七色のカフカ

弐月一録

青一色

大体の人間が「嘘」という罪を犯しているのではないだろうかと思う。


それは誰かを傷つけるためか、それとも傷つけないためか。


弱い私は自分がこれ以上傷つかないために、自分自身に嘘をついてしまった。


あいつが帰ってくるわけないと。


帰ってきたら、また別れという嫌な思いをしなくてはいけないから。


大事な人との今生の別れなんて一度きりで勘弁してほしかったんだ。



白澤時大しろさわときひろ、通称ヒロとはおむつを履いていた頃から一緒にいた。


同じ時代に同じ町で生まれ、同じ保育所に預けられ、そこから高校まで同じ空間の中で生きてきたのだ。


初めて話したきっかけは忘れたがなぜかウマが合って、常に一緒にいるのが当たり前になっていた。男か女かなど関係ないくらい仲が良かったのだ。


でも、成長の速度は異なるものだった。あいつは何でも私の前にいて、先に二足歩行で歩き、先に言葉を覚え、先に身長が伸びた。それは個性と、避けようのない性差。私も男だったらあいつみたいにぐんと背伸びできたのかもしれない。


私はあいつの一歩、二歩どころか遥か彼方後ろにいた。動物に例えるなら私はカタツムリであいつは豹。何かと腐れ縁の私達は幼なじみであり親友という間柄。しかし、ライバルにはなれない。何を競い合ったとしてもやる前からすでに勝敗が決まっているからだ。


頭の良さ、運動神経の良さ、顔の良さ、身長の高さ。気づけば全部あいつが勝って地球一周分程の差が開いてしまった。一緒にいることが申し訳ないと思えるくらい惨めになった。


小学校高学年になった時、私とあいつはそれぞれグループに属した。私は地味で暗い少数の女仲間と、あいつは派手で明るい方大勢の男仲間と過ごした。自分と対等である存在と磁石のようにくっついて群れる、この現象は自然の摂理といえる。


それでもヒロは、まめに私へ声をかけてくる。以前と変わらず休日は二人で遊び、時々昼食を一緒に食べながらお喋りをすることもあった。


ただ純粋に楽しく満たされていたのに。



「時大とあいつが仲良いなんて似合わねえな。好きなのか?」


ヒロのグループの1人が鼻で笑いながら言っているのを聞いた。人気者と平凡女とでは釣り合わないとでも言いたいのだろう。それもわざわざ聞こえるように。どういう心境か、ヒロは困ったように笑っていたのが少しショックだった。


うるせえよ、ただの腐れ縁だよ。外部は引っ込めよ。などと乱暴な言葉は口から発することなく、喉元から食道を落下し、胃袋に辿り着いては胃酸で溶けていった。いくら一緒にいる時間が長かったとして独り占めする権利はない、だから言いたいだけ言わせてやった。それからだったか、「女」として見られるのがすごく嫌で、好きなのか彼女なのかと周囲が面白半分でヒロに聞いているのが嫌で、ヒロを好きな女子から睨まれるのが嫌で、ずっと髪を短くして男っぽい服装で過ごしてきた。



進学に就職に、年々ヒロと絡む時間は減っていったが、成人して社会人になってからも時々私達は二人で遊んだ。二十五歳の時にヒロは高校の同級生の女の子と結婚して、翌年には父親になる。家族を養わなくちゃいけない分私と会う時間は尚更減った。


私はといえば仕事と家を行き来するばかりの毎日で、華やかさの欠片もなくだらだらと過ごしていた。親に早く結婚しろだの、孫の顔を見せろだのと急かされても無視をして、漫画やアニメやゲームといった二次元世界に夢中となっていたのだ。


「人に言われたからってそんなに生き急ぐことはないぞ。何でもかんでも早いからいいってもんじゃないだろ」


ローンで建てた、新築で綺麗な家へ遊びに行った時、ヒロは生まれて間もない娘をあやしながら余裕ぶってそう言った。随分な上から目線だったが仕方ない。平等に与えられた時間でも、経験値が違う。実の中身が詰まっているのとすっからかんでは比べ物にならない、まさにヒロは人生の先輩。敬語を使うべきなのかもしれない。


「そうだね、こっちはのんびりやらせてもらうよ。早死はしたくないからね」


結婚とか子育てとか、誰かの面倒を見る自信は私にはなかった。自分の面倒で充分苦労しているからだ。自分をどうやったら幸せにできるのか考えるだけでいっぱいいっぱいなのだ。


