第2話
「まいったなあ、多治見ちゃん。俺たちも巻き込まれるよなあ」
「SNS炎上案件という面では、うちも対応を免れませんね」
不祥事続きの中、能天気な発言で、火に油を注いだ。今回の件はかなり面倒だ。
五階のコンプライアンス部会議室の扉をノックして開けた。
「おはようございまーす、おつかれさまーっす」
丸岡部長は戸口から、いつもの調子でノリと勢いだけの軽い挨拶をした。
会議室の中をのぞき込むと、そこには意外な人が待っていた。
「悪いね、突然呼び出して。知ってのとおり、今朝から少々ざわついているでしょう」
取締役経営企画本部長の
出羽の隣にはヤマキョーの姿があった。メガネの奥から、全ての感情を消し去ったような目を勇吉に向けてくる。
出羽は勇吉を見て「多治見さん、ですね?」と確認し、勇吉は「はい」と応じた。
「メディア対応でのソツのない仕事ぶり、いつも感心させられているよ。多治見さんは、今回の社長のご発言、率直にどう思うかな?」
一担当者と取締役が直接話す機会は滅多にないが、出羽は勇吉の仕事ぶりを把握しているようだ。
「今のタイミングでこの発言は、やや唐突かと思います」
言葉を選んだ。本当は「あの人、ふざけてるんですか?」ぐらい言ってやりたい。
「コンプライアンスって、欧米では本来もっとポジティブなものなんだよ。でも日本ではコンプライアンスに対して、どうも消極的なイメージが付いちゃってるんだよね」
この経営企画本部長の出羽守道、何でも「欧米では」「外資の〇〇社では」などと先進事例を引き合いに出す。「では」と「でわ」をかけて、陰で社員たちからは「
「実は今回の『スマイルコンプライアンス』は、突発的なご発言ではないんだ。これは、社長が以前から温めておられた、パワーワードだよ」
パワーワード。役員や幹部社員の常套句だ。社長の思い付きの言葉をヨイショする。
「外資のシンクタンクなどでは、よく『攻めのコンプライアンス』みたいなことを言う人はいるけれど『スマイルコンプライアンス』は前代未聞だ。これは社長の天才的な発想で、歴史的なコンプライアンスの形になる」
社長は「パワーワード」を披露する機会をうかがっていたという。しかし、異物混入の不祥事直後にお披露目する感覚は到底理解し難い。
「そこで、広報宣伝部の多治見さんに白羽の矢が立った」
出羽守から一枚の紙が差し出された。
〈辞令 多治見 勇吉 経営企画本部コンプライアンス部 スマイルコンプライアンス準備室 統括リーダー兼務を命ず〉
「何ですか、これ」
勇吉は不信感を露わにした。
「急遽、コンプライアンス部内に新設のチームを作ることになった」
一月上旬の辞令など、ミカゲ食品では普通ならありえない。それにペーパーレス化を進める近年、辞令も通常、社内の人事システム上で発令される。
わざわざ紙で手渡された特別な辞令を、勇吉は呆然と眺めていた。
中途半端な時期に、突然かつ特別な辞令。怪しげな準備室の新設。しかも、その統括リーダーだ。九割方、火中の栗を拾うような仕事に違いない。
勇吉は、直感した。これはロクな辞令ではない。
ヤマキョーに目を向けると、彼女はメガネの奥の冷たい目でじっとこちらを見つめていた。
「チームリーダーに昇格だよ。おめでとう」
出羽守が拍手する素振りを見せる。腹が立つ。
「広報部と兼務の形になっているが、席は当面、コンプライアンス部に移ってもらう。丸岡部長、そういうことで、よろしいですね」
「あ、はい、経営的判断ならば是非もなしです。多治見君はよく頑張ってくれており、大変優秀な人材でありまして……今後も多治見君の幅広い活躍と飛躍を期待するところで」
まるで結婚披露宴で部下を褒めちぎる上司のスピーチのようだ。本当に優秀だと思うなら、泣いて引き留めてくれ。勇吉は出羽守と丸岡部長の間に割って入った。
