第4話


 ライブ翌日から、勤め人・勇吉には案の定、怒濤の毎日が待っていた。

 社長肝煎りの「スマコン・プロジェクト」。うんざりする勇吉とは対照的に、経営企画本部長の出羽守は張り切っている。この状況に乗じて、経営企画本部の存在価値プレゼンスを上げる狙いらしい。

 役員たちが打ち出したプロジェクトの大方針は「とにかく今までのコンプライアンスを変えるような」「歴史的で何か斬新で」「突き抜けた要素を盛り込んで」。

要するに社長が喜ぶコンセプトを作れ。それしかなかった。

 中身は何も決まっておらず、スマコンとやらが一体何なのか、誰も知らない。

 一方で、最初の難関といわれたコンプライアンス委員会の開催は一ヵ月半後に迫っている。その前に社内の役員会議をクリアしなければならない。役員会議の前にも、会議のための会議がいくつも立ちはだかる。

 まずは経営企画本部で、キックオフ・ミーティングが開かれた。出席者は部長、課長級の役職者ばかり。勇吉はご立派な会議室の隅っこにパイプ椅子を置いて座り、議論の内容をメモしていた。

 出羽守がホワイトボードにスケジュールを記した。


(1)~三月 スマコン基本指針を臨時コンプライアンス委員会で承認。

(2)~六月 スマコン行動規範骨格案を社内調整。

(3)~九月 全体案の草案を完成。社内調整。

(4)~十月 スマコン行動規範全体案を完成。社長稟議手続き開始。

(5)十二月 スマコン行動規範を社内外に発表(プレスリリース)。


「大まかなスケジュール感はこれで。経営企画本部一丸となって取り組もう」

 出羽守が示したスケジュールに、コンプライアンス部の幹部たちは険しい表情を浮かべる。

 勇吉にはなぜこんなに時間をかけるのか、全く分からなかった。

「あの、そんなに大げさな仕事なんですか。特に、最初のスマコン基本指針作成とか、集中して作れば、三日ぐらいで終わりそうな気がしますけど」

「君はルール作りがどれだけ大変か、分かっていないようだね。たくさんの議論を重ねて決めていく、そういうプロセスが重要なんだよ」

 出羽守が答え、「三日間で作った即席の基本指針なんて、重みがない」と付け加える。

「つまり、議論を尽くしたというアリバイを作り、箔を付けなきゃいけないってことですか」

 勇吉が溜息交じりに言うと、経営企画本部内のどこかの課長たちから「もう少し言葉を選んだらどうだ」「栄えあるプロジェクトに抜擢されたんだから」などと声が上がった。

 知るか。なんなら、今すぐにでも「栄えあるプロジェクト」とやらから外してほしい。

「まずは二ヵ月半後の三月末に向けて基本指針を作らねばならない。行動規範の冒頭の社長メッセージにスマイルコンプライアンスのビジョンを盛り込んで基本指針とし、コンプライアンス委員会の承認を得る。ここを一つ目のゴールとする」

 出羽守が説明する。

「なぜ社長のメッセージを基本指針にするんですか? 自分なりに他社のコンプライアンスを見てみましたが、ズバリ基本指針そのものを示すのが普通じゃないでしょうか」

「これは普通のコンプライアンスではない。スマイルコンプライアンスだ。社長のパワーワードを具現化する大仕事だよ。むら専務から、基本指針は社長メッセージにするようにとのご指示があった。この方針は既定路線だ」

