龍の道 第1話

 夜明けがゆっくりと東の空を染めていた。

 暗かった景色がみるみる輪郭を現しはじめる。

 私たちが潜んでいた岩陰の向こうに、古びた橋脚と、そこに張られた太いワイヤーが一本の線になって、崖の向こう岸に続いているのが見えた。

「見えたな。行くぞ」

 私の隣で寒さに震えていたソナンが、いしゆみを持って立ち上がった。

 私はそれを座ったまま見上げた。

「本気なの?」

「本気なのってなんだよ。お前が行くんだろ。俺はその護衛だ」

 ソナンは呆れた顔で私を見下ろしてきた。

 短く整えた黒髪に、細かい刺繍の入った赤い鉢巻をしている。

 猟をする者の出立ちだ。

 ソナンの家は代々の狩人で、子供の頃から弓を仕込まれている。

 背はそんなに高くはないけど、ソナンはいかにも敏捷そうな体つきをしていた。

 ちょっと前までは、私より背も小さくて、走ったらすぐ転ぶような子だったのに、十五になる頃には、背丈も足の速さもソナンに追い抜かれていた。

「死ぬんじゃないかと思うのよ。ずっと考えていたんだけど」

 私は崖の向こうに続くワイヤーが朝日に輝き始めるのを見て、恨めしく言った。

「あの紐みたいなのに、かぎを引っ掛けてサーッと滑って渡るってことでしょう?」

 崖の向こう側には滑ってきた人を受け止める網のようなものが張られていたが、破れているように見えた。

 とても遠いので、そんなふうに見えるだけか。

 ワイヤーもさびが浮いていて、途中で切れそうにしか見えない。

 私たちはそれに自分たちふたりの体重を預けて、向こう岸に渡ろうとしている。

 私たちの部族はこの山の中腹にある崖に住んでいて、ずうっと昔から代々、深い谷の向こう岸の平地に渡るために、この一本橋を使ってきた。

 橋といっても歩いて渡れるところは無く、一本の丈夫なワイヤーが対岸とこっちを繋いでいて、体に結んだかぎを引っ掛けて滑って渡るのだ。

 昔からずっとそうだった、と大人たちは言っている。それで大丈夫だったと。

 行く時は、こちら側の橋桁にくくりつけた縄の端を持っていかねばならない。

 戻るときには自力でその縄をたぐりよせて、力技で引き返すしかないからだ。

 ワイヤーはこの村から出るために、下りの傾斜がつけてある。戻る時には上り坂ということだ。

 かつては、そうやって往来していたと、村の老人たちは語っている。

 そう。

 今は、やっていないってこと。

 なぜなら、この世界に起きた何事かのせいで、崖下にはでっかい蛇が棲んでいて、それはおそらく魔物で、人を食うらしいからなのだ。

 サーッと向こう岸に渡る途中で、パクッと食われるということ。

 でも、途中でそいつが現れたら、矢で射ればいいんだと、私の幼馴染のソナンは言っている。 

 それしかないんだと、私も思った。昨夜までは。

「もし蛇が現れても、必ず俺がやっつけてやる。うちの先祖代々に伝わる、このいしゆみで」

 冬にやってくる大きな渡鳥が翼を広げたような形を、ソナンの弓はしていた。

 狩人の衣装の上に、弩につがえる矢がずらりと並べて挿してあるえびらも背負っている。

 ソナンの家の居間にいつも飾ってあったもので、ソナンの家の宝だ。

 かつてこの地を魔物が襲った時も、この矢で撃退したという伝説の品なのだけど、それにしては新しい。

 きっとソナンの家族が代々、大切に手入れしてきたせいだと思うしかない。

 そうなんだ、きっとそうだと、私は自分に言い聞かせようとした。

 伝説は本当で、私は行かなくてはいけないんだ。

 なぜなら、私のお母さんは謳い巫女で、私はその娘だったから。

 だけどお母さんは私がまだ小さい頃に死んでしまって、村の人たちは心配していた。村から巫女がいなくなり、稔りを呼ぶ歌や、魔を祓う歌を歌う者がいないせいで、皆が不幸になるのではないかと。

