった。バーを営む友人から依頼された今回の作品は、その幻想世界とかつて訪れた桜島の光景を合わせたものだ。私は濃い煙を空へと立ち昇らせる桜島の威容を思い出す為に、持ち帰って来た火山灰の入った小瓶に目をやる。

 小瓶の中の火山灰は、ライトの光を受けて星のように輝いている。そもそも火山灰とは言うが、動物や草木を燃やして出る灰とは違い、これはマグマが噴火した後に急速冷凍され、砕けて散った鉱物結晶片だ。それが火山の噴火に合わせて凄まじい勢いで放たれる。まるで地球の出産のように。

 星の落とし児である火山灰にとっては、この小瓶すら揺り篭には大きすぎるのだろうか。私はふとそんな事を考えついた。私はこの灰をもっと圧縮してやるべきなのかもしれない。圧縮された灰は熱を持ち、様々な化学反応を起こし、やがてその灰を宿した生命が生まれるだろう。四十六億年前に数多の隕石が衝突し合って生まれた灼熱のこの星から、隕鉄の残滓を血の中に宿した生物が生まれたように。

 Fの言葉は虫眼鏡で日光を黒い紙に収束させたように、キャンバスにぶつけるだけだった私の炎への種火のような欲求から濃い煙を立ち昇らせていた。炎とは本来禍福どちらにせよ何かを生み出すはずのものだ。だが今の不燃物だらけの世界では炎は炉に押し込められ、灰を出さずに融かす事だけに使われる。人の灰すらその無機質な熔解冷却のサイクルから逃れられてはいない。火葬されたあと、骨上げで拾われなかった残骨灰の中の金歯や人工骨に使われていた貴金属は売り払われ、そしてまた鋳溶かされて何かの部品となるのだ。

 ぼうっと小瓶を捉えていた視界が歪む。幻肢痛だ。私は汗ばむ左手で生身の右肘を抑え、痛みを抑え込もうとする。だが無意味だ。痛みは金槌で激しく打つように暴力的な衝撃となって存在しない腕の中に響き渡る。きっと私の腰は早くに曲がるだろう。存在とは衝撃の連続であり、ゆえに長く生きた人の腰は蓄積された衝撃に負けて歪む。であれば人よりも多くの衝撃を幻肢を通して体の中で轟かせている私の背骨は、きっと耐久力を加速度的に失っているに違いない。

 ふと、あの大男を思い出した。炎熱を纏うあの男は、しかし人の輪郭に炎を留めている。人の輪郭という限られた空間内にあれだけの荒々しい炎をまるで炉のように抑え込んでいるのだ。ならばあの男の中でも何かが鋳溶かされているのだろうか。その中で鋳溶かされているものにも衝撃は伝わっている。それはもはや精錬ではないのか。ならば、一体誰がそれを冷やし、固められるのだろう。そんな事を考えていると、いつの間にか痛みは引いていた。あの男の事を脳裏に思い描くと痛みが消える。馬鹿な思いつきだと笑い、脂汗を拭って私はまた絵具を塗り広げた。



 地下のバーに続く階段の前で、私はまたあの燃える男を見つけた。夏至に近づくほどに出会う頻度が高くなっている。夏とはいえ午後十時を回ると太陽の残滓も残っていない。下弦の月が僅かに傾いている夜に、男は街灯の下に立っていた。羽虫がジジと音を立てる街灯に群がっているが、下のもっと強烈な光源には近づかない。むしろ寄せられているのは私の方だ。納品する油絵を抱えた私の右腕、その内側を這いずり回る何か。輻射される熱に呼応するように、温点も痛点もないプラスチックと樹脂で出来た義手が脈打つ。

 初めて男と出会った時、私はあの全焼する世界のビジョンからの使者だと思った。だが今は違うと分かる。きっとこの男も私と同じビジョンを抱き、それを現実とする為に流浪の身となったのだ。そして同時にその目的は一人では成し得ないものだと理解したのだろう。だから私の下へと出向いたのだ。同じビジョンを見た私と共に目的を達成する為に。

