褪せた薄紅


放蕩息子と呼ばれ親に勘当されてぶらりぶらぶら独りで生きてきたっちゃ。


故郷の九州を離れ、渡り歩いてなぜか東北の地に流れ着く。きっと暑い場所より寒い場所の方が肌に合ったんだばい。


幸い顔だけは良かったから常に女はおったし、貢いでもらったけんまともに働かんでも生活にゃ困らんかった。


女共はおれの頭の悪さと甲斐性なしに気がつくと、決まって唾を吐いて離れていった。そして別な女がすぐに近寄ってきよった。取っかえ引っ変え色んな女が傍にいたが、これっぽっちも好いたことは無いしすぐに忘れたばい。乗り潰して廃車になった車をいちいち覚えていられるほどおれぁ優しい人間じゃなか。


女の方はこっちを飾りとして見ている奴もおったし、本気で自分だけのものにしようとする奴もおった。あんまり好かれ過ぎて独占欲がへドロ化して、殺されそうになったことがあったとよ。


波乱万丈の二十代は生きた心地がせんくて、誰が傍にいても独りだった。


やさぐれた性格だと他人の幸せそうな顔に嫉妬して憎むようになってしまうけん、からし蓮根みたいにぶった切ってやりたくなるたい。


犯罪まではいかんが、悪さを働きたくなって人の大事な人を横取りしてやろうと考えたわい。


目をつけたのは二人の男女。町をぶらぶら歩いていたらたまたま見つけたけん、男の右腕には刺青が彫ってあった。この「美子」の名前は恐らく女のものやった。


自分の女の名前を体に掘るような奴から、女を奪い取ったらどげな顔をするかと想像すると笑いが止まらん。おれは女のあとを付け回しては頻繁に声をかけた。


ばってん、大概の女は頬を赤らめて恥ずかしそうな素振りを見せちょったのに、この女は虫けらを見るような冷めた目をしやがった。自分の男以外、全く興味を持とうとせん。


絶対的な自信のあるこの顔を持ってしても落とせねぇ女がいるとは思わなんだ。こうなっては必ず自分のもんにしてやろうと躍起になってとことん絡みついたっちゃ。


行くとこ行くとこに付いていって、時に先回りして待ち伏せてはちょっかいを出す。もちろん嫌がられて何度も怒鳴られたばい。


いかにおれの存在を知らしめて、どうやって四六時中頭の中をおれでいっぱいにさせてやろうかとばかり考えて、気づけば毎日それが生きがいになっちょった。他の女や悪友との関わりは減っていった。あの女が好みそうな男になるために、身なりを整え自分なりに勉強をして、まともな職にもついた。何をやっても駄目で馬鹿な息子と罵られて育ったおれも、人並みに社会の役に立てるようになったっちゃ。こうなった原点はあの女だ。



なんの目標もないまま生きてきたとよ。だけん、努力して欲しいものを手に入れる楽しみってやつを初めて味わった、心の底から夢中になれるものがあったけん。


おれはいつの間にかあの女、美子に惚れていて、死ぬまで一緒に生きたいって目標ができた。男がいようが関係ねぇ、そいつよりもっといい男になって振り向かせてやるばい。あいつはおれの希望そのものたい。



✱✱✱✱✱




祖母が少しぼけてきたから、孫だと認識されているうちに会いに行けと母から連絡が来た。


夏季休暇を二日手に入れて、私は遠く離れた祖母の元へと車を走らせている。


母方の祖母は東北のとある山奥で一人暮らしている。気が強くて怒りっぽくて、畑を荒らす害獣は素手で倒してしまうくらいの怪力を持つ。あと声がメガホン並に大きいので祖母の住む周辺には害獣が一匹も出なくなったなどの逸話を聞いたことがある。


その最強の祖母もついにぼけ始めたらしい。


「母さんは大学に進学したのをきっかけに関東へ移り住んだんだ。やがて父さんと出会って私が生まれた。二十七年生きたうち祖母の家へ遊びに行ったのは五回くらいかな」


きつい性格の祖母と大人しい母は元々折り合いが悪かったため、帰省することはめったになかった。今年九十歳になっても一人で暮らし続ける祖母を心配して、母は近頃マメに様子を見に行っているようだ。


「最後に会ったのはいつだ?」


「・・・・・・二十歳になった時だな」


「ばば不幸者だなぁ、青田さんもばあちゃんのこと苦手だったんじゃないの?」


隣の助手席ではネズミになったカフカが座っている。つまり奴は今日の初めにアパートに出現したネズミを目撃したということだ。一泊二日の旅とはいえ、ひ弱で無力と化した彼を放っておくのは気が引けたので仕方なく連れて行くことにしたのだ。


