仕事のためには生きてない
安藤祐介/小説 野性時代
第1話
プロローグ
三十五歳になると、健康診断の検査項目が増える。
職場指定の診療所で、検査衣姿の
看護師から手渡された白い紙コップは映画館のジュースのレギュラーサイズぐらい大きく、その上ズシリと重い。
「では多治見さん、そちらをゴクリ、ゴクリと一気に最後まで飲み干してください」
勇吉が子供の頃、父親が言っていた。
〈おじさんになるとバリウムを飲まんといけん。あげな不味いもん、罰ゲームじゃけえ〉
だから勇吉は子供の頃から、バリウムというものを「おじさんが飲む物」だと思っていた。
その「おじさんが飲む物」が、今まさに目の前にある。
勇吉は紙コップの縁に口を付け、ぐいと傾けて「おじさんが飲む物」を胃へと流し込む。
確かに、不味い。さらに、舌触りも喉越しも気持ち悪い。液体というより、ドロドロした固体に近い。前日の夜から絶食した挙句、こんな不味いものを飲まされるなんて、理不尽極まりない。
目を固く閉じて、なんとかバリウムを飲み干した。
「げっぷは我慢してください。げっぷが出たらもう一度バリウムを飲んでいただきます」
看護師が笑顔で注意事項を説明する。最初に粉末状の発泡剤を少量のバリウムで飲まされており、胃が膨らんでいるのだ。
勇吉は絶対にげっぷはするまいと決意し、ティッシュペーパーで口の周りを拭った。
それから卓球台のテーブルを垂直に起こしたような細長い診察台に背中を付けて立たされる。ガラスで仕切られたブースの向こうにはレントゲン技師がいる。両手で取っ手を握ると診察台が倒れる。マイクを通したレントゲン技師の指示に従い、何度も寝返りを打つ。
「右回りに体を二回転させて、腰を少し浮かせて。息を吸って。はい、そこで止めて」
硬い板の上で何度も回転する身体的苦痛と、滑稽な動作を続ける心理的苦痛。
バリウムを胃の内壁にまんべんなく行き渡らせて撮影するためらしいが、心身ともかなり辛い。
診察台が大きく後傾すると、頭に血が上る。げっぷが喉元まで込み上げてくる。
「はい、次は腹ばいになって、息を吸ってー。はい、止めて」
本当に、まるで罰ゲームのようだ。理不尽な検査は、なかなか終わらない。
早く終わってくれないかと願いながら、勇吉は俄かに三十五歳を実感した。
思い起こせば、子供時代の自分から見た三十五歳の男なんて、完全におじさんだった。
もう三十五歳なのか、それとも、まだ三十五歳なのか。勇吉は奇妙な考えに囚われながら、傾く診察台の上で込み上げるげっぷをこらえた。
第一章 デコレーション資料フェスティバル
深夜から、SNSで社長の投稿が炎上している。
勇吉は朝の山手線の満員電車で吊り革につかまり、スマホで社長の投稿を確認する。
〈この度の一連の不祥事でご心配をお掛けしており、申し訳ございません。ミカゲ食品は今後「スマイルコンプライアンス」の精神で、信頼回復に努めてまいります〉
やはり「コンプライアンス」ではなく「スマイルコンプライアンス」と書かれている。
年明け早々、ミカゲ食品のレトルトカレーへの異物混入が発覚し、謝罪会見と商品回収発表を済ませた直後に社長が「スマイルコンプライアンス」なる謎の造語を世間に披露した。すると、たちまちSNS上の〝正義〟が発動し「能天気」「不謹慎」といった集中砲火を浴びた。
正義のSNSユーザーたちは「悪」と断定した者に対しては容赦がない。
〈謝罪もそこそこに『スマイルコンプライアンス』? この社長、マジで死ね!〉
〈スマイルするのは勝手だが、まずは異物混入を土下座で謝罪してからだろう〉
〈この社長は創業家五代目のボンボン。会社の金で豪遊してるらしい〉
