哀色のケア


「ゆうれいって信じる?」


小学生低学年の頃。夏の夕焼け空が広がる学校の帰り道、ランドセルを背負ったヒロが聞いてきた。


「えー、そんなんいるわけないじゃん」


私は即座に否定した。幽霊を見たことがなかったし、テレビで観るのは作られたものだと信じていたからだ。本音を言えば、怖いものはいない方がいいという願望だった。


「おれさー、こないだ怖い番組見てさー、ゆうれいっているんじゃないかって思ったんだよね」


「ふ、ふうん、どんな番組だったの?」


「人って死んだらやかれるだろ? そんでケムリになって空から生きている人間をうらめしそうにながめるんだよ。いいなぁ・・・・・・くやしいなぁ・・・・・・にくらしいなぁって」


この時トイレを我慢していた私は、ヒロの迫力のある語りに漏らしてしまいそうになるのを堪えていた。


「ゆうれいは一人の人間に目をつけるんだ。それから家まであとをついていく。ゆうれいはせなかからもしもしって話しかけて、ふりむいたところでタマシイをぬいちゃうんだ。ぬけがらになった人間の体をうばい取って生きるんだよ。もしかしたらおれたちの近くにもゆうれいに体をうばわれたにせ物がいるかも・・・・・・」


次の瞬間、ジジジと蝉が目の前を横切り、私は尻もちをついてしまう。その拍子に股間が生暖かくなりズボンへ染み渡っていった。これが人生最大の汚点として何年も引きずる羽目になった。



「わはははは! お前はおくびょう者だな」


漏らした僕を笑い転げて酸欠を起こしそうになったヒロのことを、くやしいなぁ・・・・・・にくらしいなぁと睨みつけてやった。


遠い遠い、二度と訪れることのない私達の夏の記憶である。


余計なものを一切考えずに悠々と生きていた時代。随分遠い昔になってしまった。


ヒロは笑い終わった後、バツが悪そうにハンカチやポケットティッシュを泣いている私に渡してきた。


「じゃあ、ヒロの怖いものって何だよ!」


「んー、おれの怖いものは_____」


無論、大人になった私は膀胱括約筋が鍛えられているためそう簡単には失禁しない。例え謎の人物から襲撃にあおうとも。


白澤時大の名を知る、私の姿をした奴。なんだかややこしいトラブルが訪れた。不本意だが詳しく話を聞くためそいつを部屋に入れてやることにした。これ以上外で喚かれては近所迷惑になってしまう。


「ありがとう! ありがとう! 助かった。本当に良かった・・・・・・!」


そいつは目を潤ませて何度も土下座をしてきた。自分に似た相手が土下座をする光景を客観的に見るのはいたたまれないが、この尋常じゃないくらいの必死さ。本当に私しか頼る者がいないらしい。


カーペットが敷かれた床へ頭を擦り付けるそいつに、腕を組んで仁王立ちしながら尋問をする。


「どうして白澤時大のことを知っているんだ? それに、やっぱりその姿、さっきまでの私と全く同じじゃないか!・・・・・・頭が混乱しておかしくなりそうだ」


「お、俺、あんたと同じ顔してるのか?」


「同じにもほどがあるくらいにね!」


相手は自分の顔を両手でペタペタと触る。埒が明かないので鏡を見せてやったら化け物を見たように驚いて悲鳴をあげていた。それはそれで失礼なんだが。


タイムスリップして過去や未来に行き来するというおとぎ話はよくあるが、目の前の現実を単なるおとぎ話では到底済まされない。


「信じてもらえないかもしれないけど、俺にはこれまでの記憶が全くないんだ。幸いにも言語や多少の知識は残っているようだが、どこで誰とどう生きてきたのかが思い出せない。さっき言った通り、高い場所に俺は浮いていて、下を見るとあんたがいた。気づいたらこの姿で立ち尽くしていたんだ。白澤時大って名前だけが頭の中にずっと浮かんでいて、これは俺が何者であるかのヒントなのではないかなと・・・・・・。だからあんたを追いかけて聞いてみようとしたんだ」


私は唖然とした。どうやら彼は頭を強く打っているらしい。このまるっきり信ぴょう性のない供述。いっそ気絶してしまいたくなる。


「私に、用があるんなら、家まで黙ってついて来ないで、さっさと声をかけたら良かったじゃないか」


「何度もかけたよ! それなのにあんたが無視するから・・・・・・心ここに在らずみたいな顔してたし」


言われてみれば、家に着くまで無意識に一切の音を遮断していた気がした。そもそもどの道を歩いてどんな通行人とすれ違ったのかすら覚えていない。ヒロの訃報を聞いた時からどうもぼんやりしている。よく事故に遭わずに帰ってこられたなと感心するほどだ。


「それは、私に非がある。悪かった。でも残念な話、白澤時大は死んだんだ。だからあなたには関係ない。自分が何者なのか思い出すには、精神科を頼った方が良さそうだよ」


その事実を突きつけた瞬間、そいつの瞳から光が消えた。ひどく、憔悴した表情だ。それが可哀想で思わず同情しそうになる。酷なことだが、覆すことのできない現実なのだからどうしようもない。