祖母が苦手であることは否定しなかった。小さい頃に独特な方言で叱られたのが今でも記憶にこびりついているせいだ。


「口癖のようにおんつぁげす、馬鹿っていう意味の言葉を浴びせられたよ。おばあちゃんらしいことをされた思い出はこれっぽっちもないんだ」


「おんつぁげす、いい響きだ。青田さんのために作られたみたいな方言だね」


「お前がジェリーで私がトムだったら迷いなくお前を食っているところだよ」


冗談はさておき、重い足取りいや、重いタイヤで向かっているのだが会った時に何を話せばいいのか考えていなかった。きっと人生で一人番長い一泊二日の旅になるだろう。


「せっかくの遠出だしな、観光しなきゃ損だ。どこかいい場所ないの?」


「延々続く雑木林と竹やぶと、東西南北に山。あとは頻繁にイノシシが出て稀に熊が出るからちょっとした動物園だな」


「おばあさんは飼育員か?」


「運が良ければ熊肉が食べられるぞ。ばあちゃんは何でも食べるから」


この何でも食べるの何でもは、もしかしたらネズミも含まれるかもしれない。カフカは身震いをして日付が変わって変身できる時間になるまで私のフードの中に隠れることになった。


市街地から離れ曲がりくねった山道を1時間ほど走る。すれ違う車は指で数えられるほど少ない。心細いがカーナビだけを頼りに目的地を目指す。何度もこの道を通っている母は慣れっこだろうが、私にとっては初めて補助輪なしの自転車に乗るような試みだ。住めば都と言うけれど、コンビニすらない秘境で暮らす自信はない。


「じいさんはいないのか?」


「母親が高校の時に肺の病気で死んだんだ。まだ四十五歳だったって」


「ふぅん、若いなぁ」


祖父が死んでから祖母は、再婚せず独りで生きてきた。見合いの話はきていたらしいが尽く断ったそうだ。あんな男勝りの祖母でも祖父を一途に愛していたということだろうか。


人口千二百人の山村集落。上は青く澄んだ夏空と下は緑鮮やかな草花。このノスタルジックな景色を見た時、忘れかけていた約七年前の記憶が蘇ってきた。


「確かキャンプ場があってそこで大勢でバーベキューをしたんだった。住人はほとんどが親戚だから仲が良くて、私は美子あねの孫って呼ばれてたんだ」


「美子? あね?」


「美子は祖母の名前。あねは目上の女性への敬称のこと」


「へぇ、しかしのどかで良い場所だな。初めて来たはずなのになぜか懐かしい気持ちになる」


「・・・・・・田舎の風景だから穏やかになるんだろう。さ、ばあちゃんの家に行こう」



道沿いに家々が建ち並び、奥へ進むとからぶき屋根の大きくて古い家がある。そこが祖母の家だった。


雑草生い茂る広々とした庭に車を停めると、音を聞きつけたのか家の中からまん丸体型で割烹着を着た祖母が出てくる。その右手にはなぜか包丁が握られていた。山姥に似たその風貌に思わず固唾を呑む。


夕食がネズミ肉料理になるのを恐れたカフカは光の速さで私のフード内に隠れる。


怖気付きながらも車から降りて祖母に久方ぶりの挨拶をした。


「ばあちゃん、久しぶり。美空だよ」


あぁ、アフロ白髪に、綺麗なルの字にできた眉間の皺、ブルドッグみたいに垂れ下がった両頬が懐かしい。山賊もしっぽを巻いて逃げ出すくらいの迫力は衰えていないようで安心した。


「誰かと思った。みそ坊主か」


みそ坊主は幼い頃、味噌っかすで男の子みたいにやんちゃだった私に付けられた、祖母限定のあだ名だ。フードの中からクスクスと笑い声が聞こえる。ネズミの刺身にしてもらおうか。


「その呼び方やめてよ。今日来ること母さんから聞いてるでしょ?」


「言ってたっけかな? 忘れっちまった」


おしりをポリポリと掻いてバツが悪そうに屋内へと歩く。ボケたとの情報は確かなようだ。


更に決定的だったのは私が玄関に入ってからの発言だ。


「まだ鍵は閉めねぇで。博邦さんが買い物から帰ってくっから」


祖母がすでに他界した祖父が生きていると思い込んでいる発言で、認知力低下の深刻さを即座に察した。


家に入るとすぐ十二畳半の広間がありその真ん中には囲炉裏が設置されている。小さい頃家族みんなで囲炉裏を囲んで、鮎の塩焼きを食べたっけ。お腹いっぱいになった後、大の字になって高い天井の骨組みを眺めるのが好きだった。


昔と違うのは、壁のあちこちに手すりと段差にスロープが備え付けられていることだ。足腰の弱った祖母が暮らしやすいように住宅改修したらしい。


近所の人や週に二回ほど来るヘルパーのおかげで生活に不自由なさそうだが、人の手助けがなかったら今頃どうなっていたのだろうと思うとぞっとする。


祖母はよたよたと歩いて奥の部屋へ入った。後について行くと部屋には物がごちゃごちゃ散乱していた。


「何か探していたの?」


「ん、遺品整理」


「誰の?」


「おらの」


またおかしなことを言う。遺品整理とは故人の残した品を整理することだ。


祖母はぶつくさ言いながらどんどん物をゴミ袋に捨てていく。


「人っちゃ厄介な生き物だなし。動物は死んだら全部自然に還って迷惑かけねえのに、人は死んだら物が残っちまう。パッと死んだら物も全部一緒にパッと消えちまえば楽なのによ。これ、いっかし?」