無数の匿名アカウントから浴びせられる罵詈雑言、誹謗中傷。あることないこと書かれている。一月上旬の凍てつく寒さも灼熱に変えるような大炎上だ。
ネットニュースでも記事になり、SNSで拡散され、延焼が止まらない。
勇吉はスマホをポケットにしまうと、鞄から新聞を取り出し、くまなくチェックする。幼少期からの日課で、ネット社会になった今も新聞を読む習慣は変わらない。朝の満員電車で新聞を縦に細長く折り畳んで読む小技は、社会人になってから身に付けた。
社長の炎上投稿の件は、新聞では記事になっていないようだ。
勇吉は新橋駅で人波に押し出されながら満員電車を降りた。溜息が冬の冷気に白く立ち上る。重い足取りでミカゲ食品本社へ出社した。一番のとばっちりは当のコンプライアンス部だが、勇吉が所属する広報宣伝部も大変な一日になるだろうと覚悟した。
胃がキュッと痛むのは、昨日初めて飲んだバリウムのせいではないだろう。
五階の広報宣伝部フロアに着くなり、部長の
「はい、また派手に炎上してますね」
今回が初めてではない。過去にも、他社製品のパッケージを批判する発言で炎上、『クレーマーはお客様の敵』と放言して炎上。社長就任以来、数々の炎上を繰り返している。
「まいったよ、いやー、朝から気が重い!」
丸岡部長はバブル末期に入社し、軽いノリと勢いを武器に営業畑から広報・宣伝畑を渡り歩き、年功序列の社内で人並みに昇進してきた五十二歳。「まいった」と「気が重い」が口癖だ。
「今度は『スマイルコンプライアンス』かよ。不祥事続きのこのタイミングで言うか?」
ミカゲ食品は創業百年の老舗食品メーカー。戦前からカレー粉を開発し、戦後はレトルト食品や冷凍食品にも事業を展開して急成長。昭和、平成をまたいで令和の現在に至るまで、堅実な経営を続けてきた。ただ、三年前に五代目の現社長が就任してから、舌禍が増えた。
最近の広報宣伝部は社長の発言が炎上するたび火消し対応に追われ、汲々とする毎日だ。
「さて、我が社のマスコットは何を呟こうか。まいったね。多治見大先生だけが頼りだ」
「それも頭が痛いです」
丸岡部長は勇吉に面倒事を頼むとき、「多治見大先生」とか「師匠」などと言って持ち上げてくる。特にSNS絡みの問題は、勇吉にお鉢が回ってくるのだ。
大学を卒業後、新卒採用から五年間の営業所勤務を経て広報宣伝部に配属され、八年目。新商品のプレスリリースや、株主・投資家向けの情報発信などの広報業務で経験を積み、不祥事処理のメディア対応といった修羅場も経験してきた。
気が付けば、今や広報宣伝部で一番の古株になっていた。
そんな経緯もあり、勇吉はミカゲ食品のSNS広報で〝中の人〟を担い、マスコットキャラクターのミカゲちゃんのアカウントでの投稿も、勇吉にほぼ一任されている。
ミカゲちゃんは、「月の
勇吉がミカゲちゃんのアカウントで頻繁に商品のPRや豆知識などを呟いていたところ、人気が上がり、今やSNSのフォロワー数は十万人を超え、会社の公式アカウントに迫る勢いだ。
昨日も異物混入の対応を受け、ミカゲちゃんのアカウントで〈みんなにたくさんの迷惑をかけてしまって、ごめんなさい〉などと、連続投稿したばかりだ。
マスコットまで動員し、皆で不祥事からの信頼回復に躍起になっている。そんな中、社長の「スマイルコンプライアンス」発言が、消火活動をぶち壊した。
「今度ばかりは、さすがにミカゲちゃんが何か発言しても、逆効果かもなあ」
この三年間、五代目社長の舌禍でSNSの恐ろしさを身をもって思い知らされた。炎上する度、謝罪会見、謝罪広告の出稿、株主向けの謝罪対応など、勇吉は実務の段取りをつけて乗り切り、皮肉にも丸岡部長や広報宣伝部内の信頼を獲得していった。
