第5話
勇吉の異動から一週間後、部下たちが合流した。三十五歳にして、勇吉は統括リーダーという中途半端な肩書きで三人の部下を持つことになった。
パソコンの付箋機能にメモした部下の一覧をちらりと確認した。
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部下のうちの二人は、入社三、四年目の若手社員だ。勇吉と同じく、籍は別の部署に置きながら、ほぼ百パーセント、コンプライアンス部の業務に従事する。
まずは入社四年目の都築洋太。
池袋の営業所で三年十ヵ月間、法人営業を経験し、営業成績三年連続一位。一年前には社長賞をもらっている。池袋にスーパールーキーがいると、本社でも噂になった。
「多治見さん、明日の会議用の不祥事傾向分析のデコ資料、作り終えました」
都築が、社内チャットで資料を送ってくれた。勇吉が頼んでいた、社内の直近十年の不祥事の傾向に関するデコ資料だ。コンプライアンス部のサーバーから綿密に過去のデータを拾い、表やグラフを使ってまとめられている。
「ありがとう。助かるよ」
想定していたレベルの百パーセントどころか、百五十パーセントの質で仕上げてくる。勇吉は、送られてきたパワーポイントのファイルを開いて眺めながら、思わず唸った。
「いやあ、俺の大雑把な指示で、よくここまで分かりやすく仕上げられるね」
盛り込むべき内容を伝え、十枚程度のスライドにまとめるよう指示しただけだった。
「プレゼン資料のノウハウ本などを読みかじって、自分なりに勉強しているだけです」
「素晴らしい……。プレゼン資料のコツとか、俺が教わりたいぐらいだよ」
「いえ、自分の取り柄は健康ぐらいです。給料をもらっているので、体調だけは万全に」
都築は体調管理に人一倍注意を払い、入社してから今まで風邪などによる欠勤はゼロらしい。小さな巾着袋を持ち歩き、何種類ものサプリメントを飲んでいる。
もう一人は入社三年目の相良舞。
新卒でマーケティング部に配属され、入社二年目で「おこげ茶漬け」を企画し、ヒットさせた。新卒のマーケティング部採用はミカゲ食品の特徴である。まっさらな目を持った新卒社員の視点を取り入れる狙いで、先々代の社長が始めたらしい。
だが、相良のようにわずか二年足らずでヒット企画を生み出した社員は、過去十年ぐらいを振り返っても類を見ない。
相良は自由な発想で、マイペースに仕事をこなす。気迫の塊のような都築とは対照的だ。
頬杖を突いてお菓子を食べながらパソコンの画面や私物のタブレット端末を眺めていたかと思えば、急に猛スピードで作業を始めることもある。調べ物を頼むとあっという間に仕上げてくる。
メリハリがあるようにも、ムラがあるようにも見える。
今は社用ノートパソコンの横に私物のタブレット端末を立てて、じっと画面を眺めている。
何をしているのだろうか、と思ったその時、出羽守から内線電話が入った。
〈多治見さん、競合他社のコンプライアンス体制の論点資料は準備済ですか? 19時からの経営本部会議で議論したいんだけど〉
「ああ、はい……先進事例から優先的に拾い集めて、いま準備しているところです」
嘘だった。自分で適当に作ろうと思っていたが、社内の打合せに追われ、先延ばしにしていた。受話器を置くと、相良の姿が目に入った。
「相良さん、至急でお願いしたいことが……」
「競合他社のコンプライアンス体制ですよね。比較対照表を、ほぼほぼ用意できてます」
「え? もう作ってあるの?」
「はい。いつか使うだろうと思って作ってみましたが、早くも出番が来るとは。突貫作業で作ったので、分析が不十分かもしれません。こんな感じで大丈夫ですか?」
相良のノートパソコンの画面を覗き込むと、競合他社のコンプライアンス体制をまとめた一覧表が出来上がっていた。各社のホームページで知り得る情報を集め、外部監査委員の人数やメンバー、行動規範の概要、懲戒処分の基準などが一覧になっている。
資料の体裁は雑だが、ポイントを押さえたまとめ方に、勇吉は感心した。
「ありがとう。これを使わせてもらうよ」
タイプは違うが、二人とも若手社員の中で際立った活躍をしてきた。仕事ぶりがあまりに優秀だったため、この〝栄えあるプロジェクト〟に抜擢されてしまったのだ。
人財の無駄遣いも甚だしい。勇吉は、前途有望な若者のキャリアを腐らせたくはない。
一方、部下の中で最も不可解な存在が、はるか年上の部下・沼尻金之助である。
六十二歳の再雇用社員だが、いわゆる窓際社員を体現したようなおじさんだ。
先月まで総務部の物品管理課の隅で席を温めていた。実年齢よりもだいぶ老けて見え、七十代だと言われても誰も疑わないだろう。彼だけは兼務ではなく完全異動だ。
「リーダーさんよ、俺、何かやることある?」
父親ほども年の離れた部下が指示を仰ぎにくる。沼尻が再雇用で会社に居続けていること自体、不思議だ。今のミカゲ食品は、定年退職後、再雇用にありつけないケースも多い。
