第3話


 勇吉たちのバンド『デスペラーズ』の出演時間は夜八時から。もう出番ギリギリだ。

 新橋の駅からほど近いライブハウス『ロック・フィールド』に駆け込んだ。

勤め人が多く集まるライブハウスだ。マスターのかぎはらじゅんぺいが「勤め人にロックを」を合言葉に『リーマンロック』というコンセプトを掲げ、三十年前、新橋にこのライブハウスを開いた。雑居ビルの地下、三十坪ぐらいの小さな空間。リーマンロックの聖地とも言われる。

「すみません、遅くなりました!」

 バーカウンターでマスターの鍵原が待っていた。肩まで伸ばした天然パーマの髪は、真っ白だ。

「おつかれさん。『ユーキチはまだか』って、あいつら楽屋でそわそわしてるよ」

 マスターが奥の収納スペースからベースギターを取り出し、手渡してくれた。ライブ用のフェンダー製エレキベースを昨日のうちに預けてあったのだ。狭い楽屋に駆けこむと、メンバーたちは準備を整えていた。

「ユーキチ、おせえよ」

 ギターのジョージことさとなかじょうがチューニングしながらぼそりと言った。黒の革ジャン革パンツを身にまとい、切れ長の細い目で勇吉を睨みつける。

 ボーカルのマキこといりが「冷や冷やさせんじゃないわよ」などと小言を口にしながら、大急ぎでメイク道具を鏡の前に並べる。小さな体と顔にそぐわぬ大きな目と口が、きょろきょろ、ぺちゃくちゃとよく動く。

「さあユーキチ、一分で着替えな。アタシがメイクしてやるから」

 勇吉。ざわえいきちの熱狂的ファンである両親が付けた名前だ。そのまま「永吉」ではあまりにも恐れ多いから「勇吉」になった。両親とも、生まれも育ちも矢沢永吉の出身地・広島。勇吉も大学進学前まで広島で育った。

 名付けた両親はもう、二人ともこの世にいない。

「遅くなってすまん。職場で少し色々あって」

 勇吉はスーツとワイシャツを脱ぎ捨てた。ドラムのリキヤこといわりきが「またSNSで炎上してるみたいだね」と、巨体をゆすりながら声を出さずに笑った。身長一九〇センチで学生時代は筋骨隆々だったが、年々、顔も体も丸くなっている。

 前のバンドがそろそろ最後の曲の演奏に入る。時間がない。

 勇吉は大急ぎで黒のTシャツと黒の革ジャンを着る。マキは両手で勇吉の髪の毛にべったりと整髪料を付け、オールバックを完成。それからアイシャドウを目尻の先や口角の先にまで塗りたくる。鏡に映った自分は、目が吊り上がり、口の両端が耳の近くまで裂けた、怪物のような人相だ。

「ひどいメイクだな。肝試しのお化け役かよ」

「今日は地獄からの使者ユーキチってことで、ヨロシク。似合ってるよ!」

 マキはいたずらっ子のようにゲラゲラ笑っている。

 勇吉たちのバンド『デスペラーズ』は、少数の熱狂的なファンを持つインディーズバンドだ。大学のサークルで意気投合した四人。音楽的な拠り所は、エルヴィス・プレスリー、チャック・ベリー、リトル・リチャードなどのロックンロールで、特に一九五〇~六〇年代の楽曲だ。

 社会人になって十三年経つが、平日の夜や土日に、数多あまたのライブハウスやストリートで、五百本以上のライブを重ねてきた。

「今日のセットリストだ。さりげなくアンプの上に貼り付けとくから見とけ」

 ジョージが手書きのルーズリーフを楽屋の小さなテーブルの上に差し出した。

 演奏曲はリーダーのジョージがその日の直感で決める。最初にチャック・ベリーの『ジョニー・B・グッド』、プレスリーの『ハウンド・ドッグ』でスピードに乗り、締めはリトル・リチャードの『ロング・トール・サリー』。最初と最後にロックンロールの名曲のカバーを据え、間に十五のオリジナル曲が入る。

 勇吉は大急ぎでベースギターのチューニングを済ませ、ステージへ飛び出した。

 ジョージが『ジョニー・B・グッド』のイントロを奏でると、客席の歓声と指笛があちこちからこだまする。つかみはOK。

 カバー曲の勢いのまま、オリジナル曲に入る。マキの過激な歌詞が光る『アフター5をぶっとばせ』は、わざと昭和なタイトルを付けた、オリジナルのロックンロールナンバーだ。敏腕女性営業は売上ナンバー1だけど、会社のトラブルメーカー。理不尽な客の顔にビールをぶっかけ、酒の席で絡んできたセクハラ上司の急所に蹴りを食らわせる。

