第6話


 仕事のための仕事のための仕事のような作業に追われて疲れ果て、毎日が過ぎてゆく。

 優秀な部下の助けもあり、なんとか役員の皆様のご希望に沿うデコ資料を積み上げ、スマコン行動規範の冒頭を飾る社長メッセージの草案を、少しずつ書き進めた。

 一ヵ月の間に、根回しの小さな打合せも含めると何十回もの会議を経て、度々デコ資料の修正や追記を命じられた。同時進行で、社長メッセージは、役員たちが気まぐれに提案する言葉を漏らさず盛り込み、彼らの意向に沿った形で全体の流れを構成した。

 この社長メッセージをもって、スマコンの基本方針とする。

 午前中に清書した文章を、昼休み後に客観的な視点で読み返し、勇吉は愕然とした。

〈ミカゲ食品 スマイルコンプライアンス基本方針

 社長メッセージ

 皆さん、そもそも、コンプライアンスとはなんでしょうか。

 法律や社内規則などのルールを守ること。守らなければならないルール。守らされるルール。このような義務的かつ消極的な考え方が組織を硬直化させていたのではないでしょうか。ルールを守るというアクションは本来、ポジティブでコンフォータブルなものです。

 あるべき姿は、守らなければならないルールではなく、守りたくなるルール。いや、守ると笑顔になるルール。守れば守るほど社員たちが笑顔になるルール。

 これからの時代に必要なのは、スマイルコンプライアンスです。

 そんなコンプライアンスを私たちはビルドアップしていこうではありませんか。これは決してコーポレートガバナンスのような自浄能力のミッションではありません。今こそ、当社のみならず、社会の公器たる多くのナショナルカンパニーに、ソーシャルグッドのセルフマネジメントが試されているのです。

 そんな時代に当社がサジェストするニューノーマルなコンセプトが、このスマイルコンプライアンスです。

 スマイルコンプライアンスは、社員のスマイルに、そして、お客様のスマイルにコミットできてこそ、真のスマイルコンプライアンスへとパラダイムシフトできるのです。社員がポジティブなマインドでミッションにチャレンジできる。ひいてはそれがカスタマー・サティスファクションに繋がる。これこそがまさにスマイルコンプライアンスであると私は確信しています。歯を食いしばってルールに縛られるようなマインドでは新時代のトレンドをキャッチアップできません。スマイルがスマイルを呼び、コンプライアンスにもスマイルが生まれることで、スマイリーな会社になる。スマイルコンプライアンスによって、ベストスマイリーカンパニーにリボーンし、カスタマースマイルという名のトータルリライアビリティにアジャストしてゆくマインドで邁進してまいります。

 ミカゲ食品 代表取締役社長 かげもり けいろう

 空虚な文字の羅列。こけおどしの片仮名文字。何度読んでも全く心に響いてこない。

 ちなみに「歯を食いしばってルールに縛られるようなマインド」のくだりは三田村専務が思い付いて、加部常務や他の平取締役たちがヨイショで絶賛した結果、いつの間にか「絶対に外せないキーワード」と化した。

 だが、これでよい。役員の皆々様が満足して、事がさっさと済ませられるならば。

 勇吉は部下たちに社内メールで文案を送った上で「どうでしょうか」と口頭で意見を求めた。都築が「多治見さんは、どうお考えですか」と訊き返してきた。

「端的に言って、クソみたいな文章だね」

 勇吉は溜息を吐いた。都築は錠剤のサプリメントを口に放り込み、画面を睨みつける。

「ですよね。長過ぎますし、支離滅裂にも程があります。上の人たちの方向性は踏まえつつ、文章の表現を変えて、もう一案を私たちのチームで再考しませんか」

 支離滅裂。都築の言うとおりだ。何より気持ち悪いのは「これからの時代に必要なのは、スマイルコンプライアンスです」とぶち上げているのに、スマイルコンプライアンスとは何なのか、具体的に明言していない点だ。この考え方はすごいんだ。なぜって? すごいからすごいんだ。と強弁しているだけで、現場の社員や社外の人に見せられる代物ではない。

「さすがに、少しは直したほうがいいかなあ……」

 勇吉の気持ちが揺らぎかけたその時「それは違うと思います」と相良が割って入った。

「まずはお客様の発注通りの案を出すのが、結局は近道になると思います」

「お客様? ミカゲ食品にとってお客様っていうのは、商品を買ってくださる法人や個人の皆さんですよね。相良さんが言うお客様って、誰?」

 都築の問いに相良は「今の私たちにとって、お客様は社内の偉い人たちですよ」と答えた。

「意味が分からない。百歩譲って幹部の人たちのオーダー通りだとしても、粗悪品をそのまま提案するようなものです。ここは多治見さんの、個の力で打開すべきだと思います」

「個の力で打開? 都築さんって、ちょっとノーキンなところありますよね」

「ノーキン?」

「脳みそが筋肉みたいだってことです。今回は個の力ではどうにもなりませんよ」

「今のは聞き捨てなりません」

「まずは形にして提出する。その後、お客様の希望に沿って直せばいいじゃないですか」

「こんな滅茶苦茶な成果物を放置しておくのは、仕事を放棄しているのと一緒だ」

「私たちが滅茶苦茶だと主張したって、組織で仕事しているからには仕方ないですよ。下々の社員がいくら吠えても、結局は社内の幹部の承認を得ないと何も形にはなりませんから」