タンスの引き出しから古い口紅を出てきた。綺麗な薄紅色の口紅だったが、さすがに人が使ったものはもらえないので断った。


「ばあちゃんが使ったらいいでしょ」


「博邦さんからもらったんだげっちょ、似合わないから」


「だったら大事にしまっておきな」


「ちっ」


人のアドバイスを無視してゴミ袋に口紅を放り投げた。それから押し入れの襖を開けてずるずるとダンボールを引っ張り出した。中には絵本と図鑑がぎっしりおさまっている。


「これはおめの物だ。いらねなら捨てるしいるなら持ってけ」



それは深く掘り探らないと思い出せない代物達だった。稀にしか遊びに来ない孫の私のために祖母が買って置いてくれた本。紐で結ばれカビ臭くなったそれらを一冊一冊畳の上に並べてみる。


「町まで買いに行くの大変だったんじゃない?」


「いや、本屋やコンビニ屋が時々車でやって来るんだ」


「ああ、移動販売車のことか」


本には私の小さい指紋がべたべたと付いているのだろう。あちこち破れていたり落書きしてあったりだいぶ乱暴に扱われていたようだ。


銀河鉄道の夜の絵本があった。不思議とこの絵本だけは見覚えがある。夜空と列車の絵がキラキラしていてお気に入りだった。


ほんとうにいいことをしたら、いちばん幸なんだねえ。だから、おっかさんは、ぼくをゆるして下さると思う。


カムパネルラの台詞も物語の内容も、幼い私の頭では理解できなかったが今ならよくわかる。


ダンボールの底には殴り描きされた絵が数枚あった。これも私が描いたものなんだろうと手に取って眺める。


ソラ。あおいおそらには、しろいくもがないとダメなんだよ。


「え」


青いクレヨンで紙一面染められた絵を見た時、ふと誰かに昔そう言われた気がした。そして小さく二つの顔が並んだ絵。驚いたのはそこに「ソラちゃん」と「ヒロくん」の名前があった。


「ばあちゃん、私以外にここへ誰か遊びに来たことある?」


祖母は眉間を尚更八の字にして、絵をじっと見つめる。


「五歳くらいの時か。友達でめんごい男っ子いたべ。お母さんがそれとおめを連れてきたことがあった。名前は忘れちまったけど、それと、おめが結ばれんだと思ってた」


そうか、私とヒロは一緒に祖母の家へ遊びに来たことがあったのか。こんな所で痕跡を見つけるなんて思いもしなかった。もしかしたら母が写真を持っているかもしれない。


「んで、捨てんのか捨てねのか?」


「全部持って帰るよ。しまっておいてくれてありがとうばあちゃん」


「うん。それとは仲良くやってんのか?」


何も知らない祖母は歯が一本も生えていない口を大きく開けて笑った。幼なじみの男女なら将来結婚するのが自然の流れでしょう、みたいな押し付けがましい質問は今まで耳が痛くなるほどされてきたが、祖母にこうやって訊かれるのはなぜか不愉快じゃなかった。


「仲良くやってるよ、向こうは結婚したけどね」


「あーあ、人に取られちまったか。さっさどしねからだ」


「式の時、花嫁さんに失礼なことを言ったおやじがいたんだ。そいつに思わずおんつぁげすって言っちゃったよ。そしたら殴られてね。恥ずかしながら、あれほど人から注目を浴びたのは初めてだった」


式は式でも結婚式じゃなくて葬式だけど。


「あっはっは! 友達の花嫁に悪口言う奴にがなって、何が恥ずかしいだ。おめえは偉い。手を出した野郎が恥ずかしいだ」


祖母は偉い偉いとご機嫌になりながら私の頭を撫でた。人と喧嘩をしたことは何度かあったが、褒められたのは初めてだ。それもあの屈強で頑固な祖母に。


しばらくぶりでギクシャクするかと心配だったが、和気あいあいと話せて良かった。


「さて、博邦さんが帰ってくっから、そろそろままごせすんなんね。おめも腹減ったべ。手伝えな」


しかしこのボケ具合が数時間後の真夜中に大事を起こすとは、この時まだ知る由もなかった。



台所に並んで立って祖母の料理を手助けする。火や包丁の取り扱いを心配したが、慣れている手つきでスムーズに行えていたので安心する。


カフカはずっと静かなままだ。フードの重みと時折蠢くので存在がすぐわかる。細かく切った野菜とソーセージを、隙を見てフードに放り込むと微かに咀嚼音がした。絶対祖母に姿を見せてはならないなと改めて意志を固めたのは、台所下の収納内に殺鼠剤スプレーがあったのと、奥には罠にかかって死んでいるネズミがいたからだ。