「あの……私は法務的な素養もコンプライアンスの実務経験もゼロです。適性がないかと」
「素人だからこそいいんだよ。まっさらな考えで、新たなコンセプトを作り上げるんだ」
「そもそも『スマイルコンプライアンス』とはどのようなものでしょうか?」
「中身はまだ決まっていないんだ。これは社長のパワーワードだから」
勇吉は「はい?」と素っ頓狂な声を上げた。
「『スマイルコンプライアンス』の叩き台を考え、中身を作るのが君の仕事だ。社長の精神に降りた言霊をより実務的に言語化し、社内に浸透させるんだよ。ゆくゆくは日本の、いや世界のコンプライアンスに影響を与える。『スマコン・プロジェクト』だ」
社長の精神に降りた言霊? この会社は、霊験あらたかな新興宗教でも始めるのか。
「私は経営企画本部長として、多治見さんの広報宣伝部での柔軟な対応を非常に評価している。ゴールはスマコン行動規範を作り、発表すること。まずは行動規範の基本指針を示してほしい」
出羽守が組織図をサッとテーブルの上に差し出す。
「最初の大きな難関は、このコンプライアンス委員会だ」
組織図の中、「代表取締役社長」から下へ向かって伸びる直線の真ん中に、横に張り出すような形で「コンプライアンス委員会」と記載されている。
「勉強不足で申し訳ないのですが、コンプライアンス委員会というのは何でしょうか」
勇吉は何も知らないふりをする。そのほうが、相手は気持ちよく喋ってくれる。
「取締役会の諮問委員会だよ。社内の法務部門や品質管理部門、営業部門、人事・労務部門の幹部と、外部監査委員が何人か入って、内部通報の状況把握や事案の審査、コンプライアンスの体制整備や進捗管理を担う機関だ」
企業の内部統制が重視される昨今、一定規模以上の企業の多くがコンプライアンス委員会を設置している。
「そんな厳格な委員会に、スマイルコンプライアンスなど承認してもらえるんでしょうか」
「多治見さん……承認してもらえるか、ではなくて、承認させるんだ。それが君の仕事だよ」
勇吉は、とんでもないババを引かされたと確信し、内心舌打ちした。
「日本では斬新すぎる社長のパワーワードだが、海外ではアメリカのデトロイトファイナンスがポジティブなコンプライアンスの強化で好作用をもたらした事例もあり……」
勇吉は出羽守の「ではトーク」を聞き流しながら、暗澹たる気持ちになった。
辞令は勤め人の向こう二、三年間から数年間の生活を左右する、運命の紙切れだ。
勇吉の運命が弄ばれる傍ら、ヤマキョーは出羽守の隣で一言も発さない。社内チャット一本で呼びつけておいて、どういうつもりだ。勇吉は視線を送るが、彼女は黙ったままだ。
「山田課長は、スマイルコンプライアンスとやらについて、どうお考えなんですか」
勇吉が問い質すとヤマキョーは「私は反対です」と一秒で即答した。
勇吉は「あの、私たち、山田課長に呼び出されてここに来たんですが」と語気を強める。反対ならば、なぜ俺を呼び出して涼しい顔で座っているのだ。
「いたずらに新たな行動規範を設けるべきではないと、今朝の始業前に開かれた臨時役員会議で、私は出羽本部長の陪席者という若輩の立場ながら、法務企画課長として反対を直訴申し上げました。しかしその意見は却下されました」
「……まだ経営企画本部内すら一枚岩ではないってことですか」
「まあ、まあ。山田課長にはこれから社を挙げて良いものを作り上げましょうとお話ししたところで、一応、納得してもらったんだ。ねえ、山田課長」
「決まってしまったからには、進めざるを得ません。ただし法務企画課長の立場から、行動規範の文案やコンプライアンス委員会に掛ける資料は、是々非々で審査します」
この仕事は、火中の栗を拾うのみならず、社内の不協和音の調整もしなければならないようだ。