彼がスマコン準備室に配属された理由も謎に包まれている。沼尻本人に経緯を訊いてみたが「人事部の手違いじゃないかなあ」と笑ってはぐらかされた。
「俺、無駄に年だけは食ってるから、困ったことがあったら言ってよ」
沼尻はニヤリと笑った。小さな
法務を知らない勇吉と、優秀過ぎる若手社員二人と、窓際族の再雇用社員。チームのメンバー構成があまりにもちぐはぐだ。
「リーダーさんよ、あんた、なんとなく俺に似てるんだよなあ」
勇吉が「どこがですか?」と語気を強めてしまったその時、十八時のチャイムが鳴った。
「じゃ、時間だから失礼するよ。お先に」
沼尻はノートパソコンの画面をパタンと閉じて、颯爽と帰っていった。沼尻の超高速定時退社だ。社内で『鐘と共に去りぬ』の異名を取ると、人づてに聞いた。勇吉は「おつかれさまでした」と応じた。その声にかすかな不快感が滲んでしまい、はっと思い直した。
定時のチャイムと共に帰宅したら「鐘と共に去りぬ」などと揶揄され、軽蔑の眼差しを向けられる。そんな職場で、なにが「スマイルコンプライアンス」だ。
うだうだ考える勇吉の傍ら、都築と相良は終業のチャイムの後も作業に没頭している。勇吉は複雑な気持ちで二人の頼れる若手社員に「ありがとう」と礼を言った。
それからスマホを取り出し、デスペラーズのLINEのグループに連絡を入れた。
〈申し訳ない。仕事が立て込み、今日の音合わせには参加できない。三人で頼む〉
マキからすぐさま熊のキャラクターが中指を立てた怒りのスタンプが返ってきた。
〈お前、何のために仕事してるんだ? よく考えろ〉
ジョージからは容赦ない詰問が入る。答えは明白だったはずだ。生計を立てながらロックンロールを続けるため。もっと言えば、ロックに生きるためだ。
異動後の一ヵ月は、矢のような速さで過ぎていった。
会議のための会議に向けた打合せのための下打合せ。デコ資料の根拠のための資料を、各本部の役員と調整するための基礎資料の作成……。何か大事なことを忘れたまま、目の前の仕事に追われる。だが、その「何か」の正体を考える余裕もない。
次々と押し寄せる幹部調整の壁、徒労感満載の仕事に追い立てられる。
三十五歳の節目で、勇吉は激しく混乱していた。
デコ資料とは、誰が言い出したのか知らないが、まさに言い得て妙だ。
勇吉は都築と相良の力を借り、もっともらしい概念図や一覧表などでとにかくデコレーションして見栄えを整え、指示された二種類のデコ資料を「それらしく」作り上げた。
社内各方面の役員や、その下の幹部にまであちこち根回しをして、二回目の役員会議に臨んだ。
「あれ? 論点資料はどうしたの?」
三田村専務が両手を広げて「ない」というジェスチャーをする。
「社内クラウドの共有スペースに資料のデータがあります。モニターで映しますか?」
勇吉は立ち上がって、全員に聞こえるよう声を張って案内した。
「クラウド? モニター? 資料は紙で出さないと、書き込みができないでしょう」
「今は、社内の会議資料はクラウドで……」
案内する勇吉を出羽守が制し「専務は資料にメモをされるので、紙でご用意して」と促す。
「そう、紙で全員分ね。なんでもかんでもデジタル化すればいいってもんじゃないよ」
三田村専務が笑うと、他の幹部も追従の笑い声を上げる。
勇吉は怒りを抑えて都築に内線電話を入れ、資料の印刷を頼んだ。合計五十ページのパワーポイント資料を両面印刷で三十部。七百五十枚の紙が、社内調整の内部資料のために費やされた。
約十五分後、走ってきた都築から膨大な資料の束を受け取り、そそくさと全員に配った。
三田村専務はひじ掛け椅子に深く掛け直し、鷹揚な動作で紙の資料をめくり始めた。
出羽守が「ご説明してもよろしいでしょうか」と待ちきれぬ様子で言うと、三田村専務は苛立たしそうに「ちょっと読ませてよ」と制した。
しばらくの間、二十人以上の高給取りたちの、紙をめくる音だけが聞こえる。
「この論点資料、今までの議論と全然違うよ」
三田村専務の一言に、紙をめくる音がピタリと止まった。
「いえ、皆さんの言葉に従って作成し、何度も修正を重ねた結果ですが」
勇吉は言い返した。各本部長から三田村専務まで、根回しで指摘されたことを漏れなく反映させ、全て仰せのとおり、注文通りの論点資料を作ったはずだった。
「社長のパワーワードを具現化する大事な基礎工事だよ。社長への見せ方を意識しないと」
注文された通りの料理を作ったら「こんなもの食えるか」とひっくり返された気分だ。
その後の会議では、二種類のデコ資料と本体の行動規範をどう紐付けて社長に見せるか、幹部たちが好き放題に意見を披露し、勇吉はそれらを必死にメモした。
だが、またちゃぶ台返しで違うことを言い出すかもしれないと思うと、虚しさばかりが募った。
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