確実に妄想癖がある。そうとしか思えない。きっとたまたま白澤時大の名前を知り、たまたま私にそっくりで、たまたま頭がおかしいだけ。なんだ、簡単なことじゃないか。


こうなったら宥めて宥め尽くして気持ちが和らいだところでお帰りいただこう。


「もしかしたらあなたには大事な家族がいるのかもしれない」


「わからない」


「私の情けない顔にそっくりだけど、きっと素敵な相手がいるんじゃないかな」


「わからない」


「その人のために記憶を取り戻しましょうよ」


「わからない」


キリがない。壊れたラジオじゃあるまいし、同じことを返されて困った。焦れったくてだんだんいらいらしてくる。幼なじみで親友の葬式帰りに何で変な奴に絡まれなくちゃいけないのか不満でいっぱいだった。私は疲れていてしばらく独りになりたいというのに。


「その顔で悲しそうな顔をしないでくれ」


目の前の私の顔は、捨てられた犬のような顔をしていた。何本か涙の筋が頬を伝っている。こんなあざとい顔、私だってしたことがないのに。女々しいみたいで不愉快だ。まるで泣けない私の代わりに泣いているみたいじゃないか。


「あの・・・・・・あんたは白澤時大とどんな関係なんだ?」


「・・・・・・一番仲の良い友人だったよ。私にとっちゃね」


今となっては全部『元』とか『だった』とか付けなくちゃいけない。白澤時大という人間は終わった。もう過去の中でしかあいつは生きられない。


幼なじみで親友と一言でまとめてはいるが、私の生涯で最も濃厚な相手だった。数十年、積み重ねてきた信頼関係は他の誰よりも強かったし、お互い絶対的な存在だったんじゃないだろうか。そんなこと気恥ずかしくていちいち確認は取っていなかったが、もし私が全世界のマフィアを敵に回しても俺だけはお前の味方だって、わけのわからない力説をしていたことがあった。馬鹿みたいな例だったが、あれは正直嬉しかった。


「なるほど、それじゃあ見ず知らずの俺が大切な人の名を語るのは、気分が悪いよね」


「大切って、別に、そんな・・・・・・」


「でも不思議だな、あんたを見ているとなんか懐かしい気持ちになるのは、どうしてだろう?」


どうしてと聞かれても。


普段鏡でしか見ていなかった自分の顔。しかし明らかに別の意思を持った目に、じっと見つめられるのは気色が悪い。


「ヒロ」


そいつの発した呼び名に、体がぴくりと反応した。


「あんた確か俺のことをそう呼んでいなかったか? これは憶測なんだが、俺は死んだ後に体を燃やされて空へ上がる時、なんらかの現象が起きてあんたそっくりの姿になって、もう一回生まれ変わったんじゃ?」


「いい加減にしてくれよ」


怒りで拳に力が入る。死んだ人間のふりをされるのも、私とヒロの間に割って入られるのも我慢ならなかった。


「ヒロはあなたみたいに冴えない顔つきはしていなかった。身長も高くて足も長かった。鏡の前でいつまでも髪をいじくるナルシストで、口調も生意気だし、すぐふざけるくせに真面目な時は真面目で、人気者で、ポジティブだった。あなたとは真逆なんだ。これ以上あいつのふりをするのはやめて出て行ってくれ!」


そいつへ言い放った発言は、そのまま自分自身に向けたものだ。だって同じ姿をしているのだから。


ずっと胸の奥で考えていた。私とヒロは雲泥の差があり、所詮カタツムリと豹では同じ土俵にあがることはできない。ヒロの方が社会に必要な人間だったから、むしろ死ぬのが私の方だったらさぞかし世のため人のためになったことだろうと。


神様がいるならそいつは頭が悪い。消すべき存在の選択を間違えている。




疲労がピークに達したせいか、自暴自棄に陥って半ば八つ当たりする形でそいつを追い出した。中に招いたり追い出したり、途方に暮れて自分を頼ってきた相手にやっていることは鬼畜だ。偽善でも何でもいい、頼むから独りにしてほしかった。


追い出されたそいつは諦めがついたようで、ドアの向こうでただ静かに言葉を残した。


「数々の無礼、申し訳なかった。そうだよな、俺は白澤時大じゃない、怒るのはごもっとも。俺はどうにか独りで頑張って自分が何者なのか思い出すことにするよ。話を聞いてくれてありがとう、嬉しかったよ青田さん」


私の苗字を当てられてぎょっとしたが、ドアの真横にある表札を見たからわかったのだろう。


足音が遠ざかっていく。左右の足が地面を交互に踏む時のリズム。足音はかつて隣を歩いていたヒロのものによく似ていたが、即座に否定した。


私は今でも幽霊や怪奇現象を信じていない。看護師の仕事で何十人も命の終わる瞬間を見てきた。一度も体から魂が抜けたところを見たことがない。死んでしまったら終わり、二度と会うことはないし、生き返ることもない。いくら大金をはたいたってそればっかりは叶わないんだってことは、身に染みてわかっている。