「スマコン準備室の位置づけだが、法務企画課の中のプロジェクトチームということになる。兼務先での直属の上司は、山田課長だ」
ヤマキョーが直属の上司……。同期が上司になることには抵抗はないが、そもそもプロジェクトに反対するヤマキョーの下で草案を作れとは、あまりに理不尽な人事だ。
「あの、自分の仕事はスマイルコンプライアンスとかいうものの行動規範づくりだけですか?」
「コンプライアンス部の通常業務も兼務していただきます。内部通報の窓口業務などです」
ヤマキョーはさらりと言ったが、勇吉は困惑した。
「そんな際どい仕事を、自分のような素人がやったらまずいのでは?」
「大丈夫です。窓口の仕事は、ハラスメント事案や不正疑惑などの通報をメールや電話で受けて、事実関係の記録を取る第一次対応までです。対面でのヒアリングは通報対応専任の社員と人事部からの兼務社員が実施し、各事案の裁定はコンプライアンス委員会に掛けます」
説明されても、大丈夫だとは全く思えない。
ヤマキョーの隣で、出羽守はスマコンで頭がいっぱいのようだ。
「この際だから、ミカゲちゃんもSNSでスマコンのこと、何かしら呟いておいて。オランダのロッテルダム・チーズ社のマスコットを使ったSNSプロモーションではスピード重視で……」
出羽守の講釈などほとんど頭に入らず、勇吉は茫然自失のまま会議室を辞去した。
会議室の扉を閉めて廊下に出るなり、丸岡部長が声を潜めて言った。
「いやあ、まいったなあ。気が重いね」
「とんだとばっちりですよ……なんで止めてくれなかったんですか」
「止めたい気持ちは山々だよ。でも俺は断腸の思いで多治見ちゃんの兼務を承諾したんだ」
丸岡部長は「これは栄転だよ。多治見ちゃん、偉くなるぞ」と拳を胸の前に掲げた。
「面倒臭そうだし大変かもしれないけど、多治見ちゃんの仕事ぶりが幹部や人事部の目に留まって、一本釣りの大抜擢でご指名を受けて選ばれたんだ」
「大抜擢とか出世とか、まっぴらごめんです……」
勇吉は出世などに興味はない。昼間は地道に働き、夜は自分の好きなことをしていたい。堂々と好きなことができるように、地味で大変な仕事でもなんとか丸めてきた。普段からやるべきことは残業も厭わずやり、その代わり自分の譲れない予定は死守する。
「多治見ちゃん、何事も経験だよ」
「その『何事も経験だ』っていう言葉、便利ですよね。上の人が下々の社員に面倒事を押し付ける時の『パワーワード』ですよ」
「そう悲観せずにさ、本籍はあくまでも広報宣伝部にあるんだ。多治見ちゃんが一回り成長して戻ってくるのを、楽しみにしてっから」
「冗談じゃないっすよ。
やりきれない思いを胸に、ミカゲちゃんのアカウントを開いてメッセージをしたためる。
〈社長が言ってるスマイルコンプライアンスってなんだろ。むーん、ミカゲも考えよう〉
満月の妖精であるミカゲちゃんの口癖は「むーん」と決まっている。
「何やってんだか、俺は……」
思わず呟いた。今夜は一秒でも早くこのオフィスから脱出したいと思った。
「すみません、今日は家庭の所用があるので、お先に失礼します」
丸岡部長は「おお、そうだったね。気にせず、早く帰って」と勇吉の退社を促す。
本当は、勇吉に家族はいない。しかし、大事な夜は、架空の従兄弟の息子の面倒をみるという名目で、早めにずらかる。家庭的な所用のほうが残業回避の理由として通りが良いから。
夜七時半、会社のロッカーからバッグを取り出し、退社。
エレベーターを待つのすらじれったい。勇吉は五階から一階まで階段を二、三段飛ばしに駆け下り、一階ロビーを全速力で駆け抜け、夜の新橋の街に解き放たれた。
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