 架空の「ロックな勤め人」を描いた曲だが、実際のマキは日商簿記二級の資格を持ち、大手電機メーカーの経理課に勤めている。

『大企業の小さな横領』は、大企業の総務課で一日にひとつずつ会社の文房具をくすねて人知れず溜飲を下げ「一矢報いている」気の小さい備品係のロックンロール。

『眠れる営業車のサボリーマン』は、営業車で眠りながら見たルートセールス営業マンの壮大な夢のエレジー。

『自己破産フィール・オーライ』は、ギャンブルで自己破産寸前の経理課社員が「一発逆転」を期して、会社の金庫から拝借した金を渾身の万馬券につぎ込む。

『パワハラ上司は二度死ぬ』は、上司の弱みを密かに握った部下が、自分の社員生命もろとも上司の未来を粉々に打ち砕く復讐劇。

 コンプライアンスの真逆を行く、レールから逸脱した勤め人の歌が続く。

 リキヤのドラムは「ゴミ箱をぶったたいたような音」で武骨なビートを刻み、時折合間にコンマ数秒の溜めを作ってズラすような、独特のフィル・インを挟む。

 勇吉はリキヤのリズムに乗せてベースラインをうねらせ、グルーブ感を生み出す。

 リードギターのジョージはロックンロールなリフやギターソロを曲の随所にちりばめ、まるで一九五〇年代にタイムスリップしたかのような錯覚をもたらす。

 そしてバンドの絶対的な柱は、リズムギター&ボーカルの、マキの歌声だ。

 野暮ったいロックンロールの名曲も、彼女の小悪魔じみたファニーボイスで再現すると不思議な魔法がかかる。それに、彼女の歌声には楽器の爆音を突き抜けるパワーがある。

 声量や声圧だけではない。存在感。声の存在感だ。

 どんな音にも塗りつぶされない際立った歌声が、爆音で揺れるライブハウスの空間に、そして聴衆の心に君臨する。

 勇吉は、彼女の歌声を最大限に活かし、彼らの演奏を勢いづけるベースラインを常に追求し続ける。今、この演奏中も。今日は特に、魂が躍っていた。

 音を出しているこの時間だけ、勇吉はロックンローラーの「ユーキチ」になれる。「お世話になっております」も「何卒よろしくお願い致します」も、全部捨ててよい。

 四人とも、昼間の仕事を脱ぎ捨て、紛れもなく「変身」するのだ。平日の日中は勤め人だが、夜や休日になるとロックンローラーに変身できる。

 日中の職場から解き放たれた勤め人たちのロックンロールが、客たちを昂揚させる。

 客席フロアの椅子は全て舞台裏に撤去されている。客層は三十代から五十代の勤め人。ここでは勤め先も役職も関係ない。上着を脱ぎ、ネクタイを外し、ワイシャツ姿で立ったまま暴れている。バーカウンターとフロアを往復し、浴びるように酒を飲む者もいる。

〈デスペラーズのライブでは、とにかく酒がよく売れるんだ。何か、酒飲んで暴れたくなる魔法でもかけてるんじゃねえのか〉

 マスターの鍵原はほくほく顔でよく語る。

 客もみんな、非日常の世界に浸ってもう一人の自分に変身しに来ているのかもしれない。ロックンロールの爆音の中で別の人格を表に出し、ささやかな変身を味わって、明日になればまたそれぞれの場所に戻ってゆく。客や上司に頭を下げたり、無理難題を前にデスクで頭を抱えたり、長い会議にうんざりしたりするのかもしれない。

 何年か前から、ライブの最後に客席へ呼び掛けるマキの締めの言葉は決まっていた。

「明日も仕事だ! アタシは頑張らないぜ! みんなもあんまり頑張り過ぎるなよ!」

 考え方は人それぞれだ。勤め先の仕事に全てを捧げる生き方もあるかもしれないが、自分たち四人は、違う生き方を選んだ。

 仕事をするために生きているのではない。

 楽しく生きるために仕事をしているのだと思っている。

 自分たちにとって楽しく生きるとは、ロックンロールを続けること。だが、そのためには金がいる。仕事は金を得るための手段。だから、ほどほどがよい。

「残業! 残業!」

 リーマンロックで「アンコール」を意味する「残業」のコールが沸き起こる。

 四人は、残業用にとっておいたオリジナルの二曲を演奏し、爽快に締めくくった。

 ライブは大盛況のうちに終わった。ギリギリに楽屋入りして勢いでステージに出たため多少不安もあったが、終わってみれば最高に近い出来だった。

 勇吉は演奏している間だけ、今日会社で起きたことを忘れていられた。

 

