猫についての考察

島尾

港の泥棒猫

 夜、港で釣りをしていたときのことである。アイナメを釣ってエラを切っていた。バケツの中に血液がじわー、と流出する様子を無心で眺めていた。魚を殺しているのはこの自分自身なのに、当事者ヅラをあえてしないのには理由がある。よく、生き物を殺す際に「苦しまないように早く殺してあげるべき」という意見を耳にする。確かにそうだろう。死ぬことが決定しているならば、苦しむ時間をなるだけ削るべきである。多くの人がそう思う理由は、自分を含む生ける者が苦しみを幾度も体験し、その耐えがたさを身をもって知っているからである。そう考えると、蚊を潰すのは最も合理的な殺戮方法といえよう。血液を吸っている至福の時間から一転、死の世界へ転移させられるのだから。もっとも、蚊が血液を吸うときに幸福なのかは不明だし、そもそも幸不幸や苦楽などの人間的概念を蚊などの他生物に当てはめてよいものか不明である。しかし、“「処分機」と呼ばれるガス室へつながる。職員が操作盤のボタンを押すと通路の奥の壁が電動で前へせり出し、空間が狭まる。犬や猫は逃れようとしてガス室に誘導される。下から二酸化炭素が噴き出し、窒息死に至る” (https://sippo.asahi.com/article/10563326より引用)という経路を経て死ぬ犬猫がいる現実を知れば……蚊の死に方、あるいは人間の死に方と比べてしまう。

 

 これらは、「一つの生き物の死」というものを、大勢の人間の目で見て考える際に出る、この世から消えゆくものに対する最後の慈悲の心だろう。「苦しみたくない」という、ごく当然の己の気持ちが、死を目前に迎えるその生き物に対して反映され、反射的に対象に作用するものと思われる。


 しかし、「私 - 私の釣り上げた魚」という二元にげん系においては話が違うのではないかと、最近思い始めた。


 魚のエラを切るだけでは、魚は死なない。数分、あるいは数時間生きている。これは血抜き行為であり、おいしく食べるための作業だ。体内の血液を抜き去るために、魚の心臓の拍動をポンプとして利用し、切断されたエラを流出口とし、血液を出すという方法である。そのとき魚は異様な挙動を示し、痙攣し、または止まったまま気絶している。

 これを、そばにいた第三者が見れば残酷と評すだろうし、読者もそう思うかもしれない。しかし行為者である私から見れば、「どうせ死ぬ」魚を「いかにおいしく食べるか」が最も重要であり、「苦しみを与えるか否か」という問題の優先順位は下がる。リリースした魚以外は、私は、食べるために魚を釣る。殺すためではない。蚊のように、余計なものを消すためでもない。弔うためでもなければ、墓を掘るためでもない。食べるために魚を釣る。だから私は、食べれる部位は残さず食べる。イワシや小アジは骨まで食べるし、メバルやソイ、アイナメは身を食べたあと皮・骨・頭でダシを取る。怠けて調理を疎かにして腐りかけにしてしまったものも極力食べる。結構まずくなっているが、極力食べる。私は食べるために魚を釣って持って帰るのである。よって私を最も絶望させるのは、過剰な怠惰ゆえに魚が完全に腐敗し、もう食べられなくなって、捨てざるを得なくなったときだ。この経験が3回か4回あったが、いずれのときも体調が悪くなり、精神が明らかに陰鬱となった。一日中寝込んでしまったこともある。


 さて、アイナメを釣ってエラぶたを切っていたときに、ふと後ろを振り返った。理由はない。なんとなくである。


 人間である私の真後ろに堂々と構えていたのは、白と黒の模様をした生意気な泥棒猫だ。私は頭にヘッドライトを装着していたので、猫の目玉が金属のごとく光り輝いた。こいつは、命のことについて考える脳みそを持ち合わせない、類人猿ですらない、愚者である。当然こんなものに私の釣った大切な魚を与えるわけもない。よく、釣ったイワシを放り投げて猫にやっている釣り人がいるが、あれはイワシに対しても泥棒猫に対しても接し方を誤っている。ひそかに私は彼らを「無思考の人」と定義している。十中八九、頭を使っていないのだ。命と向き合うに際しては徹底的に頭を使わねばならない。「無思考の人」を見る毎にそう思う。とはいえ「無思考の人」の行為は、弱肉強食の自然界で起こりうる最も可能性の高い現象なのかもしれない。シャチが捕らえた獲物で遊ぶがごとく、ヒトが野良猫にエサを与えて遊ぶのは強者にのみ与えられた特権的遊戯なのかもしれない。しかしそれでは、ただの「強い生き物」でしかない。「人間」ではないのではないか。