 この男自身が一つの炉であり、その中で何かを精錬しているのなら、その何かこそが全焼の世界到来の為に必要なものではないのか。それが一体何なのか、好奇心ともまた違う欲望が胸の中で熱くなって存在を主張し、私はそれに従って立ち尽くす男へと手を伸ばす。近づくほどに人工皮膚の表面は熱で爛れ、泡立っていた。私の手は行先を数瞬迷い、だらんと下げられた右手を掴もうとした。だが義手は空を切る。男は気づけば曲がり角まで後退していた。間違えたのだとすぐに気づいた。男は踵を返してどこかへとまた去っていく。義手に目をやれば、どこにも傷はない。私は落としたキャンバスを掴み、バーのドアを開けてベルを鳴らした。



 Kは文学部生時代からの友人だった。かつてはバーで二人でアルバイトしていたが、Kは卒業後も働き続け、今ではこんな立派な自分の店を構えていた。数分前、自分の店の前で奇妙な邂逅が行われていた事など露知らずにKは壁に飾られたあの桜島の絵を見ていた。

「うん、良い絵だ。悪いな、わざわざ持ってきてもらって……。送ってもらっても良かったんだが、せっかくだ。少し話したくてな」

「いや構わないよ。どうせ絵を描く以外には特にする事のない身だ」

「それなら良かった。しかし本当に代金はあれだけで良いのかい。多少無理なスケジュールで描いてもらったんだ。もう少し出すつもりでいたんだが」

「絵を描く以外にはする事のない身だと言っただろう。特に入用な事もない。十分さ」私は誰もいない店内を見回した。「しかし空いているな。そっちこそやっていけているのか」

「お生憎様、火曜日はこんなもんだ。火のつく日に酒は縁起が悪いもんでね。だから君を呼んだんだ」

 なるほど、と私は皮肉への反応はそこそこに頷いてみせる。グラスを拭くKの黒ベストに蝶ネクタイの姿は様になっていた。私は一杯目に注文したカルーアミルクを啜る。

「わざわざ来てもらったのは、これを返したかったからなんだ。すっかり忘れていたんだが、つい先週部屋の底から見つけてね」

 Kがカウンターの下から取り出したのは一冊の文庫本だった。レイ・ブラッドベリ『華氏四五一度』。検閲と焚書による思想統制が行なわれる世界を描いた小説であり、私の卒業論文の着想源となった作品でもある。もしこの小説を読んでいなければ私は一年間を卒業論文だけに費やす事はなく、ちゃんと就職活動をして溶接工以外の仕事に就いていたのだろうか。そうすれば私の右手も失われなかった。そんな愚にもつかないもしもの話は残りの酒と一緒に飲み干した。黒地に赤い文字で題が書かれた表紙を撫でる。これは近未来を描いた小説だが、そこでは灰が舞っている。小説内世界がFの言う、融かして固める現実とは違う道筋を辿ったのか、あるいはこの現実も時を経ればまた炎によって灰が舞う世界となるのかは私には分からなかった。

「六年越しにとはいえ、律儀だな。私ならそのままにする」

「男のものを家に置いておくのは趣味じゃないんだ。それに借りたものはちゃんと返せよ」

「君が言うな。私は返せる気がしないから、そもそも借りないようにしている。──二杯目を」

「同じもので良いかい」

 私が頷くと、Kはバケツから拳大ほどもあるロックアイスを取り出した。氷が詰まっているバケツに刺されていたアイスピックを引き抜き、ロックアイスを削っていく。立方体は多面体となり、球体へと近づく。学生時代の私達にはこんな技術はなかった。