見た目も中身も違う奴を、ヒロだと簡単に信じられるほど私は、馬鹿ではない。追い出したことを、間違っていないと誰かに言ってほしかった。


「ヒロ」


もちろん返事はない。この世界中どこを探しても奴はいない。


ドアに背をもたれてそのままずるずると座り込む。色んなことを考え過ぎて頭痛がする。何も考えない時間が必要だ。頭を空っぽに、空っぽに・・・・・・。


目を閉じたまま項垂れて両膝に額を当てていると、蝉の声が聞こえた。


風に揺られて波打つ緑の稲、錆び付いた自転車を漕ぐヒロの背中、どこまでも真っ直ぐに伸びたアスファルトの道に、晴天には入道雲。懐かしい情景が広がっていく。暗闇と蝉の声があれば、私はいつだって青春時代に戻れるのだ。


誰にも知られないこの青春ごっこは、崩れかけている心に安寧をもたらしてくれた。


「お前はおくびょう者だな」


あの日腹を抱えて笑っていたヒロの声が、耳の奥でずっと響いている。今の私のことも、たぶん、臆病者だと思っているんだろう。


お前一人がいなくなっただけで、こんなにまいっちまうなんて。


ジジジジジ。日が落ちて蝉の声が消えるまで、私はまだ何も失っていない子どもの頃にかえっていた。


あいつがあの時言った怖いものは、何だったっけ。



___そんな騒動があった翌日の夜。


その日はバタバタと仕事が忙しく帰りが真夜中になった。日常茶飯事ではあるが、走り回っていたせいで足が棒になるほど疲れた。


生ぬるい空気に包まれながらくたびれた体を引きずって、コンビニで買った弁当を持って家へ向かう。通勤は徒歩二十分程でガソリン代を浮かすために車は極力使っていなかった。


こういう時独身は楽だ。待っている家族のために早く帰ろうという気は起こらないし、眠っているのを起こさないようにと泥棒みたいにこっそり家に入る必要もない。なんて言ったって真夜中にビールと油物を食べて注意されない。独身、バンザイ。


朝起きて外に出ても男はいなかった。独りで頑張ってみるとは言っていたが、為す術なくまた戻ってくるかと思った。仕事中もあのヘンテコリンは今頃どこでどうしているのか、ふと考えていた。友人を亡くしたばかりで気落ちしていると思った同僚達が、気を遣って励ましの言葉をかけてくれたのはありがたかった。


結局、悲しむ余裕がないくらい仕事は忙しかったけれど気を紛らわせるにはちょうど良い。


時間は待ってくれない。生きているなら進んで、生きている人を助けていかなくちゃと己を奮い立たせた。


きっとあいつは本当の自分を取り戻している。もう私の元には現れないはずだ。


「あれ? 君・・・・・・」


閑静な夜の住宅街を歩いていると、懐中電灯を持ったおまわりに声をかけられた。


「え? 何か?」


「昨日の夜も会ったね、今日はスーツじゃないんだ。仕事帰り?」


私は怪訝する。昨日会ったどころか、見知らぬ中年のおまわりだ。


「いえ、まぁ、仕事帰りですけど。あの」


「毎日遅くまで大変だね。早く帰りなよ」


そう言っておまわりは朗らかに笑いながら去っていった。私の頭の上には無数のクエスチョンマークが浮かんでいた。


明らかに私を誰かと間違えている。嫌な予感がした。まさか、あいつが私そっくりの姿でまだこの辺りを彷徨いているのでは、と。


「ヴァーー」


突然、背後から獣のような鳴き声がして私は飛び上がった。


「な、何だ?」


すぐに振り向くと暗い道の真ん中に四つん這いの生き物がいた。生き物は息を荒くしてこっちに走ってくる。


私は声にならない声をあげて逃げた。黒い塊がどんどん迫ってくる。やがて距離は縮まり、背中に衝撃が走って私は前から地面に倒れ込んだ。体当たりされたらしい。恐怖を感じながらほふく前進で必死に逃げる。そいつは足に噛み付いてきてずるずると体を引っ張り始めた。


食い殺される、そう覚悟した時変な声がした。


「頼むから逃げないでくれ!」


そこには街灯に照らされた一匹の巨大な黒い猫がいた。毛並みが乱れ泥で汚れていて、長いしっぽを振りながら私の足にまとわりついてくる。当たり前だが猫は人語を発しない生き物。こっちが語りかけても荒く呼吸するだけ。


それじゃあ、声の主はどこにいるのだ。


「俺だよ、昨日訪ねた、あんたそっくりだった奴だよ」


「うわああああああ!」


猫が喋った。きっと疲労が見せた幻覚に決まっている。でも、腹の上にのしかかってくるこの温もりは本物だった。


私は素早く猫の首の後ろを掴み、体から引き剥がして地面におろし距離をとった。


「逃げないでくれ、こうしてまたあんたを頼って戻ってきたんだ」


「いやいやいや、戻ってきたって、猫だろう? 一体何がどうなったらこうなるんだ!」


「話せば長くなるが」


「いいから手短に話してくれ、気持ち悪い!」


私は頭を抱える。猫が口の形を変えて喋る様は映画やドラマのCGで見たことがあるが、実際では不自然過ぎて可愛いもへったくれもない。声だって呂律が上手く回っていないし高音で聞き取りにくい。なんだか無理やり言葉を発している感じがした。


