冬の駅には御用心
柴野
冬の駅には御用心
電車が来る。
眩くこちらを照らし出す電車のヘッドライトを眺めながら、俺は「はぁ」とため息を吐いた。
三十分も待ちに待った電車だ。しかし、俺のため息は安堵したから吐いたのではなく、「ああまたか」というなんとも言えない憂鬱な気分のために漏れたものだった。
それは俺だけではなく、この駅のホームで待っていたほとんどの人が同じことを考えていたに違いない。
電車がホームの前までやって来て、静かに停車した。
どちゃ、と嫌な音がして、赤い何かが飛び散る。俺はそれをチラリと見てから電車へ乗り込んだ。
俺が毎日の通勤に利用するここ――N駅では冬になると事故が多発する。
なぜか? その理由は、降った雪が氷となってホームが滑りやすいからだ、と言われている。
ホームで転んでしまった者はそのまま線路に落ちる。そしてちょうど来た電車に撥ねられるか、もし電車が来るまでにある程度の時間があったとしても線路まで凍結しているせいでうまく立ち上がれず、やがて轢かれる。
そうした者を助けに入ろうとしても同じで、死体が一つ増えるだけだ。だからもし線路に転落した人物がいたとして誰もそれを助け上げたりはしない。無駄なことのために命を投げ出そうと思う馬鹿はいないだろう。
早くホームドアを設置してほしいものだが、貧乏なのか何なのか全く変わらないのである。市民からの苦情が出ているにもかかわらず、だ。
本当はこんなところを毎日利用したくはない。だが周辺に駅はなく、出勤するためにはここを使うしかない。
そして俺はまた今日も目の当たりにするのだ。
「ひぃっ……!」
悲鳴が上がり、若いOL風の女性が転落していく。
ハイヒールなんか履いているからダメなんだ。そんな風に思っていると、電車が見えて来て女性を肉の塊に変えた。
肉が引き千切れる悍ましい音が聞こえ、そこに出来立てほやほやの死体があっても誰も騒がない。よそ者らしい数人が気絶していたが、それだけだ。
電車ももちろん止まることはなく、俺たちがみんな乗車すると何事もなかったかのように走り出す。女性の肉片をずるずると引きずりながら、それに気づかないふりをして今日も走り続ける。
冬の駅は用心しなければならない。
滑らないブーツを履けば問題解決だろうって? 甘いね。そんなわけがない。
だってホームから伸びてくる『それ』は、いつ何時でも俺たちを狙っているのだ。
氷で滑るからというのはあくまで新聞記事やテレビニュースで死因を書くための口実に過ぎない。
この駅を利用する者はみんな知っている。冬になると毎日一人、線路から白い『何か』が伸びて来て、転ばせてから引き摺り込むのだと。
『それ』の正体が一体何なのかはわからない。
過去に本当に氷で滑って転落して死んだ人の亡霊が悪霊となったのかも知れないし、冬特有の怪異の仕業なのかも知れない。
しかしそれを俺たちは確かめようとしない。それどころかまるでそこには何もないかのように、『それ』のことを見ないふりをして過ごす。
多くの人間と同じで、厄介事には関わりたくないのだ。自分の身が何よりも可愛く、平常の生活を送ることが最優先なのである。
目の前で人が撥ねられても、電車が運行をストップすることなく人身事故の後も平気で走っていても、『それ』に引き込まれる人に必死で助けを求められても。
俺は俺の日常をこれからも守り続けなければならないのだから――。
ぐちゃ。
今日もスーツに血を浴びて、俺の新しい一日が始まる。
冬の駅には御用心 柴野 @yabukawayuzu
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