まぁ、アイテムがなくても祖母なら素手で握り殺せるだろうが。


辺りが暗くなってきた頃、囲炉裏で夕食の鍋をつついた。夏でもこの場所は涼しくて窓を開けると心地よい風が吹き、蛙の鳴き声が聞こえてくる。田舎の夏の夜は快適だ。遠くても来て良かった。


「それにしても、博邦さんは帰ってこねなぁ」


祖母は何度も玄関の外に出てはきょろきょろと辺りを見渡す。訪問看護師をしている同期に聞いた事例と似ていた。同期は、孫を亡くした認知症の高齢女性の自宅へ訪問していたのだが、夕方決まった時間になると必ず表に出て孫が学校から帰ってくるのを出迎えようとするらしい。病気になっても愛する者を待ち続ける尊さ。私は祖母の行動に否定も肯定もしなかった。


「ね、じいちゃんはどんな人だったの?」


外で仁王立ちする祖母に、写真でしか見たことのない祖父について尋ねてみる。


「どこさでもいるような男だ」


「そうかな? 肌が黒くて顔もかっこよかったと思うんだけど。どうやって出会ったの?」


「どこからかひょっこり出てきた変な男だった。おらの行く先々で待ち伏せしては気安く話しかけてきしゃがって。そん時は付き合ってる男がいたのに、それでもベラベラベラベラ喋ってきてよ。しつけえの何の」


淡い恋の話でも聞くつもりだったのだが、どうもまずかった。自分の祖父にストーカー気質があるのは衝撃的である。


「最初はチャラチャラした趣味の悪い服を着ていたんだが、そのうちきちんとした身なりになってな、ふざけていたのが最後には真剣な顔で結婚を申し込まれた。断っても断ってもしつこくて、だからごせやけて夫婦になってやっただ」


ぶつぶつと祖父の悪態をついてはいるが、生きていると思い込んでこうして待っている。


粘り強いところは祖父、体が頑丈なのは祖母に似たのかもしれない。学生時代は熱が出ても登校して皆勤賞だったし、仕事は飲まず食わず寝ずでも倒れたことがない。たくましい遺伝子を受け継いだのを感謝しなければ。


「桃栗三年柿八年柚子の大馬鹿十八年。博邦さんは大馬鹿で実を結ぶのに何十年もかかったけんじょ、よくやってくれたよ。食いっぱぐれなく稼いで、毎日喧嘩しいしい楽しくやって」


「そうか、ばあちゃん幸せなんだな」


「やんだおら、不幸でないだけだ」


ついに日が落ちて辺りは暗くなった。民家の明かりがぽつぽつと灯る。慣れない田舎の夜は、少し心細くなる。森林がすぐそばにあって今にも獣が飛び出して来そうな闇がある。夜の散歩などとても独りではできない。


「ばあちゃん、そろそろうちに入ろうか」


「んだなぁ、腰も痛くなってきた。どこほっつき歩いてんだか。昔からふらふらするのが好きで困っちまぁ。ま、そのうち帰ってくんべ」


この世にいない祖父を毎日待つのが祖母の日課なのだろうが、これがエスカレートして独りで遠くに探しに行って、山の中で迷子になったらと思うと心配でしかない。


風呂に入ってパジャマに着替えて、座敷部屋に敷かれた布団の上で休む。明日は畑仕事を手伝えと言われたので骨が折れそうだ。


「ふぅー、息がつまるぜ」


ようやくフードの中から解放されたカフカは仰向けに寝て両手両足を最大限まで伸ばした。


「早く明日になってほしいな。ネズミはもう懲り懲りだ」


「0時まであと三時間くらいか。何に変身するか決めておかないとな。この辺はゲジゲジやゴキブリが出やすい。間違っても最初に見るなよ。そんな類の生き物をフードやポケットに隠すのはごめんだからな」


私は携帯電話の連絡帳を開いて通話ボタンを押した。耳に当てるとすぐ呼び出しの音が流れる。


「誰かに電話?」


「母さんにちょっと。悪いけど静かにしてて」


カフカは退屈そうに畳の上でゴロゴロと小さな体を回転させて遊び始めた。気が散るので携帯を耳に当てたまま、視界に入らないよう壁の方を向く。


「はい」


「あ、母さん? 今ばあちゃんち。まあまあ元気そうで良かったよ」


「そう、行ってくれてありがとう。体は相変わらず頑丈だけどね。頭は相当「キてる」でしょ?」


「物忘れってレベルじゃないな。認知症があるみたい。じいちゃんが生きてると思い込んで帰りを待って外に何度も出たよ」



母はあぁ、やっぱりと呆れたようにため息を漏らした。


「こないだ行った時もそうだったの。もう随分前に亡くなったって説明をしたら納得はしていたんだけど、また始まったか」


「ねぇ、そんなにじいちゃんとばあちゃんは仲が良かったの?」


「喧嘩ばっかりよー。まあおじいちゃんが亡くなってから火が消えたみたいに勢いは衰えたけどね」


勢いという言葉を聞いて、ふと熊に突進していく若かりし頃の祖母を想像した。祖父は強い女が好みだったのだろうか。


「ヘルパーさんにはこまめに連絡をもらうようにしているの。近所の人からも何かあったらすぐ教えてもらえるようにお願いしてる。独りでの生活が今後厳しくなったら、色々考えなくちゃいけないね。あんたも忘れられないうちに、おばあちゃんに会っておいてほしくてね」