話によると私に追い出されてから、行くあてのないまま町を徘徊していたそうだ。金もなく宿泊できる場所もないことから高架下の河川敷で膝を抱えながら一夜を明かしたらしい。日が昇って辺りが明るくなった時、目が覚めると目の前には一匹の猫がいた。それが、『この猫』だったという。


「全く意味がわからないんだが」


頭が足りないから理解できないのではない、きっと百人中百人が理解に苦しむ説明だからいけないのだ。


「刷り込みを知っているか?」


「あの、生まれたばかりのヒナが目の前を動く物体を親と勘違いすること?」


「まさしく俺もそれと同じ現象なんだよ、一日の最初に見た物を自分の姿と思い込んで、コピーするらしい。本当、一瞬で変わったんだぜ。昨日あんたの姿と瓜二つだったのは、きっと俺が生まれて最初に見たのがあんただったからだろうな」


「なるほど、お前は何らかのきっかけで生まれて、たまたま最初に目に映った私の姿になり、こうして関わりを持ったってことか」


「やっとわかってもらえたか!」


「とてもハッピーな脳みそを持った生命体だ」


私は冷ややかな目をしながらスマートフォンで警察に連絡をしようとした。しかし猫は高く飛び上がり腕に噛み付いて頭を振り、スマートフォンを遠くへ飛ばした。


「何するんだよ!」


「こっちのセリフだ! あんたこそ何しようとしてんだ!」


「警察に連絡して、お前を保護してもらおうとしたんだ。人語を話す猫だなんて、テレビで引っ張りだこになるぞ。良かった、これで路頭に迷わずに済む」


猫は唸りながら私の体に何度も体当たりしてきた。体力がゼロに近い私は反抗する気も起きずやられるがままだった。だがしかし、いつまでもやられているわけにはいかず、最後の力を振り絞り、猫を抱き抱えて家に連れて帰ろうとする。


「離せこらぁ! どうするつもりだ!」


「お前の言うことが本当かどうか実験しよう。明日の朝、一番にゴキブリを見せたらゴキブリに変身するのかどうか楽しみだな」


余裕ぶった発言で相手をおちょくるも、実は心臓がばくばくしていた。


こんなの、アニメや漫画の世界だ。


腕を噛まれたり引っ掻かれたりされながら、私の中である馬鹿げた仮説が浮かんだ。


もし、この猫が記憶をなくしたヒロで、自分の姿を探すために成仏できずさ迷っているとしたら。


私は慌てて首を横に振った。誰かに言ったら笑われる話だ。でも、これは紛れもない現実。否定しようにもできない。


では、こいつは自分の本当の姿を見つけた瞬間、どうなるのだろう。


ああ馬鹿馬鹿、今はあれこれ考えている場合じゃない。とにかく場所を移動しよう。


猫が喋るなどという有り得ない場面に遭遇してしまったおかげで、頭の中が大パニックを起こしていた。そのうち故障して体の穴という穴から煙が出そうだ。


猫を抱えて走っている途中で気づく。そうだ、うちのアパートはペット禁止だ。夜中に猫の鳴き声がしたと苦情が出て追い出されたら洒落にならない。


仕方がないので方角を変えてじっくり話ができる場所を探すことにした。



暗くて誰もいない土手の草原に座り、ようやく一息つく。ただでさえ仕事の疲労がたまっているのに、また厄介事が戻ってくるとは。私はいつ休めるのだ。ここまで来るのにだいぶ暴れられて、両腕と顔に噛み傷や引っ掻き傷ができた。


「手を舐めようとするな」


私の腕から解放された猫は、四つん這いになって湿った鼻先を手の甲にくっ付けていた。周りに灯りがないからもはやシルエットしか見えない。何をされるかわからないのでスマートフォンのライトをつけて地面に置く。するとまん丸で可愛らしい黒猫の顔がよく見えた。駄目だ、外見に騙されてはいけない。相手は未確認生物だ。


「いや、申し訳ないから何かしなきゃと。この生き物は舐めて相手を慰めるらしいな」


「未確認生物に舐められて嬉しいわけないだろ。ウイルスが付いていたらどうしよう・・・・・・」


「まだそんなことを言うか! いい加減現実を見ろよな!」


そりゃ現実逃避したくもなる。ヒロは死ぬし、私そっくりな奴は現れるし、深夜残業で疲れているし、喋る猫は現れるし、弁当は食われるし。


「何勝手に食ってんだ!」


猫はさっきコンビニで買った弁当を勝手に食い漁っていた。


「いや、つい美味そうだなと思って」


「卑しい猫だ」


弁当を取り上げると猫はしょぼくれた顔をして地面に伏せた。


「あんたの手から、かすかに生臭い血みたいな臭いがしたよ」


さすがは猫、職場で何度も洗い流したのに嗅ぎ当てるとは。


何を勘違いしているのかは知らないが、急にしおらしくなり私の傍から離れた。その様子がおかしくて苦笑いをする。


「・・・・・・安心してくれ、誰かを傷つけてついたわけでも自分が怪我してついたものでもない」


私は仕事の内容を猫に教えてやった。救命救急センターで看護師をしていること。今日は熱中症の搬送件数が多かったが、中には自動車同士が衝突するという交通事故もあって、外来で負傷者の処置を施した。その時手袋に多量の血が付いた。猫の嗅覚は人間の約数万倍から数十万倍鋭いといわれているからいくら手を洗っても臭いがわかるのだろう。


