僕を見て

幸まる

オンブバッタ

領主館の敷地の隅には、庭園や樹木を管理する庭師の為の小屋がある。

小屋の側には小さな温室と畑があって、温室では、花の苗や、館の中に飾る用の花が育てられ、畑には厨房で使うハーブ類も植えられていた。


その畑の一角、季節を過ぎて刈られた草が残る場所に、少年が一人座り込んでいた。

温かな綿の入った上掛けを着た少年は、少し伸びたふわふわの金髪を微風に揺らし、一心に草の間に視線を向けている。


彼は、領主の第四子、四歳のアントニーだ。


初冬とは思えない程に温かな日が続いた今年、午前の自由時間を、彼はほぼ外で過ごすことに使っていた。

この自由時間が終われば、彼の一番嫌いな読書の時間が待っている。

出来るだけ先延ばしにしたくて、アントニーは座り込んだまま、微動だにしなかった。



ふと、アントニーは良いことを思いついて、濃い空色の瞳を輝かせると立ち上がった。


「コリー! 見て!」


畑の縁に立ち、彼の背中を見守っていた専属侍女のコリーは、アントニーが走り寄って両手を差し出したので、腰を屈めて顔を寄せる。

彼女の顔の前で、アントニーがパッと開いた両手の中から、ビョンと一匹のバッタが跳ねた。

バッタはコリーの鼻先を蹴ってから、彼女の屈めた膝のスカートに降りた。


「まあっ! 今年はまだバッタがいるんですねぇ!」

「えっ!?」


てっきり「キャーッ!」と叫んで腰を抜かす様が見られると思ったのに、コリーが笑ってスカートのバッタを摘むので、アントニーは驚いて目を真ん丸にした。


「コリー、バッタ、平気なの?」

「ええ。可愛いじゃないですか。あ! ほら、坊ちゃま、この子まだ子供ですよ」


そう言って、そっと摘まれたバッタは、アントニーが見ても大人か子供か分からない。


「……なんで子供って分かるの? 小さいから?」

「いいえ。よく見るとまだはねがないでしょう? バッタは成虫になると翅が生えるんです」

「成虫って?」

「大人のことですよ」


へえ、と素直に感心して、アントニーはコリーが広げた指先から、バッタがビョンと跳ねて草の上に降りるのを目で追う。

コリーが言うように、バッタははねがないので跳ねるだけで、飛んで逃げはしなかった。



アントニーが見上げると、コリーはいつも通り、目が合うとニコリと笑う。


「……コリーは叱らないの?」

「なぜです?」

「だって、イタズラしたから……」


アントニーは不思議だった。

今までの専属侍女は皆、アントニーが虫を持っていくと嫌がった。

服にくっつけたりしたら、それはもううるさく騒いで、その後キツく叱られたものだ。

なのにコリーは、顔にバッタが跳んでも驚きもしなかった。


「イタズラだったんですか? 残念ですねぇ。私は田舎育ちですから、虫なんてへっちゃらですよ」

「“へっちゃら”って?」

「全然怖くないってことです」


コリーは楽しそうに笑う。

気が付くと、コリーはさっきみたいに腰を屈めて、アントニーと目の高さを合わせていた。



アントニーは目を瞬く。

コリーは、今までの専属侍女とは全然違う。

じゃあ、もしかして、疑問をぶつけても、コリーは答えてくれるかしら……。



「コリー、こっち、見て!」

「なんです?」


アントニーがスカートを引っ張るので、コリーは引かれるままに畑に入った。

そして、さっきアントニーが座り込んでいた所まで来ると、彼が指差す先を見る。


そこには、大小のバッタが重なって、刈られて少なくなった草の上に止まっている。

オンブバッタだ。


「これ、知ってる?」

「ええ。オンブバッタですよ」


コリーが答えたので、アントニーは目を輝かせる。


「親子なの?」

「いいえ、オスとメスです。下の大きい方がメス。交尾中ですね」

「交尾?」

「はい。オスとメスが協力して、繁殖するんです。……卵を産むんですよ」


“繁殖”という言葉の意味が分からず、アントニーが眉根を寄せたので、コリーは言い直した。

すると、アントニーは更に目を輝かせた。


「すごい……、コリーはすごいや……」




アントニーは、以前にこのバッタを見つけてから、なぜ二匹が重なるのか、ずっと不思議だった。

しかし今までの侍女達は、アントニーが疑問を投げかける度、あからさまに態度をおかしくした。

『さあ、知りません』と答えるならまだ良い方で、『見てはいけません』とか、『そんなものに興味を持たず、お勉強しましょう』なんて、質問自体をなかったことにしてしまうのだ。