 出羽守は言った。三田村専務は創業家社長に次ぐ、社内ナンバー2の筆頭役員だ。

「とりあえず大至急、基本指針の叩き台を作ってもらって、我々で詰めて、三田村専務までお諮りしよう」

 出羽守が次の段取りを説明する。

「あの……基本指針の、つまり社長メッセージの叩き台を、私が作るんですか?」

「実務担当者は、あなたでしょう。議論の叩き台になるものを作ればいい」

 勇吉は腹をくくった。過去の社長の言葉を適当に繋げればよい。ある意味、話は早いと踏んだ。張りぼてみたいなメッセージでもいいから、手早く終わらせちまおうと。

「承知しました。拙速を恐れず、大至急で叩き台の案を作ります」

 部課長席のヤマキョーと目が合った。魂胆を見透かされている気がして、勇吉は目を逸らした。

 正午のチャイムが鳴った。

「昼休みなので、ここで区切りましょう。オーストラリアのブルーベリー・ファイナンスでは食を重視して社員のパフォーマンスを……」

 出羽守が「ではトーク」で締めくくり、休憩を宣言。苦痛な会議はお開きとなった。

 勇吉はくたびれた心と体を引きずり、社員食堂へ入った。

 ミカゲ食品の社員食堂は少し特殊だ。食材のベースはほとんどがミカゲ食品の冷凍商品やレトルト商品。それを組み合わせたり、トッピングを加えたりしたメニューが並ぶ。

 どんな組み合わせが美味いか、どんなトッピングが合うかなど、社員がおすすめの食べ方を社食内の投稿コーナーに書き込む。投稿は、商品企画部のレシピ分析部門で検討され、採用されると社食で試作メニューとして提供され、好評を得れば、商品パッケージ裏面の「お役立ちレシピ」に載る場合もある。

 厨房の奥には業務用の高速電子レンジがズラリと並んでいる。食堂の隅にも高速電子レンジが十台並んでいて、社員が好きに使える。勇吉は冷凍きつねうどんを解凍してトレーに載せ、食堂の空席を探した。奥のほうのテーブルを囲んで他部署の同期たちが談笑している。今日はとてもそういう気分ではないので、隠れるようにして窓際のカウンターテーブルに陣取った。

 外は快晴で、陽射しがまぶしい。心が晴れない中で鮮やかな青空を見ると、なぜか気が重くなった。うざったい青空だ。

 勇吉はミカゲの冷凍きつねうどんを、大急ぎですすった。

 そこへ丸岡部長が「よっ、元気にやってる?」と例の調子でやってきた。隣の席にどかっとトレーを置き、腰掛ける。

 青空よりもうざったいのが来た。勇吉は「ぜんぜん元気じゃありません」と正直に答えた。

「スマコン騒動に振り回されるばかりです」

「多治見ちゃん、コンプライアンスって、そもそも何だっけか?」

「やはり、主には法令遵守らしいですけど、それだけじゃないみたいですね」

 社会の要請に「コンプライ」する。直訳すれば、従うこと。法令や社内規則、行動規範を守るほか、社会の倫理を守り、地域や社会で責任を果たすことも含まれる。

「まあ、あれだな。企業は法律とかルールだけを守ってりゃいいって訳ではなくて、当たり前のことは当たり前に守って、社会の公器としての責任を果たせっつうことだな」

「たまには的を射たこと言いますね」

「まいったね。上司に向かって『たまには』だなんて、言ってくれるじゃん。多治見ちゃんのそういうところ、嫌いじゃないぜー」

 コンプライアンス部を兼務しているとはいえ、勇吉の本籍は広報宣伝部にある。

「俺は一応、今も多治見ちゃんの上司だ。何か困ったことがあったら、何でも言ってよ」

「ありがとうございます。何かあったら、あまり期待せずにご相談します」

「そうそう、期待しないで。俺には頭下げるぐらいしかできねえからさ。ガッハッハ」

 不祥事の謝罪会見では勇吉が駆けずり回って事務的な手配をしたが、実際に該当案件の担当部長の隣に立って記者たちの前で頭を下げるのは、広報宣伝部の丸岡部長だ。この説明の時の表情、語気、頭の下げっぷりが見事なのだ。

 丸岡謝罪代行サービスを自称するこの人。自他ともに認めるほど、謝罪が上手い。

「頭なんて何万回下げても減るもんじゃねえし。髪の毛はだいぶ減っちまったけど。ガッハッハ」

 それから丸岡部長は急に真顔になって、声を潜めて勇吉に耳打ちした。

「多治見ちゃん……。ひとつだけ、気を付けておいたほうがいいことがある」

「なんですか、珍しく真面目な顔して」

「いいか。あんまり、なんでもかんでも真に受けちゃだめだよ」

「どういうことですか……」

「うちの偉い人たちは昔から、やたらと創業家の顔色を窺って、社長の言動に過剰反応する。オーバーリアクションなんだよ。その空騒ぎが何倍にも膨らんで、現場の社員にドーンと降ってくる」