「すごい仕事をしているんだな、ちゃんと休めてるのか?」


「オンオフはしっかり切り替えられる職場ではある」


「その割にはかたっくるしい喋り方をするよな。なんていうか、機械みたいに抑揚がないよ」


「学生時代に接遇のことはビシバシ厳しく言われたから、癖がついてお前みたいな変な生き物にもつい畏まった喋り方をするんだろうな」


猫は近づいてきてじっと僕を見る。喋らなければ普通の猫なのに、興味津々であれこれ訊いてくる。


「誰かが死にそうになっているのを見て怖くないのか?」


「怖いさ。それよりも怖いのは、死に慣れてしまってなんの感情もなくなってしまうことだ」


「ふうん」


「・・・・・・私の話はこれくらいにして、お前の話を解決させないとな」


今が人のいない真夜中で良かった。昼間だったら猫と会話をする変人がいると通報される恐れがあるからだ。


意識ははっきりしているつもりでも、もしかしたら私はどこかで倒れていて意識不明の中で夢を見ているんじゃないかと疑っている。


ヒロが死んだのも全部夢で、目が覚めたら私は病院のベッドに仰向けで、心配そうな顔をしながらあいつが覗き込んでいることから現実が始まる。


そして「馬鹿野郎、この死に損ないが!」って頭を引っぱたかれて叱られるんだ。


「笑ってないで真剣に聞いてくれよな」


猫の苛立った声で我に返る。せっかく気分の良い妄想に浸っていたのに。


「なぁ青田さん、百歩譲って俺は白澤時大ではないとするよ。じゃあ、俺は一体何者なんだろう? 生き物はみんな親がいるだろ? でも俺は何から生まれたわけじゃなくポンと存在しちまった。この虚無感はあんたにはわからないだろうね、この世界に俺を知る人は誰もいないって、めちゃくちゃ苦しいものだぞ」


猫はニャアと切ない声を出して両耳を垂らす。可哀想になって私は弁当のおかずの唐揚げを一個あげた。ガフガフと汚い咀嚼音を立てて一瞬で食べられてしまう。


「そのまま喋る猫として生きたらいいじゃないか。私はもうお前を知ってしまった、それで満足だろ」


「死ぬまで青田さんが面倒見てくれるの? 食い物と娯楽と風呂と病院と糞尿の世話も?」


「そこはたくましく野良として生きろよ」


飛びかかってこようとするのを咄嗟に腕でガードする。猫はまた悲しい鳴き声をあげて項垂れた。ちょっと言いすぎたかもしれない。


「昨日といい今日といい、奇想天外な出来事を目の当たりにしているのは、認めなくちゃいけない。今私の頭は疲れきって思考が麻痺しているのもあるけど。でも、お前がヒロ・・・・・・白澤時大であることは認められない」


「何で?」


「記憶が一切ない、見た目も違う、そんな奴をどう認めろって言うんだ。それにな、死者に会いたい人は、この世にはたくさんいるんだよ」


大切な人の遺体を前に、泣き崩れた人は数え切れないほど見てきた。なぜ救ってくれなかったと罵倒され、殴られかけたこともあった。


限りあるものは美しいというが、そこには醜さや絶望や懊悩も実は含まれていることもある。終わりよければすべて良しっていうのは極わずかしかない。


「そういう人の元に奇跡的なイベントが訪れるべきなんだ。私だけ特別、やったーなんて思えないよ。それにヒロにはこの世のことを心配しないで、安らかに眠っていてほしいんだ」


「あんた、変なところで律儀だな。友達少なそう」


「頼る人が私以外にいないお前には言われたくないな。とにかく、自分探しは自分で頑張れ」


猫は眠そうに欠伸をした。丸一日外で徘徊をしていたらしいから、疲れが溜まっているのだろう。未確認生物に少し情が湧いてしまった僕は、半ば諦めてまた家に招いてやることにした。


猫は嬉しさを表現して、ゴロゴロ喉を鳴らして飛びついてくる。そして私の顔をべろべろと舐めて唾液まみれにした。どうやら相手の姿だけじゃなく、習性もコピーするらしい。


翌朝。私は昨夜招いた未確認生物について気をつけなければならないことをうっかり忘れていた。


一日の最初に見たものの姿に変わる、そう、奴は猫からまた私の姿になっていたのだ。


目を覚ましたら私が私を覗き込んでいるものだから、悲鳴をあげて飛び跳ねてしまった。


「ごめんね、また青田さんになっちゃった」


だがしかしこれで証言は見事立証されたわけだ。そして、また明日にならなければ姿を変えることができない。


起きた途端に現実的じゃない現実を突きつけられて寿命が縮みそうだ。


さてこれからどうすべきか。半分寝ぼけたままでは適切な判断ができないため、完全に覚醒するまで普段通りモーニングルーティンを開始することにした。


未確認生物の彼がものを食べないことで消滅する可能性があるため、朝食はきちんと提供する。食パンに目玉焼きを乗せたのとコップ一杯の牛乳を用意して、折りたたみ式のテーブルを間に置き向かい合って食べた。