それはアントニーにとって、とても我慢ならないことで、辛いことでもあった。



アントニーに付く専属侍女は、今まで長く続いたことがない。

そもそも、試用期間の三ヶ月を保った試しがない。

本人が辞退するか、アントニーが腹痛を訴えて、侍女頭から専属を外されるかのどちらかだった。


彼女達は皆、口を揃えてアントニーのことを「手に負えない」と言った。


アントニーは、こだわりが強い。

と思うと、それから外れることは我慢ならないのだ。

例えばこの、午前の自由時間。

外で過ごすのが気に入れば、毎日外へ出る。

天気が悪かろうと、冬が近付き空気が冷たかろうと、外へ行くと決めたら、この時間は行かねば気がすまないのだ。


それを、彼女達は分かってはくれなかった。

宥めすかしても駄目なら、ついには叱る。

そして、最終的に「手に負えない」に至るのだった。




「坊ちゃまは虫がお好きですか?」

「うん」

「図書室には、昆虫の図鑑もありますよ」

「え! 本当に?」

「ええ。虫について書かれている子供向けの本も、何冊かあるはずです。見てみますか?」


コリーはアントニーの隣にしゃがんだまま、笑って尋ねた。

アントニーは読書の時間が嫌いだが、初めて図書室に心惹かれた。


「……オンブバッタのことも、載ってるかな?」

「どうでしょうね? 一緒に探しましょうか」

「……! うん!」


アントニーは笑顔で立ち上がる。

隣で立ち上がるコリーを見上げて、おずおずと手を差し出すと、コリーはその手を柔らかく握ってくれた。





夜、アントニーの母である領主奥方は、子供達におやすみの挨拶をする為に子供部屋に入った。

末娘のエミーリエの額にキスを落としてから、アントニーのベットへ腰掛ける。



普段よりもずっと機嫌よく布団にくるまったアントニーは、濃い空色の瞳を輝かせて、奥方を見上げた。


「お母様、僕、これからも専属侍女はコリーがいいです」

「……まあ。コリーが気に入ったの?」


しっかりと頷く息子を見て、奥方は内心驚いて壁際に立つコリーを見遣る。

コリーは僅かに緊張したように目を瞬いた。


コリーがアントニーに付いて、もうすぐ三ヶ月だ。

試用期間はそこで終わり、本採用とするか、一般侍女に戻すかを決めなければならない。


専属侍女は、子供が三歳になってから付けるものだが、アントニーに限っては長続きしたことがない。

上手く息子に添う侍女が見つからず、困り果てていた奥方にコリーを推薦したのは、先代領主の専属侍女ルイサだった。

コリーはこの館の侍女として既に数年勤めているが、噂好きで、使用人の間で何度か小さな騒ぎを起こしたこともあるので、誰の専属にも付けたことがなかった。


奥方は小さく息を吐いて、微笑んだ。


「そうね、あなたがそう言うのなら、このままコリーを専属にしましょう」

「本当ですか!?」

「ええ、約束するわ」


奥方がアントニーの金髪を撫でると、彼は満面の笑みを見せる。

最近では一番の笑顔だ。

今日のこの笑顔を引き出したのがコリーだとするのなら、彼女はアントニーと心を通わすことが出来るということだろうか。

ルイサが勧めるのなら…、と試しにコリーを付けてみたが、どうやら正解だったようだ。




奥方は笑みを深め、アントニーの額にキスをする。

おやすみと口にしかけて、思い出して言った。


「そうそう、今日は読書の時間を、最後まで図書室で過ごせたと聞いたわ。よく頑張ったわね」


図書室で過ごす時間を、彼が好きではないことは知っていたが、“嫌い”と決めつけて避けて欲しくはなかった。

子供は、どこで何を“好き”に変えるか分からないものだから。


アントニーは微笑んで口を開く。


「知らないことを知るのは楽しいことだと、コリーが教えてくれました」

「そうなの。素晴らしいわ」

「噂話を聞いて回るのも、知らないことを知れて楽しいのですって」

「……………ええ?」


母の微笑みが僅かに引きつったことに気付かず、アントニーは一度あくびをして続ける。


「そうだ、人間はオスの方が体が大きいけれど、お母様はお父様が上に乗っても重くなかったのですか?」

「…………それはどういうことかしら?」

「オンブバッタは交尾の時に…」

「ぼぼぼ坊ちゃま! もうおやすみになりませんとっっ!」


コリーが慌てて飛んできて、アントニーの布団の裾を直す。

寝付かせるのも専属侍女の役目だ。




「おやすみ、アントニー」


柔らかな奥方の声と共に、何故か冷気が降ってきて、アントニーは布団を口元まで引き上げた。

今日は何だかいい夢を見られそうな気がして、微笑んで目を閉じる。


ふわふわと夢の中に落ちていく意識の外で、専属侍女に決定したコリーが半泣きで連行されて行ったのを、彼は知らない。




《 終 》

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