 その歌を次の巫女に伝えることができる人も、村にはもういない。

 だけど、この世のどこにもいないわけじゃなく、都に行けば大きなやしろがあって、そこに偉い巫女様は大勢いるんだと、皆は言っている。

 お母さんも、そう言っていた気がする。そこで修行したって。

 私もそこへ行くべきじゃないかと、ずっと思っていた。昨日の夜までは。

「ソナン。無理だと思う。あの崖は怖いし、蛇はもっと怖い。私には無理と思う」

 私は正直に白状した。ソナンはそれを聞いて、面白そうに笑った。小さく声を上げて。

「お前は臆病だよな。気が強いくせに」

「うるさいわね」

 俯いたまま、私は言い返した。

「まあ何とかなるって。とりあえず行ってみようぜ。無理だったら引き返せばいい。縄を引っ張れば戻れるんだろ?」

「そのはず……」

「ちょっとだけ行ってみよう。なあ? 俺もずっと向こう岸に行ってみたいって思ってたんだ」

 にっこりとしてソナンは、成人の刺青のある目尻を下げた。

 狩人として一人前と認められると成人となり、その蔓のような紋様の刺青をしてもらえるのだ。

 村の人たちは皆、そうやって、自分の仕事に合わせた印を入れている。

 ソナンの家の人たちのような狩人は、目がよく見えるように、眼力の呪いとしてその模様を入れているのだ。

 私にはまだ、何もないけど。

 だって、巫女ではないのに、巫女の刺青をしてもらうことはできない。

「そうね。わかった。行くわ……」

 今すぐ帰りますという言葉を飲み込んで、私はソナンに答えた。

 それにソナンはまたにっこりしただけで、何も言わなかった。

 話して私の気が変わったらまずいと思っているのだろう。

 長い付き合いだから、そんなことは見え見えだ。

 ソナンは親が決めた私の許嫁いいなずけなのだ。

 いずれは夫婦になるのかもしれないけど、今はまだ。

 ずっと友達のままだといいなという気が、本当はしている。

「冒険だな」

 橋脚に幾つもくくりつけられていた古びたかぎを、帯にある鉄の輪っかに引っ掛けて、もう片側をワイヤーにかけるため、ソナンは腕をのばした。

 私の身長だと、その鉤を引っ掛けるのに踏み台がいるかもしれなかったが、ソナンはちょっと伸び上がるだけで、手が届いた。

「一個でいいか。お前もこのかぎに引っかかって行けよ」

 自分の帯にある輪っかにかけてあるのを指差して、ソナンはそれに私の帯の輪も通せと指で示した。

 大丈夫なの、それ?

 二人乗って平気なものなの?

 私は青ざめて見たが、一人で行けと言われるのも、お腹が痛い気分だった。

 ソナンが一緒のほうが心強い感は否めない。たとえ体重が二倍でも。昔はこのかぎに家畜を吊るして滑らせたりもしていたと聞くし、私たち二人合わせても、角牛ツノウシ一頭よりは軽いはず。

 村で鳴いている、のんびしした黒い牛たちの重さを想像して、私はそれと自分たちを頭の中で天秤てんびんにかけた。

 大丈夫なはず。大丈夫……。

 考えたって分かるわけない。橋が切れて落ちるかどうか、魔物の蛇が私たちを食いに現れるかどうかなんて。

 答えない私を急かすこともなく、それでもソナンは気にせず、私の帯の輪っかを引き寄せて、勝手に鉤を通した。

 あんた何やってんのよ、勝手にやらないでよ!

 頭の中では思いつくその言葉も、声にはならない。

 だって怖いんだもん!

 崖の下までは、滝でも途中で霧散するほどの距離で、えぇと、人が落ちたらどうなるのか。

 けど、そんな高いところまで蛇が登ってこられるわけがない。

 きっと迷信よ。嘘よ。誰かのでっち上げよ。

 信じない……。

 そう考えながら、私はたぶん真っ青な顔で、ソナンに引きずられるようにして、よたよたと崖端まで歩いていっていた。

「飛ぶぞー」

 水溜りでも飛び越す程度の声で、ソナンが私に言った。

「いやちょっと待」

 やっと出た私の声は、言い終わりの音を崖の上に残して、私の体はひょいっと空中に踊っていた。

 ソナンが私を崖の向こうに放り出し、自分も跳んだからだ。

 あんたね、そういうことはもうちょっと、満を辞してやるもんじゃない?

 ひょいっ、じゃないでしょ。ひょいっ、ではないと思う。

 私は頭の中でだけ、そう非難しながら、ソナンに抱えられて空中を滑り出していた。

 耳をつんざくような、金属が擦れ合う音が響いた。

 

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