「青田さん、今日仕事は?」


「夜勤。日中は家にいられるから」


「そうなんだ、悪いね」


自分の面倒を見てもらうことに対してなのか、奴は申し訳なさそうに言った。朝起きた時に誰かがそばにいて、会話をするのは随分と久しぶりだった。社会人になって一人暮らしをしてから初めてではないだろうか。そういえば何年も実家に帰っていないなと気づかされてしまう。


「俺が代わりに行ったって役に立てないだろうな、医療の知識なんてこれっぽっちもないし」


「気を遣わなくて大丈夫」


時々どちらかが口を開いては少し会話をして沈黙、口を開いては少し会話をして沈黙を繰り返していく。私が私に話しかけるこの光景が続くと、だんだん頭が混乱してきてどっちが本当の私なのかわからなくなりそうだ。


悪いが、私の姿をしている間は部屋の壁に飾ってあった、戦隊ヒーローのお面を被ってもらうことにした。


「どこで買ったのこれ?」


「子どもの頃、夏祭りの時に屋台で買ったんだ」


私の家族とヒロの家族とで近所の夏祭りに遊びに行った時購入したもの。昔から断捨離が苦手な私は何でもかんでも取っておいてしまう癖があった。実家には山ほどガラクタがあるが、一人暮らしを始めた時、これだけは何となく持ってきていた。色が禿げたり形が少し悪くなったりしている。


「物持ちがいいんだね」


お面を着けた奴はどことなく嬉しそうに鏡を見ていた。これで少しは判別がつくようになる。


「それで、お前はこれからどうするつもりなの? 私は仕事があるし、ずっと傍で見張っているわけにはいかないんだ」


「とりあえず自分が何者なのか、ヒントになりそうなものを探してみるよ。あとは、俺も仕事をやらないとな。あんたの世話になりっぱなしじゃ悪いし」


極力僕に迷惑をかけないのは良い心がけだが、その姿で外をうろつかれるのは大迷惑だ。とにかく、明日の朝までは部屋から出ずに探しものをしてもらわなくちゃいけない。


そこで私はパソコンを貸してやった。頭に浮かんだ文字をインターネットで調べれば、一つくらいヒントが得られるかもしれない。


すると、一度操作方法を教えただけで奴は容易に検索を始めた。そして画面に釘付けになり、夕方になって私が声をかけるまで集中力が途絶えることはなかった。


「もう仕事の時間? 行ってらっしゃい青田さん」


夜勤に出かける前に簡単な夕食を準備したが、また彼はパソコンとにらめっこを再開したので、私の話を聞いていたかはわからない。


一刻も早く自分が何者なのかを知りたくてたまらないといった感じ。


私に何の役割があるのかさっぱりだ。食と住を確保してやるだけで他にできそうなことはないように思う。


あとは本人に頑張ってもらうしかない。



真夜中。私は暗い病棟の廊下を歩いていた。あちこちで鳴り響く機器音、ナースコールの音。聞くのは慣れてはいるがとても好きにはなれない。疲れているのか頭がぼうっとしている。仕事だからしっかりしないといけないのに。しかし、何のためにどこへ向かっているのかわからなかった。


早く現場に戻らなくてはと考えていると、先に明かりが見えた。ナースステーションだ。表情の乏しい女の看護師に声をかけられ、手招きされるままにとある4床部屋の病室に着いた。四床全てのカーテンが閉められていて、看護師はそのうちの一床のカーテンを開けた。


ベッドの布団が盛り上がっている。咄嗟にご遺体なのだとわかった。顔に白い布を被っていて、ぴくりとも動かない。もうすでにこの世にはいない、亡骸を残して旅立ってしまった人なのだ。


この場面に直面する度、私もいつかこんな風に誰かに身体を清めてもらって、耳や鼻に綿を入れてもらって、白装束を着せてもらって、合掌してもらう日が来るのだと考えさせられる。


まだまだ先のことではある、んだろうけれど。


一体この人は誰なのだろう。なぜ私はここに招かれたのか。そう思ってご遺体に触れてみた。その際、顔に被った布がはらりと落ちてしまった。


いけない、悪霊が入ってしまう。咄嗟に思ったのがそれだった。


ご遺体には悪霊が取り憑きやすくて、取り憑くと成仏できなくなるという話を聞いたことがあった。顔に白い布を掛けたり、耳や鼻などに綿を詰めたりするのは悪霊から守るためらしい。この業界に入って初めて知ったことだ。