あんたは昔から優柔不断で、ああしておけば良かったって悔やむことが多いんだから。母は最後にそう言って電話を切った。


祖母ももう歳だ。あと十年、五年生きられるかわからない。畑仕事以外に祖母へしてやれることを考えた。そういえば、小さい頃は泊まりに来る度同じ布団で眠っていたっけ。祖母のたくましい腕枕が妙に心地よくて、あれ以上の枕はどこにも売っていなかった。



腕枕とまではいかないにしても、祖母さえ良ければ同じ部屋で寝たい。今夜くらいは孫の立場を存分に活用しよう。甘えたら祖母は喜ぶかもしれない。


バタン。


私が部屋を出たのとほぼ同時に、戸が閉まる音がした。静かで暗い夜に鳴る音はとても心臓に悪い。風でどこかの戸が煽られたのだと思った。


だが、それは間違いだった。


明かりのついている祖母の部屋を覗くと、姿はどこにもなかった。トイレに行っているのかと家の中を歩き回るが、明かりはついておらず人の気配もしない。


ひどい焦燥感に駆られて私はパジャマ姿のまま玄関に向かった。すると先程鍵をかけたはずの引き戸がわずかに開いていて、祖母のサンダルも消えていた。嫌な予感がした。


「ばあちゃん!」


表に出ると生暖かい風が全身を撫でた。草木の匂いが強い。真っ暗闇で右も左もわからず、携帯電話のライトを点ける。やはり祖母の姿はない。


失敗した。最初から同じ部屋で過ごすべきだった。きっと祖母は祖父を探しに外へ出て行ってしまったのだ。外出する際声をかけられなかった。ひょっとしたら私が遊びに来ていること自体忘れている可能性がある。いくら怖いもの知らずの祖母とはいえ、山の中で迷子になってしまったら大事になる。


心臓の音がうるさい。


・・・・・・嫌だな、今まで関わってきた患者の顔が皆祖母の顔になって脳内再生される。体の痛みに声をあげていたり、心臓マッサージをされていたり、こんな時ばかり想像力が豊かになる。


その想像上の悲劇に押しつぶされそうになるなど、私は自分で思っていたよりも遥かに弱かった。


慣れない土地で手探り状態になりながら祖母を探しに行く。このまま見つからなかったら、見つかったとして最悪な形だったらと思うとどうにも足がすくみ、何度か躓きそうになった。


身の回りにいる人を失わないようにこれまで頑張ってきた。それなのに、また失ってしまう怖さに震える。



ついには、あいつの姿を重ねてしまった。



途端、真っ黒な山々の影が何か巨大で恐ろしい生き物に見えた。


ゲッゲッゲッゲッゲハハハハハハハ!


蛙の鳴き声が嘲笑に聞こえてきて、怒りや不安といった負の感情がむくむくと私の中で膨らんでいく。


あ、だめかもしれない。


堪えていたものがぶつんと切れそうになり、私はその場で膝まづいてしまった。


「青田さん」


足元から声がする。声の主にライトを当てた。ネズミ姿のカフカだった。


「お前、付いてきてたのか」


「さっきからずっと呼んでいたさ。小さいから声が届かなかったんだろ」


現れた変な生き物の声によって、少し気持ちが落ち着いた。巨大な生き物はただの山々となり、蛙の嘲笑はただの鳴き声となる。パニックで妄想世界に陥っていたらしい。


「ばあさん、いなくなったんだろ?」


「うん。きっとじいちゃんを探しに行ったんだ。このまま見つからなかったら、どうしよう」


「あんたが諦めてどうする。俺が探してやるから立て」


「・・・・・・腰が抜けて、足に力が入らない」


「ネズミの俺じゃ見つけても家に連れ戻すことはできないんだ。頑張って立て」


岩のように強ばった両足に力を入れる。産まれたての子鹿の如く、がくがくと頼りなく震えながらどうにか立った。


「こりゃバランスを取らなきゃ歩けないな」


「間違っても俺を踏み潰すなよ。日が変わるまで二時間、早く人間になりたい」


妖怪みたいなこと言ってら。


ネズミの嗅覚を頼りに祖母の足跡を辿ってみる。カフカは早く歩けない私に合わせながら先導した。見失わないようライトを当てる。長いしっぽが忙しなく動いていた。


「しかし弱音を吐くなんて青田さんらしくないな。俺に心を開いてくれたってことかな?」


やっと聞き取れる声はどこか嬉しそうだった。心を開いたかどうかは別として、さっきは絶望的で誰かに引っ張られなかったらあの場から動けなかった。


「人を失う怖さを知らなかったら、私はまだ動けたんだろうよ。ばあちゃんの顔がこれまで関わった患者の姿と重なって、とどめだったのはあいつの死に顔と重なっちまったことだ」


