龍の道 第2話

「ああああダメダメ怖い怖い怖い!!」

 私は正直に叫んだが、それで下り坂を滑るかぎが止まるわけはない。

 見る見る故郷の村がある、絶壁の中腹の岩棚が遠ざかっていく。

「ダメダメ!」

 私は青ざめてソナンにダメ出しをした。

 そう言われてもという顔をソナンはしていた。

「リンリン、もう戻れない」

 呆れたような顔で、ソナンは済まなそうに言った。

 言われなくてもそれは分かった。

 やってみるまで気づかないのも馬鹿だったけど、かぎはものすごい速さで私たちを崖向こうに連れ去っていたし、その速さに逆らって上り坂を戻るためのロープを力任せに引いたところで、ぜいぜい、滑るのがゆっくりになる程度。

 これは一旦向こう側に着かないと、戻ることはできないんだろうと思えた。

 分かるのが遅い!

 私はいつもそうだ。いろいろ考えるくせに、肝心のことは分からないんだ。

 だから謳い巫女にもなれないんだ。

 お母さんが残してくれた楽譜を見ても、いまいちどんな歌か分からないし、私が謳いかけても麦も芋も、特に歌わなくてもこれぐらいは育ったんじゃないかなっていう程度しか育たない。

 それでいいんだって村の人たちは言うけど。

 いい訳、ない。

 私は半泣きで自分を責めながら、空中を滑っていた。

 蛇は出なかった。出るわけがない。

 あの話はきっと、作り話だからなのだ。

「来る……」

 ソナンが急に弩を構えた。

 装填すれば、片腕でも撃てるように工夫された、変わった弓なのだ。

 ソナンの家にしかない。

 でも、そういうのやめてくれる?

 何も来てないと思うの。何も来てない。

 私は息も絶え絶えで、じっと崖下を見るソナンの鋭い目つきの横顔を見た。

 こんなに近くでソナンを見るのはいつぶりかしら。

 女の子もをつける年になったら、男の子とは遊ばないものよって、皆が言うから避けてきたけど、ソナンは小さいころに池で一緒にカエルに石を投げてた頃と、大して変わっていなかった。

「捕まれ、リンリン」

 もう捕まってる。かぎから私たちを吊るしている鎖に、私はがっちり捕まっていた。死んでも離さないつもり。

 そういう私の視線に頷くと、ソナンはえびらから片手で短い矢を取って、一本、いしゆみつがええた。

 何が来るのか言ってよ。

 下を見ているソナンの視線をたどり、私は遠くの崖下にたまっているもやが、ふわっと膨らむのを見た。

 そこから何かがまっすぐに、もやを割って現れる。

 嘘でしょ。いやいや、まさか。

 やめてよ!

 確かに蛇としか言いようがない!

「蛇だ!」

 驚いた声で、ソナンもそう言った。

 私は泣くしかなかった。

 銀色に輝く鱗を持った、すごく巨大で長い胴体の何かに、はねが生えてる。何枚も。

 それがにょろにょろと空中を這うように、こっちに向かって来てる。

 夢?

 それか、単なる通りすがりの蛇?

 初めて見たけど、好きな食べ物は何?

 干し肉とドングリのお餅なら持ってきたから、全部あげてもいい。

 私たちを食べないで!

 私は心の底からそう願った。心の中で。

 だけど声にはならなかった。

 燃える溶鉱炉の鉄みたいな赤い目で、蛇が私たちを見た時も、鋭い牙のある洞窟みたいな口を開いて、湿った喉を見せてきた時も、私はただ、願っていた。心の中で。

 お願い、ゆるして……。

 ソナンが弩を構え、引き金を引いた。

 矢は飛び、蛇の眉間にある星のような紋様を射抜いた。ように見えた。

 しかし蛇が首を振って、それを避けた。

 黒いシミのように鱗の合間にある、その文様に、見覚えがあった。

 ソナンの家の居間に飾ってある。私の家の炉辺の絨毯にも。

 願いことがあるとき、私たち村人は、その印を拳で叩き、小声で祈る。

 それはただの風習だ。

 私も小さいときに祈った。

 お母さんの病気が早く治りますように。

 けど、そんなのはただの迷信だったんだ。

 ソナンはひたすら、蛇の黒い星を狙って打ち続けていた。

 当たらない。蛇は空中で巧みに避ける。

 えびらの矢が減っていくのを、私はただ見ていた。

 それを使い尽くしたら、私たちはどうなるんだろう。

 どうなるのかを、私は考えなかった。考えても、どうしようもないから。

 私にできることが何もないのが、どうしようもない。

 ソナンに向こう岸に行きたいなんて、言うんじゃなかった。

 子供のころからソナンはいっつも、私が頼めば何でもやってくれるのが、一番、いけないところだった。

 私はそれを知っていたと思う。知っていたから、ソナンに頼んだんだ。

 都のお社に行って、お母さんみたいな謳い巫女になりたいの。私、そこへ行きたいの。

 私はあの橋を、一人で渡れると思う?

 そしたらソナンは首を傾げて、無理だねって言った。

 けど二人なら、渡れると思う。指切りしようぜ。向こう岸に連れて行ってやる。

 ソナンはそう言って、私と小指を絡め、約束した。

 村の人たちが決して破らない誓いを立てるときにする、約束の指切りだ。

 婚礼でもやる。

 私たちの婚礼はもう無理になったけど、私は今それを、初めて少し、残念に思ってる。

かんざし!」

 ソナンが振り返って、私に怒鳴った。

かんざしくれ! もう矢がない!」

 私が髪に挿してる珊瑚玉のかんざしを、ソナンが引っこ抜いた。 

 長い髪が空中に広がる。

 何やってんのよ! それを引き抜くのは婚礼の夜でしょうが!

「お母さんの形見なのに!」

 私は怒鳴った。

「うるせえ、持ってても、もうすぐお前の形見になるだけだ!」

 ソナンが怒鳴り返し、容赦なくかんざしいしゆみつがえた。

 そんなもの飛ぶと思う⁉︎

 けど、私たちはもう万策尽きたのだ。

 抵抗せず死ぬか、一矢報いて死ぬかだ。

 お母さん。思ったより早く逝く。ごめんなさい。

 そう思った瞬間、私は思い出した。

 お母さんが死のとこで、私に教えた歌を。

 悪い蛇が来たら、みんなに歌ってあげてね。その時だけよ。

 とても強い歌だからね……。

 お母さんは確か、そう言っていた。

「待って!」

 まだそれを射ないで。

 私はそう頼んだのに、ソナンは一瞬も待たないで、引き金を引いてしまった。

 バカなんだから!

 内心で悪態をつきながら、仕方なく私は歌った。

 どうせ死ぬなら歌って死んだっていい。

 何にもしないよりは。

 そう思うと思いがけず強い声が、私の喉から溢れ出て来た。

 言葉ではない音が、喉から湧いてくる泉のように。

 ソナンが射たかんざしは、蛇に当たった。蛇が避けなかったからだ。

 蛇は私の歌を聴いているようだった。忘我の目をして。

 朦朧とはねを休め、蛇は落ちていった。滝も霧散するほどの、はるか下へ。

 そして霧の中に消えた。

 いつまで歌っていたのか、気づくと私は、崖の向こう側へと着いていた。

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ふどらい参加作品「龍の道」(仮) 椎堂かおる @zero

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