私は慌てて布をかけ直そうとする。しかしご遺体の顔を見た瞬間、手が止まった。


照明の下、白い顔で眠るように亡くなっているのは、ヒロだった。



「青田、おい! 仮眠時間過ぎてるぞ」


先輩の声に体が飛び跳ねて、危うくソファから転落するところだった。目を瞬かせながら壁にかけられた時計を見ると、休憩時間がすでに過ぎていた。


「ああっ! すいません」


私は謝罪しながら起き上がって、よろよろと休憩室から出ようとする。あまりに酷い悪夢にまだ動悸していた。


「友達が亡くなってからぼんやりしてるな。本調子じゃないなら休暇を取った方がいいんじゃないのか?」


その口調や表情のは労いのようにもとらえられたし、お前など現場にいなくてもやっていけると呆れているようにもとらえられた。私は涎を手の甲で拭き取ってから、軽く頭を下げて休憩室を出た。


ここ数日落ち着かないためか、神経がピリピリしている。だから誰かにかけられた言葉にいちいち猜疑心が生まれるのだ。


身も心も休養が必要なのはわかるが、珍客の事情を解決しないことには家に帰っても安息はなさそうだ。




昼前頃にようやく家へ着く。毎度のことながらこの頃には目が3の字になっていて、周りが霞んで見えるし意識も半分しか保っていない。何も食べずシャワーを浴びて全身を清潔にしてからベッドに入るのが通常だ。


「おかえり青田さん」


ドアを開けて声の主の姿を見て、一気に覚醒した。私は無言でそのままドアを閉めようとする。


「おいおい、また仕事に行くつもりか? 話を聞けって」


未確認生物が次に姿を変えたのは、犬だった。それも可愛らしい真っ白な柴犬。昨日渡したお面は背負ってお飾りにされている。その様がまたあざといのなんの。


目眩がする。なんだって今度は犬になったんだ。


奴は興奮した様子で、すっかり脱力した私のズボンに噛み付いてはずるずると部屋の中へ導いていく。


「俺にぴったりな仕事があった。こいつを見てくれ」


奴が湿った鼻先で示す方を寝ぼけ眼で見た。パソコンの画面には犬を探していますと大きな文字で書かれた、ペット捜索チラシが表示されていた。そこには雌の柴犬の写真が載っている。どうやらこいつは今日の最初にこの柴犬の写真を見たことによって、姿を変えたようだ。生き物を直接的に見るだけじゃなく、写真で間接的に見るのも有効らしい。徹夜でパソコンをいじっていたが、0時以降に犬となってしまったおかげでマウスやキーボードが上手く使えず、パソコン操作を断念したらしい。


「市内のホームページからリンクされたやつだな。何だってこんなものを・・・・・・」


「これ、もう五年も前のやつでどうも犬が見つかった様子はないんだ。こりゃあ、相当大事にされていたらしいぜ。でね、俺が考えたのはこうしていなくなった奴に姿を変えて、悲しんでいる人の所に行って慰めてやるんだよ。どう? これって俺にしかできないんじゃない?」


らんらんと目を輝かせて打ち明けた発想に、正直賛同したくはなかった。


「ようするに本物のふりをして会いに行くってことは、相手を騙していることになる。嘘で人を喜ばせるのは、どうなんだろう」


「そりゃ時と場合によるから仕方ないよ。大体この提案はさ、青田さんの話からヒントをもらったんだぜ」


渋い顔をしている私を見兼ねて、奴はそう言った。


「何か言ったっけ?」


「死者に会いたい人は、この世にたくさんいるんだって言っただろ。それが動物だろうがなんだろうが一緒だ。いなくなって二度と会えない奴の姿になれるのって、俺にしかできない。青田さんの話を聞いていると、ちゃんと別れられた人はこの世にどのくらいいるんだろうって思うんだ。代替えでもいい、俺が誰かの想う相手になって、ちゃんと踏ん切りつかせてやりたい。一日一回の制限があっても誰かのために俺ができることをやる、それがささやかな存在意義になるんだよ。・・・・・・報酬はもらえないけど。せめて、自分が、何者なのかわかるまでやってみたい」


ふざけがちな彼は似合わず真面目な顔つきをしている。犬だけど、その真剣さは伝わってきた。


自分が何者なのかわからず、いわばあやふやな存在と自覚しているから、不安で仕方がないのだろう。


このつぶらな瞳をした犬を見ていると、あのやりとりを思い出す。


あれは、中学二年の頃だったか。


いつも休み時間には誰かと喋るヒロが、珍しく席で塞ぎ込んでいる時があった。やかましい奴が黙っていると静かでいいなというクラスメイトのちょっかいにも反応しない。相当まいっていた。


飼っていた雄のチワワが老衰で死んだらしく、それでひどく落ち込んでいたのだ。ヒロは休み時間の度に犬の写真を眺めてはため息をついた。だから私は休み時間の度にヒロの席に行っては、横で棒立ちしていて、どう慰めようか考えているうちに授業が始まるというのを繰り返していた。


