包帯娘

染谷市太郎

包帯娘

 午後23時。

 日付が変わる直前になり帰ってきた娘に対し、私が投げかけようとした注意の言葉は困惑でバラバラになった。

 いつものように靴を脱ぎ、いつものように洗面所へと手を洗いに行く娘の顔面が、白い包帯でぐるぐる巻きにされていたからだ。

 なぜ娘は包帯を巻いているのか。

 なぜ帰宅がこんなにも遅くなったのか。

 なぜなにもいわないのか。

 私の中で湧き上がる疑問を、娘が答えることはなかった。私はさながら路傍の石のように視線も送られることなく玄関で立ち尽くしていた。


 娘が包帯を巻くようになってから、結果的に言えば、私たち家族の日常が変わることはなかった。

 もとより、娘は私を避け、無視をし、存在などしないふうにふるまっていたのだから。

 いつから娘の無視が始まったのかはわからない。すくなくとも娘が高校生の頃は、いわゆる思春期であるにもかかわらず、反抗期など微塵も見せずに仲のいい親子でいたはずだ。日々仕事に明け暮れていた私が気付いたころには、娘の目も耳も私を認識することはなかった。

 そして気づいたころから、意地の張り合いも始まっていた。

 娘が私を無視するのであれば、私は娘をとことんかまってやろう。朝晩挨拶をし、食事を作り、話しかけ、娘が無視などという行為が幼稚であることを自分で気づけるまで。

 そのために私は転職もしてやったし、家事だって、人一倍にできるようになった。近所では家庭的な父親で通っている。

 だからこそ、私は娘が包帯を巻こうとなんだろうと、娘に対する態度は変えてやらない。


「朝ごはんできたぞ」

 私の呼び声に、娘の部屋から返事がくることはなかった。いつも通り、2,3回声をかけようとしたが、プルルルル、と固定電話の着信音が遮った。こんな朝から……、と私は乱雑に受話器を取る。

『もしもし、わたくし〇□大学のものですが』

 娘が通っている大学だ。続く言葉で、電話の相手が娘が所属する研究室の教授であることがわかった。

「いったいなんのようでしょうか?」

 私の低い声に、不機嫌さを察したのだろう、教授は申し訳なさを装った腰の低い声で続ける。

『昨日起きた実験の事故に関し、改めて謝罪をしたく。娘さんからは伺っていますでしょうか?』

 そうか、娘の包帯、その怪我の原因は実験ということか。

 私はこの事実に、ふつふつと苛立ちが沸いた。仮にも教育の現場で娘の顔を傷つけ、そして翌朝になってからようやく謝罪の電話をするという怠慢。私でなければ怒鳴り散らしていただろう。

『怪我は大したことはないのですが、なにぶん顔ということもあり――』

「いえ、謝罪はもう結構です」

 ながながと陳情する教授に、私はきっぱりと断った。大したことはないとはどういうことだ。怪我の程度など関係あるものか。娘が傷つけられたというのに。

 ガチャン、と受話器を置くと同時に、玄関の開く音がした。

 しまった。電話をしている間に娘は登校の準備をしてしまったらしい。

「いってらっしゃ」

 いの音はドアが勢いよく閉められる音にかき消された。家には私と、手も付けられなかった朝食が残された。

 家を出た娘は、昨日と変わらずきっちりと包帯が巻かれていた。あんなものを巻いて、息苦しくはないのだろうか。怪我はどうなのだろうか。そもそも怪我をするような大学に通って大丈夫なのだろうか。

 娘の姿が見えなくなったとたん、どっと不安が湧き上がってきた。

 もしかしたら、大学でなにか問題があるのか。いじめか、セクハラか、最近はアカデミックハラスメントなんてものもあると聞く。まさか、娘は大学での嫌がらせによるストレスで私と口を利かなくなったのではあるまいか。娘のことだ、自分で何とかしようと私には相談できずに結果沈黙してしまっているのかもしれない。

 そのような学校に娘を通わせることなどできようか。いいやできまい。

 私は迷いなく受話器を取った。私は正しい大人だ。例え相手が娘を貶める人非人であろうと、礼儀くらいは通してやらないでもない。大学を辞めさせるにしても一報くらいは必要だろう。

 あの教授からの電話番号にかけなおす。先ほどは苛立ったが、今は窓口を通さずに教授へと直接電話をかけられるので良しとしよう。

 長いコールののち、電話は取られた。

「あの、もしもし?」

 早く出るのが礼儀だろう、と私は苛立ちを声に乗せる。

『え、えっと』

 おぼつかない声に、私は娘の名前を出した。すると電話の主は合点がいったような返事をし、娘を呼び出そうとする。

 どうやら電話に出たのは教授ではなく学生だったらしい。たまたま不在なのか、娘の怪我の責任があるというのに、なんともなっていない教授だ。

 学生も学生で通話口をおさえただけ、電話を保留する方法も知らないのだろう。娘を呼ぶくぐもった声がこちらに漏れ聞こえる。それは同時に私への不意打ちでもあった。

『——さんのお父さんだって』

『え、なんで?』

 娘の声だ……。私は背中からぞわりと鳥肌が立つ。数年ぶりの娘の声だ、喜ぶべきはずなのに、私の胸からはよくわからないものが掻きたてるように湧き上がってきた。胸騒ぎと呼ぶべきだろうそれはやがて私の脳の中で騒ぎ立てる。