「君は遊ぶ暇もないくらいあくせく働いて稼ぎたまえ。こっちは独身を謳歌してやる。ヒャッハー!」


「まー、少年っぽいお前を女として見てくれる男が現れればいいんだがなぁ」



悪態ついた時のヒロの憐れむような目。強がりを言ったのだとばれていたのだろう。


私はカタツムリ、ヒロは豹。歳をとったらたぶん、私よりも先にあいつが死んでしまうのではないかなと思う。何でも先を行く奴だから、きっとそうなんだろうと、真っ黒な腹の底で考えていた。なんにも適わないけど、せめて生きている長さくらいは勝ちたいもんだ。


そして、予想は的中した。でもこれではハイスピードだ。豹どころか、光の速さで決別の日がきてしまった。


ある年の初夏、ヒロは二十七歳というあまりにも若すぎる死を遂げたのだ。


そういえばヒロは昔、遺影でイエイ!などというくだらないジョークを言いながらピースをしていた。自分が死んだら、ピースをした写真を遺影に使ってほしいとふざけていたのが妙に懐かしい。


生憎、あいつの葬式で使われたのは履歴書で使う証明写真のようで、少し微笑んだくらいのキリッとした真面目な顔だった。不自然過ぎて気持ちが悪かった。こんな表情は死ぬほど似合わない。死んでいるけど。しかもあれは成人式に撮ったもので、確か右隣には私がいた。ちょっと横にスライドさせれば、遺影は私だったかと思うと複雑な気持ちになる。


「不生不滅。不垢不浄。不増不減」


お坊さんのお経が延々と流れる。目の前には喪服を着た人達が地蔵みたいにずらりと並んでいた。同級生も大勢いたが、ろくに会話はしなかった。人気者を突然失って皆ショックが大きいのだろう。私は後ろの方にいて、つまらない遺影を眺めながら焼香の順番を待っていた。黒い海を漂っているような、陰湿な空間だった。


あいつの死因は、クモ膜下出血と聞いた。夜中に激く頭を痛がって、食べたものを吐いて意識を失ったそうだ。奥さんが救急車を呼んで病院に搬送されて速やかに治療が始まったが、だめだった。


次の日の早朝に、訃報の連絡をしてきた奥さんは疲弊した様子だった。夫が苦しむ様を見た上に、死に顔まで見たのだからその心労は計り知れない。


「え、ああ・・・・・・。そうなん、ですか」


その時の私の反応は軽薄と捉えられても仕方がない。


でも許してほしい。これは、宝くじで一億当たったとか、趣味で書いていた小説が大賞を取ったとか、極めて有り得ない現実を目の当たりにした時と同じ反応なのだ。それに寝起きであったし、寝ぼけ頭では情報処理が追いつかなかった。


人でなしと怒鳴られてもおかしくないのに、奥さんは静かに電話を切った。私は仕事を休んで、身だしなみなど一切構わずに外へ出て車を走らせた。ローンで建てたあの新築の家にとにかく急いだ。息を切らしながら人様の家の中へ飛び込み、畳部屋の真ん中で、真っ白な衣装を着て眠っているヒロと再会したのだ。


クモ膜下出血は二十パーセントが後遺障害を残し、三十パーセントが後遺症なく生活でき、五十パーセントは死亡する。ヒロは一番確率の高いものに当たってしまった。


気の毒なのは、あいつが痛みを感じながら意識を失い、逝ってしまったこと。


ささくれを抜いただけで涙目にやるような、痛みにはめっぽう弱いタイプの人間だ。だから、最期の最期に苦しんだのは文字通り胸が張り裂ける思いだ。


それに、奥さんと幼い子を残して。あいつは、成仏できるのか。私があいつの立場ならば未練だらけで死んでも死にきれない。


自分が最期を迎える時には、ゆっくり時間をかけて自分を眺めたいと言っていた。


頭の先から爪先まで満遍なく眺めては古傷を見つけて、ああ、これはあの時できたものだって懐かしみながら死にたい。


そんな願いも永久に叶わなくなったわけだ。


通夜から現在に至る葬式にかけて現実味がなかった。ほとんど無意識で、何者かに操られているように行動していた。まるで白昼夢の中にいて、ふわふわ宙に浮いた感覚。誰かに頬を平手打ちされたら目が覚めるかもしれない。


ばちーん!