「冷たくないのか」

「指が震えそうなのを必死に抑え込んでる。けど冷えた氷は同じく冷えたピックじゃないと上手く削れんのさ」

 向こう側が見えそうな程に透き通った氷は真球に限りなく近づき、カランという小気味いい音を立ててグラスに入れられた。コーヒーリキュールとミルクが注がれ、甘口の酒が出来上がる。手に取ろうとすると懐の何かが椅子に擦れた。取り出すとライターだ。私はつい癖のように手の中で回転させ、掴み直して火をつける。

「昔一度見せただけなのに、まだ出来るのか。器用なもんだ」そうだ、この小技を私に教えてくれたのはKだ。「灰皿を出し忘れていたな、ちょっと待ってろ」

「いや、いいよ。ライターは持っているだけで、もう吸わないんだ」

「ふぅん、そうかい……」

 私もこのライターと一緒だ。種火だけを抱えて、燃やす相手を持たない。喫煙所がどんどん失われていくように、世界は炎と灰を否定していく。

「なぁ、昔君は燃える世界を見たと言ったよな。その……腕を失った時に、そういう光景を幻視したと。病室でうわ言のように呟き続けていた」

「うん……、ただの怪我によるショックと喪失感による幻覚さ。急にどうして……」

「いや、さっきの本を見つけた時、ちょいと読み返してね。それで思い出したんだ。それにしてもなぜああいうやり辛そうなテーマを卒論に選んだんだ」

「特に理由はないんだ。そうだ、それこそ光に寄せられる虫のようにフラフラと書店で手にとって、気づけばあんなものを書いていた。それだけだよ」

「ふうん……、それで今も燃えているものと縁があるのか」

 私は思わずグラスを落としそうになった。F以外にその話はしていない。まさかFとKが繋がって……、だが何の為に……。

「誰かに聞いたわけじゃない。けれどそういうものが現れていて、そしてそれを見ている人間がいる事に気づいている者はいる。この店のようにバーや酒屋、ガソリンスタンド……、引火するものを扱っている人間は敏感なんだ、そういう気配に」

「そんな、てっきり……、私はただの幻覚なんだと……」

「幻かどうかは関係ないんだ。脳で生起する情報だって神経の発火だ。現も幻も火によって作られているならその区分は大きな意味を持たないんだよ。火は動物の天敵だと言われるが、そもそも動物を動かすのは電流という火花だ。同族ゆえに惹かれ、同族ゆえに傷つけあうに過ぎないよ」

「では私が燃える世界を望むのは……、燃える男を見るのは……」

「君以外にその男を見たという話は聞いた事が無い。なら君がその男と出会うべきという事なんだよ。きっと君とその男は同族だから」

「しかし出会って何をすれば良い……、私は既に間違えているんだ。ついさっきそこで」

「それは分からない。僕は同族ではないから」

「なら、なら質問を変える。君は火と灰の世界を望むかい。ここにある酒が全て瓶から漏れ、一滴に至るまで空を覆う灰と黒煙に昇華される世界を」

「僕は、いや我々はあくまでその存在に気づくだけで、何が引き起こされるかまでには興味がない。誰が、何を、どうやって引き起こすのかに関しては知る余地も無いんだ。けれど個人的感情を述べるのならば」Kはまたグラス拭きを再開した。「君がどうなるのかには興味がある」

 私はどうなるのだろう。Kは既に結論を述べ終えたという風に口を閉ざしていた。私は氷が融けて薄まったカルーアミルクで火照った脳を冷ましながら、啓示というにはあまりにも乱暴なKの言葉を反復していた。冷たいものは同じく冷えたものでなければ削れない。Fの言う通りこの世界が冷えている事で維持されているのなら、それと同じくらい冷たいものがあればロックアイスのように世界の形を、在り様を変える事が出来るのだろうか。例えば、あの日幻視した全焼の世界のように。

 世界と同じほどに冷えたもの。そんな哲学者が探求する真理──氷が象る真球のような──ほどに現世から縁遠いものの在り処の目途が私には立っていた。



 夕焼けが雲を染めて赤錆のような空を映し出す、夏至の日の夕方。私は初めて彼を見たのと同じ道で燃えている男と出会った。Kのバーの前で私が間違えてしまった日以来の邂逅だ。日は空いていたが、もう会えないという不安はなかった。