放課後になっても席から離れず、写真を見てため息をついているものだから、耐えきれなくなった私は教科書で思いっきり頭を引っぱたいてやった。


「何すんだよ!」


その日初めてヒロが発した言葉がそれだった。昨夜泣いたのか、よく見るとまぶたが浮腫んで声も枯れている。さすがに痛みには反応してくれて良かった。


「いつまで湿っぽい空気でいるんだよ。死んだものは仕方ないだろ」


「お前は生き物を飼ったことがないから死に別れの辛さを知らないんだ」


「確かにペットは飼ったことがないけど、別れは辛いだろうなってのはなんとなくわかるよ。一昨年ばあちゃんが病気をして死にかけたんだ。今はピンピンしてるけど」


「お前、ばあちゃんを飼っているのか?」


「阿呆か」


ボケができるくらいには活気があるようで安心する。


「わん吉と俺は以心伝心だったんだ。みんな信じていなかったけど、俺はあいつと話ができたんだよ」


「犬が喋ると言いたいのか?」


噂の厨二病を発症したのかとつい鼻で笑ってしまう。


「ちっちっち、わかってないな。実際には喋るわけないけど何を伝えたがっているのかは鳴き声や行動でわかるんだ。人間だってそうだろう?」


「じゃあ私が何を伝えたいのか当ててごらん」


私は腹に両手を当ててしかめっ面をして見せる。


「わかった、賞味期限が切れたアイスクリームを食って腹を下しただ!」


「違う、腹が減って死にそうだ、でした」


「そんなんわかるか!」


ヒロは私の頭をぺしっと叩く。これでいつものヒロに元通りだ。でも完全に悲しみを拭い取れてはおらず、学校の帰り道や遊んでいる時に他所の犬を見かけると、ふうとため息を吐いていた。


「また犬を飼えばいいじゃないか」


憂鬱な気分がいつまでも伝染してくるのに耐えられず、そう提案してみる。しかしヒロは一生動物を飼わないと言い放った。二度も三度も別れの悲しみを経験したら、寿命が縮んでしまうからだそうだ。


「いいんだ、俺が死んだらまたわん吉と会えるから」


死後の世界がある根拠もないのにと思ったが、口には出さないでおいた。せっかく前向きになりつつあるのに、興ざめさせるようなことを言ったら傷つけてしまう。


「そうだな、また天国で会えるさ」


この時の私はまだ何者との別れを経験していなかった。しかしヒロに先越された中で最も羨ましいと思わなかった事柄だ。


別れの数だけ強くなるとしたら、私はたくさん別れを経験すべきなのだろうかとこの時思った。


大人になった私はたくさんの別れに出会った。人と人との別れの間に立って、何十リットルもの悲しみを浴びてきた。結果、ちっとも強くはならなかった。



「お前がこれからやろうとしているのは、グリーフケアになるのかな」


「何だ? そのぐりーふけあって?」


「グリーフは深い悲しみや悲痛のこと、それをケア、つまり世話することだよ。遺族ケアとか悲嘆ケアとか言われる」


「青田さんも仕事でやってるのか?」


「時々ね。でも一筋縄じゃいかないよ。やり方を間違えたら相手を傷つけることもあるし、もちろん自分も傷つくこともある。その責任と覚悟があるなら、私も手伝ってやってもいい」


「ああ、もちろんだ。ありがとう」


奴はしっぽを振って右の前足を何度もあげる仕草をした。お手、というより握手を求めているらしいので、私はしゃがんで足を握った。ぐにゅりと柔らかい肉球の感触に思わず癒されてしまう。


いつまでも「お前」と呼ぶのもやりずらいので名前を考えなくちゃいけない。


「カフカはどう? 変身でネットを調べてみたらフランツ・カフカというチェコのドイツ語作家が出てきた」


その変身という小説は、朝目覚めると巨大な毒虫になった青年の不条理を描いた話らしい。あらすじを読むとちょっと面白そうな海外文学だ。


「日本っぽくないのが嫌なら変身太郎や変態仮面でもいいけど」


「謹んで断る。カフカでいいよ」


そして私が奴の活動を手伝うにあたり、一つ条件を与えた。


それは、何があっても絶対に白澤時大の姿にはならないこと。


少しずつ奴の死を受け入れられるようになってきた。そこに姿を見せられたら、また振り出しに戻ってしまう。二度と死を受け入れられる気がしない。偽物でもかまわないと、未練がましくしがみつくに決まっている。そうなれば完全に私の心が壊れる。


「私みたいに死者と会いたくない人間もいることを念頭に置かなくちゃいけない。白澤時大との別れは一度きりで勘弁してほしいんだ。たとえ偽物だろうが、もう体験したくないから。だから、何かのきっかけで奴の姿を知ったとしても、絶対にコピーしないでくれ」


「わかったよ、それが青田さんにとってのグリーフケアなら、俺は絶対に白澤時大にはならない」


もう一度肉球に触れる。いつか彼の目的が果たされて、私の元を去る日がくるまでの期間。何とも言えない関係が結ばれた。


「とりあえずその柴犬の飼い主にコンタクトを取らないとな。信じてもらえるかわからないけど、いつでも会えるようにしばらくそのままの姿でいた方がいい」


「その前に、青田さん。最初の協力なんだけど、俺をトイレに行かせてくれないか」


犬になったカフカはドアを開けることができず、ずっと何時間も排泄を我慢していたらしい。体中をぶるぶる震わせて限界を突破しそうな顔をしている。




まずカフカに協力する行動は、トイレのドアを開けることと、部屋中に散らばった犬の毛を掃除するところから始まった。


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