「あいつ?」


「ヒロ。白澤時大」


名前を出した途端、カフカは黙り込んだ。


「私は生きている限り人との繋がりを得ては失う。失う度、必ずあいつの死に顔も思い出すだろうな。その度、絶望する。これは呪いだよ。とんでもない置き土産をしていきやがった。でも恨んじゃいないよ。むしろあいつには感謝すべきだ。自分の弱さに気づいたし、弱いってことは強くなる伸びしろがあるってことだもんな。あいつめ、人を臆病呼ばわりしたこと後悔してるだろうな」



「青田さんは十分強いよ」


ミミズみたいなしっぽを揺らしながらカフカは言った。意外な反応に少しむず痒い気分になる。あっさり慰められるよりいつもみたいに悪態疲れた方が元気が出るのに。


「ばあちゃんが無事に戻ったら、お願いがあるんだ。喜ぶかどうかわからないけど」


「悲しみのケアか?」


「そうだね、ばあちゃん、本当は悲しかったのかも。じいちゃんがいなくなってずっと独りで暮らしてきたから」


悲しみに限界がきてしまって、祖父が生きているふりをし続けた結果、死んだことを忘れる時間が出現した。認知力の低下もあるが、ストレスから身を守るための防衛本能が働いたのだろう。


「いいぜ。じゃあ、探しながらシナリオでも考えるか」


祖母へのケアをいかに実践するかの話で盛り上がる。さっきの切羽詰まった感じがまるで嘘のようで、田舎の夏の夜を気楽に散歩しているだけの気分になった。


やがてカフカはとある民家へ辿り着き、歩みを止める。


「匂いがここで途切れてる」


表札には木村と書かれていた。窓から明かりがもれていて中から話し声が聞こえた。期待を込めて私はチャイムを押す。


「はい」


「あっ、すいません夜分遅くに。実は祖母を探していまして、もしかしたらお宅にお邪魔しているんじゃないかと思って」


言い終わるか終わらないくらいに玄関灯がついて、バタバタと凄まじい足音が近づいてきた。やがてドアが開いて私の腰の辺りしか身長のない小さなおばあさんが出てきた。


「あらぁ、美空ちゃん? 大人になったわねぇ」


顔を見てもいまいちピンとこなかったが、この人は私のことを知っているらしかった。


「もう、何年振りかしら? あんなに小さかったのに背丈越されちゃった! あはははは!」


「あのぅ、美子ばあちゃん来てませんか?」


「ああ! 来てるわよ! あがってあがって!」


陽気な雰囲気に唖然とする。あれだけ悩んで絶望したのに簡単に見つかってしまった。ぷぷっと笑い声がした方を見ると、カフカは草むらへ飛び込んで身を隠した。顔から火が出るくらいの恥ずかしさを覚える。


祖母はお茶の間で胡座をかいて煎餅を食べていた。その姿に安堵して一気に緊張がほどける。


「あんだぁ、何でおめ、ここさいんだ?」


もはや怒る気にもなれない。こっちは寿命が縮む思いをしたというのに、人の家へ遊びに行っていただなんて。


木村さんに話を聞いてみると、祖母は時々村の住民の家をランダムで訪ねては祖父を探していると言い、最終的には目的を忘れて談笑し、お茶を飲んで帰るらしい。迷惑極まりない行為だが、村の住民はそう思っていないのだと木村さんは言った。


「美子さんにはだいぶお世話になったのよ。皆、今日は家に来るかなって楽しみに待ってるくらいなの。すっかり村の名物よ」


美子さんがいなければこの村は寂しいわねぇと木村さんは茶をぐびぐび飲んでいる祖母に微笑みかけた。


「皆さんにご面倒をかけて、本当にすいません」


「謝ることないよ。美子さんが忘れっぽくなったのは村の皆が知っているから、昼夜見守っているの。だから安心してね」


最後に木村さんへ何度も頭を下げた。恥ずかしくて赤くなった顔で首を上下に振る行為は、ある郷土玩具を想起させられる。


満足した祖母を自宅に連れ帰る。これは母と協力して菓子折りを村の住民全員に配り歩くべきだ。人の気も知らず、祖母は機嫌よく鼻歌をうたって道を歩いていた。



✱✱✱✱✱



早朝。おらは農家をやってただけあって早起きの習慣がついていた。


昨夜は友達の家でお茶を飲んでいたら、孫に連れ戻されてしぶしぶ寝た。年寄りの楽しみを取りしゃがって。


台所で入れ歯をはめて、くしで髪を梳かして外に出る。庭の草花に水やりをして散歩に行くのが日課だ。んだけどまた孫に連れ戻されるかもしれねえから早くに帰んなんね。あんなにばあちゃん子じゃねかったと思うんだけんじょ、まったく世話が焼けんなし。