 たしかに、社長のちょっとした一言で大騒ぎして仕事を増やす傾向はある。それどころか、余計な仕事を手柄に変えて、部下を疲弊させながら昇進していく者もいる。

「現場のリーダーは、偉い人たちの空騒ぎを一旦受け止めたふりをして、どうやって適度に受け流すかを考えるんだ。そこが意外と重要なポイントだったりするから」

 なかなか含蓄のある金言だ。勇吉は心の中の「勤め人あるある手帳」に密かにメモした。

「全て真に受けて対応してたら、身も心も擦り減って、俺より髪の毛薄くなっちゃうぜ」

「それだけは避けたいっすね」

 前から丸岡部長とは軽口を叩き合える上司と部下の関係を築いてきた。

 少し離れてみて、この人は、案外いい上司なのかもしれないと思った。


 直近の作業はコンプライアンス委員会に向けて、スマコンの基本方針にあたる「社長メッセージ」の草案を作成すること。

 勇吉は実務担当チーム「スマイルコンプライアンス準備室」の統括リーダーだが、部下の合流は少し先の二月初めになる。それまでの間、準備室には勇吉一人だ。勇吉はいっそ、部下が来る前に、さっさと草案とやらのケリを付けてやりたいとたくらんでいた。

 勤め人としての勇吉の理念はズバリ「いい加減」。一つ目の「い」にアクセントを置く「いい加減」だ。突き詰め過ぎず、程よく終わらせる。細かいこだわりは持たず、六、七割ぐらいの出来を目指し、適度に丸めて形にする。

 全ては、ロックンロールを続けるために。昇進にも全く興味は無い。偉くなってしまうと仕事に時間と労力が奪われる。だから仕事は「いい加減」が一番なのだ。しかし、皮肉にも、この「いい加減」な仕事のやり方が、勇吉自身を会社にとって使い勝手のよい便利屋たらしめていた。

 事実、今回も大きな面倒事が回ってきた。勇吉自身はとりあえず「いい加減」なものを作って終わりにしたいと思っていた。

 ところが……丸岡部長の言ったとおり「スマコン・プロジェクト」は、役員たちによる「オーバーリアクション」全開の、極めて厄介な案件に発展したのだ。

 三田村専務らが「スマコンは社長ご自身の魂を込めた最重要プロジェクトだ」などと騒ぎ立てて全社に大号令をかけたことで、全部門の取締役級幹部が関わる一大プロジェクトになってしまった。

 出羽守としては、経営企画本部の存在感を示す目論見どおりといったところか。

 勇吉は拙速を恐れず、千文字ぐらいで社長メッセージの叩き台を作り、ヤマキョーとコンプライアンス部長へ同時に文案を見せて根回しした。ヤマキョーは納得しなかったが、先を急ぐコンプライアンス部長の判断で、とりあえず本部長の出羽守に見せた。

「なかなか仕事が早いね。よし、この案を役員会議にぶつけよう」

 出羽守は満足げに言った。早期決着に向けて、上々の滑り出しだ。

 