 終了後、客がいなくなったライブハウス『ロック・フィールド』のフロアに丸テーブルを出して料理を囲み、ビールで乾杯。

 世話になっているマスターの売上に少しでも貢献するため、ライブ後はここで酒を飲みながら「反省会」をしている。料理は、同じ雑居ビルの二階にあるイタリアン酒場から、パスタやピザをケータリングしてもらっている。

「今日のデスペラーズは音響スタッフ泣かせの勢いだった。あれじゃコントロール不能だよ」

 鍵原マスターが苦笑しながら、ウイスキーのボトルと炭酸水をテーブルに置く。全員が大酒飲みなので財布に優しいトリスウイスキーだ。炭酸水で割って、ハイボールにして飲む。

「マスター、それ、褒めてる?」

 マキが訊くと鍵原マスターは「ああ、絶賛してるんだよ」と親指を上に掲げた。

 最近はメンバー四人とも仕事が忙しくなってきて予定が合わず、今夜は年をまたいで三週間ぶりのライブだった。

 ひとしきり今日のステージの興奮を語り合い、言葉を吐き出しているうちに、昂揚感は少しずつ落ち着いてゆく。すると勇吉の思考は勤め人の世界へと引き戻されてゆく。

 会話が少し途切れたところで、勇吉は皆に切り出した。

「実は今日、いきなり会社で人事異動の辞令があった」

 マキが「マジで?」と興味半分、心配半分の様子で身を乗り出してくる。

「おいおい、どこの部署だよ」

 ジョージが怒ったような口調で訊ねてくる。もしも異動先が多忙で残業地獄の部署だったりすると、四人でのバンド活動に支障が出るからだ。

「コンプライアンス部だとよ。今いる広報宣伝部と兼務だ」

「転勤や忙しい部署への異動、昇格は禁物だ。バンドができなくなったら本末転倒だぞ」

 ジョージは飯田橋のデザイン会社でグラフィックデザインのオペレーターとして勤務している。凝り性の彼は、高校生の頃から自分のCDジャケットを作るために独学でデザインソフトを習得していた。その腕を生かし、転勤も異動もない仕事に就いた。

「転勤はないが、さっぱり意味が分からん形で昇格しちまった」

 リキヤが「昇格か。俺らも三十五歳。そういう時期だよなあ」と呟き、瓶ビールをラッパ飲みする。リキヤは飲料メーカーの子会社に勤め、今年、都内の「城北地区」のルートセールス担当係長になった。トラックで飲料を運び、自販機に補充し、売上金を回収したり、商品の売れ行きやラインナップを管理したりする仕事だ。

「で、ユーキチはどんな役職に昇格したの? セクハラ課長? パワハラ部長?」

 マキが冷やかす。勇吉は「うちの会社にはセクハラ課もパワハラ部もねえよ」とツッコみ、「ある意味、もっと変ちくりんな立場だ」と素に戻る。

「スマイルコンプライアンス準備室の統括リーダーとやらを拝命しちまったよ」

 ジョージが「スマイルコンプライアンス? なんだよ、それ」と笑う。

「俺も分かんねえ。いや、会社の誰も分かってないと思う。社長が言ってるだけ」

 スマホを取り出し、勇吉は今朝から炎上しているSNSの投稿を皆に見せた。マキが「なんか忙しくなりそうだね……」と画面を覗き込む。勇吉は「バンドのための時間は死守する。そのために働いてるんだから」と語気を強めた。