 百パーセント以上の質を求める都築と、ボロボロでもまずはお客様である幹部たちの言った通りのものを出して問うてみるべきだという相良。二人の論争は平行線をたどる。

「都築君が言うように、本当は直したいところなんだけれど、担当者の裁量で勝手に直すと怒り出す役員がいたりして、終わらないんだ。俺の力不足で、申し訳ない」

 都築は「分かりました」と納得いかない様子で答えた。

 いい加減でよいのだ。そう言い聞かせながらも、もう一度ディスプレイを眺めた。まるで、不味い食材を手当たり次第にぶちこんだ闇鍋みたいな文章だと思った。大きな溜息を吐いたところに、丸岡部長が駄菓子を持って様子を見に来た。

「多治見ちゃん、スマコンのほうの調子はどうよ?」

 丸岡部長は、なんだかんだ言って、勇吉のことを気にかけてくれているようだ。

「お、すごいね。とりあえず、なんとなく文章ができてるじゃん?」

「クソみたいな文章ができました。会議で言われた通りに言葉を繋ぎ合わせて……」

「確かに、こいつは……本当にひでえ文章だなあ……」

 そう呟いて、丸岡部長はハッと口をつぐんだ。

「いやいや、うーん……俺には、高尚過ぎて意味が分からねえや。まいったね」

「自分にも、さっぱり分かりません」

 出羽守にデコ資料と社長メッセージの草案をメールで送ると、驚愕の返信が届いた。

〈社長にお見せする前にもう一度役員会議にかける。大至急、全員に個別で根回ししよう〉

 根回しの無間地獄だ。どれだけ根回しすれば終わるのやら……。

 この日の午後から三日間、出羽本部長に連れられ、デコ資料二点セットとメインのクソみたいな文章を携えて、役員らへの根回し行脚をした。加部常務のところで何度も修正の指示を受けて一日半程費やしたが、最後は「しょうがねえなあ」と渋々の体で了承を得た。三田村専務まで根回しして、OKをもらった。

 何がOKなのか勇吉には全く分からないが、どうでもいい。とにかく一歩「前進」した。


 三日後の朝、役員会議で、勇吉は紙に印刷した社長メッセージの草案を配布し、壁際の椅子に座って待機した。

 支離滅裂な文案を、大理石造りの重厚な会議室で幹部たちがしかめ面で眺めている。分厚いデコ資料は脇に積まれて、誰一人として見ようともしない。

 勇吉は、誰かの第一声を待った。あまりにひどい文章なので、さすがに少し不安になる。

 ただ、ひとつだけ自信をもって言えることがある。

 この人たちから言われたとおりに作った。文句はないはずだ。

 経営企画本部長の出羽守が「皆様、ご意見等いかがでしょうか……」と様子を窺う。誰が議論の口火を切るか、牽制し合っているようだ。

 そんな中、三田村専務が「全然違うねえ……」と呟いた。会議室の空気が張り詰める。

「短過ぎるよ」

 三田村専務の言葉に、勇吉は耳を疑った。

「先日、三田村専務にお見せした際、OKをいただいたはずですが」

「方向性はOKと言ったんだ。しっかり肉付けした案を示すよう伝えたつもりだが」

 そんな指示は受けていない。言外に察しろとでも言いたいのだろうか。

「今までの議論で何を見て、何を聞いてた。こんな淡泊な文章で伝わるわけがないだろう」

 加部常務がひじ掛け椅子の背もたれに体を深く預けながら、勇吉を指差して糾弾する。

「あの……加部常務にも事前に何度も確認を仰ぎ、OKをいただきましたが……」

「俺は、時間切れだから、伝えることは伝えてとりあえず先に進めてやっただけだよ。こんな魂のない淡泊な内容で会議に出していいなんて言っとらんぞ」

 勢いづく加部常務の言葉に、他の平取締役も追従して何度も頷く。

「加部常務のおっしゃるとおり、淡泊過ぎますね」

「社長のご本心を余さずお伝えするには、この四、五倍ぐらいの言葉を費やさないと」

〈アホですか……そんな長ったらしい社長メッセージなど、誰が読むか〉

 喉元まで出かかった言葉をすんでのところで吞み込んだ。

 やはり歪なプロジェクトだ。「スマイルコンプライアンスとは何か」という根本的な議論もなく、ただ「社長のパワーワード」に周囲が過剰反応しているだけではないか。

「タジマ、すぐに文案を練り直せ。社長のお言葉と、幹部の意見を漏れなくまとめて、俺に持ってこい。三田村さんに案を上げる前に、俺がチェックする」

 加部常務が三田村専務をチラリと見ながら勇吉に命じた。勇吉は「多治見です」と加部の言い間違いを指摘したが、無視された。

「チェックは常務の手を煩わせるまでもなく、経営企画本部長として私が……」

 出羽守が言いかけたが、加部常務は「俺が見る! 論点資料も全てだ!」と一喝して退けた。出羽守は「では、そのように」と引き下がった。

 デコ資料はただでさえ、①直近十年の不祥事案件の傾向分析、②競合他社の事例調査の二点が並行でどんどん肥大化している。これら全てに改めて加部のチェックが入り、千本ノックのようなダメ出しを受け続ければ、このプロジェクトは永遠に終わらないかもしれない。

 加部常務は、この社長肝煎りのプロジェクトでも「鋼鉄の壁」となって立ちはだかり、社内での主導権を握りたいのだろう。自分の存在感を高めたいだけの私利私欲が透けて見える。

 これでは、社員が笑顔になるコンプライアンスだなんて聞いて呆れるばかりだ。


(続きは本書でお楽しみください)

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仕事のためには生きてない 安藤祐介/小説 野性時代 @yasei-jidai

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