八年も同じ部署に居続ければ、仕事は自ずと体が覚えてくる。多少きついトラブルにも動じないぐらいの経験値が蓄積されていった。
向いているのかもしれない。頼られるのは面倒だが、居心地は悪くない。と、思っていた。
だが最近、その思いは揺らいでいる。炎上の火消しや、不祥事のメディア対応で便利に使われ、徒労感ばかりが募る。
本当にこのままでよいのだろうか。
三十五歳。転職するなら、まだ間に合う。なんとなく流されて生きているようで、漠然とした焦りを感じるのだ。
「スマイルコンプライアンスか……。にこやかに社員たちの行動を監視するのかねえ」
丸岡部長がブラックジョークを発するが、勇吉は笑えなかった。
「実際に、社員個人のSNSを、コンプライアンス部が監視しているという噂もあります」
つい先日、若い男性社員たちが同期の飲み会で上半身裸になった悪ノリ写真をSNSに投稿したところ、翌日にコンプライアンス部から厳重注意を受け、投稿を削除させられた。
「世の中、変わったよなあ。俺が入社した頃のミカゲ食品なんて、社員旅行の宴会で脱いで、はじめて一人前と言われたもんだけどなあ」
丸岡部長が遠い目をして若かりし頃の思い出をかみしめている。
「それが一人前の基準なら、自分は一人前になんて一生なりたくありません」
勇吉は軽口を叩いて丸岡部長の昔話を受け流す。
「俺、コンプライアンス部って好きじゃないんだよね。学校の風紀委員みたいだ」
勇吉は「今の時代、どこの会社も誰かがそういう役を引き受けなければならないんでしょうね」と言葉を濁した。コンプライアンス部には、同期入社の者もいる。
始業のチャイムとともに、隣のフロアのお客様相談室では、一斉に電話が鳴り始めた。
「早速始まったぞ。まいったな……」
丸岡部長がぼやくのと同時に、勇吉のパソコンの社内チャットにメッセージが入った。
〈おはようございます。至急、内々にお話ししたいことがありますので、今からコンプライアンス部の会議室に来てください。多治見さんと、丸岡部長も一緒にお願いします〉
メッセージの差出人は勇吉の同期かつコンプライアンス部の法務企画課長・
山田という名字の社員は多数いるため、山田今日香は「ヤマキョー」と呼ばれている。
勇吉は胸騒ぎを覚えながら、すぐにヤマキョーへ返信した。
〈おはようございます。どんな件のお話でしょうか?〉
相手は同期だが、課長だ。勇吉の返信も、向こうの言葉遣いにつられて丁寧語になる。
〈少々込み入った件なので、全ては、こちらに来られてからお話しします〉
もったいを付けたような返信がすぐに届いた。
ヤマキョーは、一部の同期の男からは人気があった。彼ら曰く、地味で堅物だけど、なぜか惹かれるのだという。
仕事ぶりも新人の頃から堅く、厳しかった。重要な契約書類は法務の審査を受けるのだが、ヤマキョーは些細な不備でも指摘し、相手が先輩社員でも役職者でも、徹底的に直させた。それらは理不尽な指摘ではなく、合理的で的確だった。広報宣伝部も以前、ヤマキョーの指摘により、大口の業務提携契約の重大な不備を回避できた。事故になる前に、ヒヤリハットで留めたのだ。
ヤマキョーの仕事ぶりはさて置き、昨夜からの「スマイルコンプライアンス」炎上騒ぎのタイミングでコンプライアンス部から呼び出され、不吉な予感ばかりが募る。
丸岡部長と共に重い足取りで階段を上り、五階に向かった。
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