 勇吉にとって、役員会議の場は初めての経験だった。

 本社の大会議室には、テレビドラマでしか見たことがなかったような巨大で重厚なメインテーブルの両脇に、役員や上級幹部が十人以上並ぶ。

 ちょうど〝お誕生日席〟にあたる一番奥の上座に三田村専務が座る。

 この会議で公式に発言を許されるのは原則、メインテーブルの出席者と、その後ろに陪席者として座っている部課長級の幹部社員だけ。勇吉は、下働きのスタッフだ。

 戦国武将のドラマで見た、御屋形様とその重臣たちの構図が現代に再現されている。

 勇吉は、部屋の隅でパイプ椅子に腰かけ、細かいことを訊かれた時のために待機している。重臣の出羽守や陪臣のヤマキョーの雑用係として控える下男といったところだ。

「担当者君さあ」

 三田村専務がぼそりと誰かに呼び掛けた。誰も答えない。

「担当者君? 聞いてる?」

「おい、担当者! 専務がお尋ねだぞ。何とか言ったらどうだ」

 常務取締役のが不機嫌そうに勇吉を指差す。昔から、稟議書類を何度も跳ね返す「鋼鉄の壁」の異名を取る。背丈も横幅もあり、声もでかい。威圧感の塊のような男だ。

「私ですか。広報宣伝部……いや、スマコン準備室の多治見ですが」

 部署名を略称で名乗ってみて、恥ずかしさを改めて痛感する。

「君がいきなりこんな完成品みたいなのを勝手に作っちゃったの?」

「いいえ、勝手にではなく出羽本部長からの指示を受けてつく……」

 言いかけたところを加部常務が「言い訳は要らん」と全否定する。

 出羽守が両手を組んで揉み手をしながら「まずは三田村専務と加部常務にイメージの共有程度に、たとえばこんな感じで、というご参考でございまして」と割って入った。

「もっと根底になる理念から積み上げるとかさあ、競合他社のコンプライアンス行動規範の情報を分析するとかさあ、理屈を補強しないと、凄みがないでしょう」

「まずは叩き台を作るべきかと思いまして」

 勇吉は出世に興味がないので、相手が専務だろうが淡々と口答えする。

「そのやり方は違うと言ってるんだ。今回は社長の肝煎りプロジェクトだよ。ストーリーが大事なんだ。一枚ペラの新商品プレスリリースとかを出すのとは違うんだからさ」

 三田村専務は目の前の紙を一枚つまんでひらひらと振り回す。読む気もないようだ。

「初めから社長メッセージの草案を、社長に提案すればよいのではないでしょうか。粗い段階でも完成形を見せ、その上で議論を始めるほうが早いと思いますが」

「私の言ってることがまだ分からないか。プロセスが大事なんだよ。議論を尽くし、理論武装してご提案しなければ、説得力がない」

 勇吉は「理論武装……」とオウム返しした。

「一点目は、当社の直近十年の不祥事の傾向を振り返ること。二点目は、競合他社のコンプライアンス行動規範や事例を調べること。以上二点の論点資料をしっかり作り込んでおくように」

 論点資料……。ミカゲ食品の伝統の習わしだ。

 役員会議レベルの案件を事業化する際に、提出を求められる。記者会見やプレスリリースといったスピード勝負の業務を担当してきた勇吉には、なじみの薄い社内のお作法だ。

 社員の間では「デコレーション資料」、通称「デコ資料」と呼ばれている。

 勇吉には悪しき慣習としか思えないが、ミカゲ食品ではより上の幹部が関わる案件になるほど「デコ資料」が重要視される。提案内容を理論武装して箔を付け、文字通りデコレーション装飾する資料だ。パワーポイントで見栄えのよい図解やグラフなどを多用して作成する。

 二点のデコ資料作成を命じられ、勇吉にとって初の役員会議はお開きとなった。

 大会議室に取り残されて呆然とする勇吉に、出羽守が声を掛けてきた。

「多治見君、申し訳なかったね。三田村専務にはこの通過儀礼が必須なんだ。だから、通過儀礼を早めに済ませるため、今日の臨時役員会議に間に合うよう大至急作ってもらった」

「はい? 通過儀礼?」

「そのとおり。とりあえず形にしたものを持っていくと、専務はあんな感じで課題を提起して論点資料を用意させる。そこから議論を始めないと気が済まないスタイルなんだ」

 勇吉は思わず「マジですか? アホくさ!」と素になって叫んだ。

「しーっ。まあ、社長肝煎りのプロジェクトにはそれなりの格好が必要ということで。君も、もう少し上の立場になれば分かるよ」

 出羽守にポンと肩を叩かれたが、一生分かりたくないとしか思えなかった。

 コンプライアンス部のフロアに戻ると、多くの社員が席を外していた。

 ヤマキョーや生え抜きのコンプライアンス部社員は、上の階の「小会議室」に籠ることが多かった。内部通報事案の聴き取りである。多くの場合、第一報は匿名やイニシャルのメールで通報され、何度かやりとりを重ねた後に、対面の聴き取りになるようだ。

 勇吉も、もうじき内部通報窓口の第一報対応には携わらなければならない。スマコン・プロジェクトの作業と両立できるのだろうか。作成を命じられた二点のデコ資料が、重くのしかかる。

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