 さて、白と黒の模様をした泥棒猫と目が合った私は、カバンから1,700円で購入した腎臓にやさしいキャットフードと、100均で買った白い器を取り出した。


 その猫は、私が魚を釣ったらいつもやってくる。泥棒猫と表現しつつ、「釣り仲間」と言ってもおかしくない感覚もある。海面にが立つほど寒く、灰色だらけの殺風景なコンクリートでできた人工の漁港に、そいつがひょこっと現れるだけでなぜか心がほんわかとする。やや離れた位置から、腹の立つ目でジーッとこっちを見て、いつ釣れるのか待ち構えている様子に、謎のつながりを覚える。以心伝心というものだろうか。たまに、私からにらめっこを挑むことがあるのだが、なかなか負けてくれないことが多い。なんとか先にそっぽを向かせようとするが余り、肝心の釣りを長いこと中断せざるをえない。それとは対照的に、1秒も経たないうちに顔を横に向けて無視される場合もある。「気まぐれ」という言葉では許されないほど身勝手で、微塵も私に興味を持っていないようである。私のことを、魚をくれる機械とでも思っているようだ。別に私でなくても誰でも良い、私なんて入れ換え可能の量産品的な存在であるのは、最初から自明である。「釣り仲間」などと書いたが、向こうは「都合のいい機械」としか見ていないと思われる。


 それでも私は、皿にキャットフードを適量盛って泥棒猫に与える。

 当初は、「惨めな野良猫にも美味しいものを食べる権利があるはずだ」などという、偽善的精神に基づいた自己満足で与えていた。より多くの、よりやつれた猫に、タワマンの高層階に住む金持ちに飼われているウン百万の○○種と同様、美味しくて健康的で高価なキャットフードを! と。今ではそんな綺麗ごとじみた平等主義はことごとく消え失せた。自己満足という部分は変わりないが、より少なく……具体的には、いつもどこかでエサにありついているであろう肥え気味の白黒猫と、それより1.7倍ほど大肥りな顔が茶色のいけすかない猫、この2匹のみを贔屓ヒイキにして、与えている。実は、やや細めのキジトラが稀に走り去ってゆくのを見かけることがあって、それが寄ってきたら与えようかとも思っているところである。しかし、それに与えると3匹になってしまう。3匹は多いのではないだろうか? 2匹も妙に違和感がある数字であるし、+1をするのは罪ではないか、などと逡巡するこのごろである。


 この腹立たしい猫どもに、できるだけ長生きしてほしい。ガス室で、第二次世界大戦のアウシュビッツ収容所で殺されたユダヤ人たちのように、むごたらしい死に方をしてほしくない。とはいえ誰かに看取られるほど大切にされるような身分でもないから、寿命を迎えたときはどこかくさむらの中か土管の中ででもくたばってくれればいい。むくむく肥ったその肉は、見た目に反してさほど美味しくないだろう。そもそも猫を食べるという文化は、少なくとも、港から私の家を結んだ線分を直径とする円領域内に含まれるどの市町村にも絶対に存在しない。よって血抜きのために半殺しにされる可能性は0とみなしてよい。警戒すべきは、釣り人からもらった魚(と、その表面に付着する海水)に含まれる塩分である。その塩分は死ぬまで腎臓に蓄積され、腎臓病が死因に繋がる恐れが高い。しかし泥棒猫はあまりにも愚かなので、警戒どころか嬉々として、与えられた魚をバリバリ食べるという始末である。いったい私はどうすればいいのだ。私はここまで考えているのに、やつらは何一つ考えていない。私が泥棒猫のために随筆を書いているというのに、きっと彼らは鼠でも食べているんだろう。そしてますます肥えるのだ。



 日増しに猫が好きになっている自分がいる。飼おうとは思わないが、顔を見たいと思う頻度は1年前より明らかに増加している。つい先日ペットショップに行ったとき「猫が好きか」、そう訊かれたが、無意識に「好きだ」と答えた。その質問もその回答も、この随筆を書いている今の私には浅はかで無意味なものに思える。何か別の回答を用意せねばなるまい。

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