「なるほど……。ユーキチ、どうりで今日はめちゃくちゃいい音出してるなあって思った」

 マキがトリスハイボールをひと息に飲み干してから、ふーっと息を吐いた。

 リキヤが「どういうこと?」と首を傾げる。

「ユーキチはね、何かに飢えてたり、怒ってたり、イラついたりしてる時のほうが、すっごくいい音出すんだよ。満たされてる時のユーキチのベースは、つまらない」

 十六年前、マキに同じことを言われた。

 それ以来、勇吉は恋愛ができなくなった。

「よかったんじゃない? ユーキチは最近『このままなんとなく今の会社にいていいのか』とか、青臭いこと言ってたじゃんか。部署が変われば、気分も変わるんじゃない?」

 マキが冷やかし、ジョージも「そういえば、言ってたな」と冷ややかに笑う。

「でも、思わないか? 出会った頃の俺らが、今の俺らを見たらなんて言うか。俺たち、こんな大人になりたかったんだっけかって。人生の答え合わせみたいなもんだよ」

 勇吉は、ムキになって言い返してしまった。取り繕うように、話題を変える。

「そういえば俺も昨日、ついに職場の健康診断でバリウム飲んだよ。これで全員だな」

「おおっ、ユーキチも三十五歳の洗礼を受けたか! 今日の演奏はバリウムパワー!?」

 マキが笑って「バンド名『バリウム・カルテット』とかに変えようか」と茶化す。

「バリウムを飲むお年頃のユーキチはさ、第二次中二病期を迎えてるのかもよ」

 妙な造語を持ち出して、マキが話を戻した。

「社会人版の中二病ね。何をやっても、どこにいても『これでいいのか』って迷う感じ」

「俺が中二病? 健康診断でバリウム飲んだ三十五のおっさんが、中二病かよ」

 勇吉はマキの言葉に反発しながらも、内心では言い得て妙だと思った。

「思い悩むのは自由だが、仕事は程々に、っていうのが俺らの〝行動規範〟だろう」

 ジョージの言う通りだ。就活でも、四人でバンド活動できる環境を選んだ。

 勇吉がミカゲ食品を選んだ最大の理由は、当時は珍しかった地域社員制度があるからだった。ミカゲ食品は全国に支店や営業所を有するが、勇吉は東京エリアの地域社員として採用されたため、東京の商圏外への転勤はない。昇進は全国社員よりも不利だが、それも好都合だ。

 他の皆も、東京都内で働ける職場を選んでいる。

「しかし、コンプライアンスとは、ロックじゃねえなあ。スマイルが付くとますます」

 リキヤが苦笑いして、ウイスキーの水割りを口にした。

 マキが「いや、スマイルが付くと意味分からな過ぎて、ある意味ロックじゃん?」と笑う。

 デスペラーズはみんな〝ロックな生き方〟をしたいと願っている。

 ロックな生き方とはどんな生き方か、勇吉を含め四人とも明確には分かっていないだろう。ただ感覚的に「ロックな生き方」と「ロックじゃない生き方」の境界線がある。学生時代はせいぜい破天荒を気取ったり、奇をてらった言動に走ったりした程度だった。だが社会人になって少しずつ「ロックな生き方」の輪郭が見えてきているようにも思えるのだった。

 四人は大学時代に音楽サークルで出会って以来十七年の縁だ。大学三年の時にインディーズのレーベルから声が掛かってCDを出したところ、ロックンロール好きのコアなファンに受け入れられ、そこそこ売れた。だが、所詮、そこそこの売れ行きだ。勇吉たちが愛する、一九五〇〜六〇年代の古き良きロックンロールは、現代の日本では逆立ちしたって流行りはしない。バンド一本で生活できる可能性は限りなくゼロに近かった。

 だから四人とも就職してバンド活動を続ける道を選んだ。ロックンロールを続けられるならば、どんな形でもよいと思えた。

 勇吉はこのバンドでロックンロールを演奏する時、生きる喜びを実感できるのだ。

二十代前半の頃は、社会への反骨や皮肉を気取った歌詞をロックンロールのリフに乗せ、曲を作った。だが、年を重ねるうちに勤め人に共通しそうな「あるある話」「不祥事ネタ」「さぼり話」を基に曲を作るようになった。新橋のライブハウスで披露すると熱狂的な固定客がついた。大笑いする客、涙する客、指笛を鳴らす客、暴れ出す客。観客たちの、様々な感情を揺さぶった。

 デスペラーズの活動はやがて、アマチュア音楽に影響を及ぼし始めた。就職しながらハイレベルな活動を続けるバンドが次々と生まれたのだ。新橋の小さなライブハウスを中心としたこの一連の動きは「リーマンロック」と呼ばれるようになった。

 二〇〇〇年代の終盤に世界中を震撼させた経済恐慌「リーマンショック」の語感とも相まって、「リーマンロック」には勤め人の運命さだめを受け入れながらも立ち向かう、アベコベな言霊が宿った。

 勇吉も、他のメンバーも、悪くない響きだと思っている。

 勤め人のロックンロールという新しいジャンルを根付かせてやろうと考えている。

 一方で、四人とも、自分が勤める会社にはバンド活動のことを明かしていない。職場の同僚が義理や冷やかしでライブを観に来たりするのは「ロックじゃない」から。

ロックンロールが心の奥まで届く奴にだけ、狭くても深く刺さればよい。

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