しゃがんで小川の流れをじっと見て、手を鳴らして木にとまる鳥をびっくりさせて、山菜を少し取って。いつもと変わんねぇ毎日。


さて今日もまた暑くなんぞ。孫が起きる前にまんまごせして、食ったら畑仕事手伝ってもらわんなんね。


山菜片手に腰へ両腕回して、よたよた歩いて家に帰る。


したら、向こうから誰か歩いてきた。田中さんか、木村さんか。近くになってくると、それは男だった。まだあんまし見えないが、太郎あんにゃか? それとも喜一あんにゃか? いや、もっと若いな。


そいつは立ち止まっておらの方を見ていた。村の住民じゃないかもしれねぇな。どこのだんじゃべ。


知らねフリして通り過ぎっかと思った時、そいつに声をかけられた。


「美子、どこまで行って来たと?」


何だべ、おらのこと知ってんだべか。


顔を見上げると、そいつが誰なのかすぐにわかった。



「・・・・・・何だぁ! 博邦さんかぁ。早起きすんの珍しいべした」


ぐーたらな博邦さんが早起きすっことは滅多にない。しかも髪は整って似合わないスーツを着ている。明日は雪山になるんじゃねぇべか。


「たまにはよかろうもん。昔のおれとは違うけん」


「んー、そーかよー。しかし何だか博邦さんと会うのは随分久しぶりな気がすんなぁ。どこさ行ってただっけ?」


「何言っとーと? ずっと一緒におったばい」


「そーだっけかれぇ? どれどれ」


おらは山菜を地面に落として、博邦さんに抱きついてみた。


「いいや、やっぱり久しぶりだな」


「どうだってよか、ここにおるんだから」


「それもそうだなし。何でだべなぁ、懐かしくてしゃあねぇだ」


気づくと目から涙が出ていた。歳を取ると勝手に流れ出てくることはよくあったから大して気にもとめなかったのに、博邦さんは裾で涙を拭き取ってくれた。


「どげんしたと?」


「何ともねぇ。それより博邦さんの方が大丈夫か?」


「おれ?」


「だって、体の具合いが・・・・・・」


健康的に日焼けした真っ黒い肌に、時折見せる白い歯。ガタイも良くてとても具合いが悪いようには見えないのに、何でか心配した。博邦さんは両手を広げて笑う。


「おれが病気に見えると?」


「いいや、おかしいな、おら寝ぼけてるみたいだ」


ぼけるにはまだ早いぞと茶化してから、博邦さんは小川の近くにある岩に腰掛けた。おらも歩くのに疲れたからその隣によっこらしょと腰を下ろす。


ずっと一緒にいたとは言っても、こうして並んでのんびりすんのは初めてじゃねぇべか。子めら育てんのに忙しくって、息付く暇もなかったしな。たまにはいいかもしんね。


それから時間を忘れて他愛のない話をしていた。話と言っても口から先に生まれたおらがずーっとベラベラ喋ってるだけで、博邦さんはうんうん頷いている。


何十年も溜め込んだのを全部喋ったような、すっきりはしたがおかげで喉が渇く。


「美子がおったから、おれはまともに生きられるようになったとよ。子も孫も立派に育ったばい」


「んだぁ、あんまりしつこいからやけくそになって博邦さんと一緒になったけんどもな。博邦さんはおらが付き合ってた男に殴られてでもおらのこと諦めなかったもんなぁ」


変だな、そんなことよりも大事なことを忘れてる気がしてなんねぇ。娘の結婚式、孫の成人式、おらたちの金婚式。もっと思い出話に花が咲くはずだ。なのに、ああだったよな、こうだったよなってのがあんまりねぇ。


そもそもあん時も、あん時も、博邦さん、隣にいたんだっけか?


「なあ美子」


博邦さんはおらの手に何かを渡した。若い手と皺だらけの手が重なって、おらは首を傾げた。


何で、博邦さんだけが若いままなんだべ。


手を広げると口紅があった。昔、博邦さんからもらった薄紅色の口紅。そういや、いつもらったんだっけ。


「これを大事にとっておけ。これを見る度思い出すんよ。わざわざおれを探しに出ずとも、ずっとお前の傍におるってことをな」


あ。


馬鹿だ、おら。あん時もあん時も、博邦さんはいなかったじゃねぇか。高校の娘を独りで育て上げて、独りで嫁に見送った。ずっと独りでこの村で過ごしていたじゃねえか。


この口紅は、博邦さんが最後にくれた贈り物だった。


「おれが早くに死んじまっても、一緒になったこと悔やまんでくれ」


死ぬ数日前、泣きながら言っていた。それで初めて泣き顔を見たんだった。どうしてなかったことにできたんだべ。これじゃああんまりだべした。


「あ・・・・・・博邦さん?」


口紅に気を取られているうちに、いつの間にか博邦さんがいなくなっちまった。おらはよたよたと岩から降りて辺りを探した。


しばらくあっち行ったりこっち行ったりウロウロして探したが、あの人はどこにもいなかった。


息が切れて体がこわくなってもう一度岩に座る。夢でも見ていたんだべか。それとも幽霊だったんだべか。


どっちにしろ、あの人はもういねぇ。もっかい会いたくなって、いるふりをしていたらだんだんわからなくなっていたんだ。本当にあったこと忘れて、嘘んこの方が頭にあったのか。何ともしょうねぇなぁ。わりかったなし、博邦さん。おらはもうおめのこと探しに行かねぇから。