『あれじゃない? 顔の』

『クソ迷惑じゃん、先生いなくってよかったわ』

『電話、取らない方がよかったかな』

『あとでいっとくよ、これくらいごまかしたってどうってことなし』

 なんて汚い口のききかただ。なんて品のない声だ。私の脳内で騒ぎ立てるその原因が分かった。これは、違和感だ。何かおかしい。そう感じ取った私の脳が鳴らした警鐘。警鐘に耳を貸していた私は違和感の正体を看破した。

 もしや、まさか、けれど、そうだ。私の娘はこんなしゃべり方じゃないしこんな声じゃない。あれは私の娘じゃない。

 その答えは、私の頭に冷たく広がった。

 娘の偽物が娘に成り代わっているだなんて、突飛だが、しかし、これは事実だ。違いない。大学のあの研究室の教授も生徒もみんなグルで、娘をどこかに隠し、それを悟られないために替え玉を用意したのだ。顔面の包帯は顔を隠すための道具だ。娘がここ数年私と会話していないことを知っていれば、背格好の似た人間を用意すればどうとでもなる。

 ならばこの事実を前にどうすべきか、答えは決まっている。そうだ。娘を助けるんだ。私は娘の家族、お父さんなのだから。大丈夫、DIYもやっていたのだから道具はそろっている。あとはロープと、ブルーシート、備えあればいいだろう工具と共に車に詰め込んでおけばいい。娘はきっと寂しがっているに違いない。そうだだからお父さんが迎えに行かなければ――

 ピンポーン

 今すぐにでも飛び出していきそうな私の思考は呼び鈴に断絶された。こんなときに、いったい誰だ。

「すみませーん」

 外からの声に、私は身じろぎした。この声は、今朝がた電話越しに聞いた、あの教授の声だ。

 ……そうか、私が娘の件に気づいたと知ってきたんだな。

 私は拳を握りしめた。ちょうどいい、こっちから行こうとしていたんだ。

 私はなんでもないといった風な表情を作り出し、教授を迎えた。

「どうぞ」

「突然すみません、やはり娘さんの件できちんと謝罪をさせていただきたいと思いまして」

 あいさつもそこそこに我が家に立ち入った教授は、まるで珍しい動物でも観察するようにぐりぐりと私に視線を送った。なんだその態度は。謝罪するのではなかったのだろうか。

 教授は私が用意していた工具に一段と強く目を光らせる。

「日曜大工を?」

 質問の声音は、同じ趣味を持っている喜びではなく、なぜこんなことをしているのだという非難と呆れの声だった。私はその失礼さに眉間にしわを寄せた。これらの道具はお前のための道具だといってもいいのだが、私は人一倍冷静だ見逃してやってやる。

「本題に入りましょう」

「そうですね」

 どかりと座った私の向かいに、教授は静かに腰かけた。

「娘さんの怪我は本当に申し訳なく」

「そういうのはいいんですよ。別にあれに対して心配もしていませんし」

「はぁ」

 教授はため息ともつかない返事をする。

「だいたい、わかってるんですよ、あれが娘でないことくらい」

「……は?」

 今度は教授は目を丸くして返事をした。

「娘じゃないあれを、心配なんてするわけないでしょ?」

「あなたね……」

 私の言葉に教授は渋面を作る。どうだ、痛い腹を探られた気分は。私は思わず口角を上げてしまった。

「そんな言い方はないでしょう。仮にも血を分けた子供ですよ」

 なんだ、まだばれていないと思っているのか。あるいはごまかしたいのか。

「違いますよ。それはあんたが一番知っているはずじゃないか」

「なにを言って……」

 教授は顔をぬぐうように手を当てる。長いため息を吐いて、口を開いた。

「……まったく話にならない。彼女の言っていた通りだ」

「当たり前だ。お前なんぞが私を騙せるはずもない」

「いったい何を勘違いしているのかは知りませんけどね。これで確信しました。彼女はあなたの元から離れるべきだ」

「勘違い? 勘違いをしているのはお前のほうだ。常識しらずの社会不適合者め」

「彼女から多くの相談を受けました。あなたの娘さんは、もうあなたの元を出ていく意思を固めています」

「そういって私から娘を奪う気だな? あのこが私の元を出ていくなどありえない。私が育てた娘だ。私が金と手間をかけて」

「彼女を物のように言わないでください。親が子供の面倒をみることは当然の義務です」

「子供もいないお前に私たちの家族愛が理解できるものか」

「家族愛を語るのであれば、まずは娘さんの顔をごらんなさい。彼女はあなたに怯え、拒んでいるのですよ?」

「知ったような口をきくな!」

 私ははねのけるように声を張った。この教授とやらはいったい何を見当違いに私を責め立てるのだ。私は娘に愛情を注いできた。私たちは家族だ。家族は一緒にいるべきだ。

 それを引き裂こうとするなど。

「そうか、お前が主犯か」

「は?」

 私は無意識に工具の一つを握りしめていた。


 ゴンっ


 一つの障害が片付いた。

「先生?」

 しかし、品のない声が降ってくる。

 包帯を巻いた娘、もとい偽物が目を見開いていた。

「え? ……お父さん、なにして?」

 のこのことやってきたか。そして私が気づかないとでも思ったか。この

「偽物が!」

 悲鳴と鈍い音が重なる。

 ああ、しまった。娘の居場所を聞き出すべきだったのに。私は今更になって少し後悔した。

 しかし大丈夫だろう。あの大学の研究室全体がグルのはずだ。他に仲間がいる。私を騙そうなどという愚かな奴らだ、仲間の死体と共に私の怒りを届けてやればすぐに口を開くに違いない。加工をすれば効果は高まるだろう。ではまず、この偽物からだ。

 私は包帯に手をかけた。

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