 私は彼に対して再び接近を試みる。やはり目や口に熱は感じない。しかし温点も痛点もないはずの右の義手だけが熱を訴えていた。あるいはその義手の中に別の世界の層から重なった何かが。その何かは外に出たがっている。私はその訴えを聞き入れてやる事にした。

 義手と肘を繋ぐソケットを外す。その先にあるはずのない腕を私は幻視していた。それは虚構の腕だ。その腕に血は流れていない。しかし脈動する生がほとばしっている。その腕に骨はない。しかし不動の死が貫いている。その腕に肉はない。しかし生と死の衝突で飛散する火花が透明な炎となって揺らめいている。神経の繋がっていない右肘の先には、透明で冷たい炎に覆われた形而上の腕が伸びていた。男を包む炎と同じ、この世界のエントロピーの増減に影響されないものとして。

 私は男の目の前に立ち、その右手を首に近づける。指を這わし、この世の理に背いた炎を交わらせ、炭化して崩れかけの首をぎゅっと絞める。私は六年前に見た光景を思い出す。真紅に燃えるほどに反対側の世界の温度は急落し、闇に包まれていた。それは死という絶対零度。燃えながら生きるという因果から外れたこの男に、私だけが死による焼き入れを施す事が出来るのだ。

 この男はきっと帰還者なのだ。幽玄の炎を求めて探索し、遂に自らの体を薪としてその炎を灯して戻ってきたのだ。エトナ山の噴火に姿を消したエンペドクレスのように。だがその炎でも世界を灰燼に帰させる事は出来ない。私はKが指先で器用に扱っていたロックアイスとアイスピックを思い出す。冷たいものは同じく冷たいもので砕くしかないのだ。

 だから男は、自らの体を炉として鋳造したのだ。血の中の鉄分、星の残滓を鋳溶かし、存在する事で受ける衝撃で精錬し続けてきた。今の世界を砕き、全てが可燃の世界に変え得るものを。ならば私はそれをこの虚構の腕で取り出さねばならない。

 私は男の首に回した五指に力を加える。男はそれが正解であると示すように抵抗しない。私の幻肢は灰になる事も融かされる事もなく、ただ静かに男の首をしめていた。これが私が彼にもたらすべきものだ。Kの言う通り私と彼は同族であり、故にこうしなければならない。骨が折れる音も静的な炎に呑み込まれ、感触だけがしっかりと私の中に響いた。

 男は灰も残さずに消えた。唯一残されたものは、私の手の中で蒸気をあげている。男の体の中で鋳造され、精錬され、そして最後に死によって焼き入れされた、一振りの柄もついていない小刀となって。

 あの男が、この世界で最後の灰とならないものだ。ビルもショベルカーもコンドームもボールペンも、全て燃えれば灰となって空を覆い、私達はその灰を食らって生き永らえていく。私はFのようにこの不燃世界への高尚な批判的精神を有するわけではない。私はかつて垣間見た炎熱の世界をもう一度見たいだけなのだ。火に飛び入る虫のような本能的欲求を満たす為に、私はこの刃を振るうのだ。

冷たい刃先が閃く度に世界が裂けていく。世界が砕けていく。その亀裂から火と灰の相補性が再帰する。

 遊歩者よ……、この世のどこかで燻っている遊歩者達よ。火の時代が来る。火の世紀が幕を開ける。燃え上がろう。幕すら焦がすほど燃え上がろう。煙が筋となって立ち昇り、灰の雲が雷を起こす。視界を白く染める稲光と雷鳴と共に、私は赤黒い炎に向けて喝采の声を上げる。

 Kよ。私はどうもならない。私はただ見ていたいだけなのだ。この純然たる火を……。

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走光性 茂木英世 @hy11032011

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