もらった口紅を握りしめたまま、目をつぶってあれこれ考えているうちにうたた寝をしちまった。陽向に当たる手の甲が暖かくて、まだ博邦さんと手を重ねているみたいだった。


✱✱✱✱✱




「さっき、いい夢をみただ」


畑仕事をしながら祖母は機嫌良くそう言った。散歩の迎えに行った時、小川の傍の岩に座って気持ちよさそうに寝ていた祖母は、私にくれると言った口紅を大切に握っていた。


「どんな夢?」


「博邦さんと話してた夢。歳は取りたくねぇな、ボケてあの人が生きてると勘違いしてただ。近いうちに医者に頭を診てもらうだ。面倒かけてわりかったな」


かかかと入れ歯をカタカタ振るわせて笑う祖母は、昨日訪ねた時よりも表情が明るかった。


「いいんだよ、死んだ人が生きてるって思いたくなる気持ちはわかるから」


祖母は何も聞かなかった。たぶん人の生死に関わる仕事をしている私に気を遣ったのだろう。まさか昔遊びに来たあの男の子のことだとは、微塵も思っていない。その証拠に、帰り際「今度はあのやろっこと遊びさこ」と言った。


車を発進させて、見送る祖母の姿が遠くなるのを見計らい後部座席の足元に隠れるカフカに声をかけた。


「もう出てきていいぞ」


極限まで丸めていた体を伸ばすとポキッポキッと関節が鳴った。バックミラーには若くに亡くなった祖父の姿をしたカフカが映っている。


「うわぁーーー! 息苦しかった! 何で悪いことしてないのに隠れなきゃなんないんだ」


「実際悪いことなのかもしれない、私達はばあちゃんの夢を偽装したんだから」


けれどもそうしないと祖母はいつまでも祖父を待ち続けて、どんどん妄想がひどくなり本物の祖父との大事な記憶さえも忘れてしまうような気がした。それはあまりにも悲しい。


もう探さなくていいと本人から伝えれば祖母も安心するのではないかと、カフカに祖父のふりをするよう頼んだのだ。


その作戦は見事成功した。


だけど祖父が生きている妄想が再び出ないとは言いきれない。また、探し始めるかもしれない。


何かあったらすぐ電話をもらえるよう、木村さんと連絡先を交換してきた。あとはこまめに祖母に電話を入れて、連休がある時には様子を見に来ようと思う。


「やっぱり人が一番楽だ。自分のことを自分でやれるからな」


カフカは汗ばんだ額を手のひらで拭って、そのまま前髪をあげた。四十歳くらいの頃か。形の整った眉、くっきりした二重まぶたに高い鼻、日に焼けた黒い肌と対象的な真っ白い歯。母親から急遽送信してもらった祖父の写真を完璧にコピーしている。遺品整理の中にあった祖父の服も借りることができて良かった。


バックミラーで私の顔と交互に見比べてみるが、あまり似ていないかもしれない。


「木の影から様子を見ていたけど、演技をするための材料がない中でよくできていたと思う」


「探すってことはばあちゃんはじいちゃんのこと好きだったんだろ、嫌いな奴なんてボケても探さないだろうし。だから嫁に会いに行く普通の男を演じただけだ」


「ありがとう」


礼を言うと、カフカはびっくりした顔をした。


「礼を言うのって初めてじゃないか。青田さんから感謝されるの気色悪いな」


「じゃあ撤回する」


「うそうそ、こちらこそ役割を与えて下さりどうも」


カフカの演技の中で今回が一番引き込まれた。容姿に歳の差のある二人だが、誰が見たってあの景色は夫婦に見えるはずだ。それだけ魅了された。


カフカが祖母に口紅を渡した時、奴の挙式に参列した時の記憶が蘇った。


愛した女性の薬指に指輪をはめて、永遠を誓い合う場面が、重なってしまった。愛する女性に微笑みかけられた時の、あの照れ笑いの仕方が一致している。


本当はずっと前から、いや、カフカと出会った日から確信している。私は知らないふりを演じているのだ。


祖母が保管していた、ダンボールいっぱいの本が振動で揺れる。


「大丈夫か? 運転が荒いぞ」


「あ、ううん、大丈夫だ。また明日から仕事だから、早く帰らないとな」


ハンドルを握る手が震えているのを、カフカに気づかれないようにするので必死だった。


私にはまだ、自分に嘘をつく演技をやめる勇気がない。

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