朦朧とした意識を取り戻したのは、左頬に走る激痛。目の前には顔を真っ赤にしたハゲのおじさんがいる。どうやらこの人に打たれたらしい。


____あれ? 私は何をしていたんだっけ?


見知らぬおじさんに打たれなくちゃならない原因を思い出そうとする。周囲の人間が驚愕の眼差しを向ける中、ヒロの娘の彩巴ちゃんを抱いた奥さんと目が合った。


____あ、ゆきちゃん。・・・・・・どうして皆こっちを見ているんだ。


事の発端を完全に思い出し、一気に血の気が引いた。ヒロの火葬を待つ間、葬儀の参列者は待合室で昼食を取っていて、そしたらこのおじさんがヒロの悪口を言うのが聞こえた。倒れたのは酒や煙草をやっていたせいじゃないのか、不摂生が招いたからじゃないか、残された嫁と子を自分の息子に紹介してやろうか。思い出しても胸糞悪いこと。だから無意識に私はおじさんの胸ぐらを掴み、激怒した。


「ヒロは酒も煙草もやんねがった! それにゆきちゃんと子どもがおめんとこさ嫁ぐわけねぇべ! ちっとは言葉に気いつけろ、このおんつぁげす!」


怒りに任せて飛び出したのは祖母が住んでいる地域の方言だった。腸が煮えくり返ってインスタントラーメンができそうだった。それでおじさんは顔を真っ赤にして私を打った、これが経緯だ。


いざ、我に返ってみればとんでもないことをやらかしたと後悔する。ヒロと遺族との別れの時間だったのに、それを台無しにしてしまった。


私は一方的におじさんに謝罪し、お札を数枚渡してその場を去った。とてもじゃないが、これ以上この場にはいられない。


屋外に出ると、煙突から灰色の煙が空に向かって流れていくのが見えた。


煙突の下でヒロの体が燃えている。少し大きめの涙ボクロも、鬼ごっこで転んだ時右膝にできた傷跡も、この世からあいつが消えてしまう。残るのは生きていた痕跡のみ。二十七歳で時が止まってしまったから、これからは必然的に私だけが先へ進む。あいつよりずっと年上のおばさんになってしまう。こんな形で、カタツムリが豹を追い越す日がくるとは思いもしなかった。


「ごめんな、最後までいられなくて。お前の悪口を言われるの、我慢できなかったんだよ。お前に悪態ついていいのは、私だけだろ」


夏場は、腐敗するのが早い。暑い時期じゃなかったら体はもう少しこの世にいられたのかもしれない。人が本当に死ぬのって、体が完全にこの世からなくなった時じゃないのかと思う。


棺桶を覗いたはずだが、どうも死に顔を思い出せない。授業中に居眠りをしていた時の顔みたいに安らかだったのか。あいつは教師にペン先で頭をつつかれたら驚いて飛び起きたことがあった。そしてクラス中から笑われた。遺体の頭をつついたらもしかすると、生き返って飛び起きたかも。そしたら参列者全員で笑ってやるのに。そんなくだらないことを考えて額の汗を手のひらで拭いた。


四方八方から蝉の声がする。蝉の声は、あいつのやかましい笑い声を連想させる。


頭のてっぺんから汗が吹き出て、茹で上がったたこみたいになった。打たれた頬が特に熱を帯びている。


このまま地面に溶けて蒸気になったら、あの煙と一緒に天へ登っていけるだろうか。


雲が一切ない、目が痛くなるほどの青空は何だかもの寂しい気がした。


・・・・・・夏の暑さのせいで脳がやられているようだ。


これ以上いかれた妄想はやめて、しばらく煙を眺めてから私は背を丸めて独り帰路を辿った。


この世界から1人の人間がいなくなったことに対して実感も、おまけに食欲も湧かなかった。ただ、何もせずじっとしていると無性に虚しさが込み上げてきて、どうしようもなくなる。それはたまらなく苦痛だった。何かに夢中になって気を紛らわせれば、この苦痛をほんの一時忘れられるだろうが、精も根も尽きかけている私にできることは限られていた。


ヒロはこの世界を動かすために必要な、大それた歯車的存在ではない。至って普通の人間だ。だからあいつがいなくなった世界はいつもと変わらず回っている。


すでにあいつよりも三日長生きしているが、とても勝ち誇ったという気にはなれない。どちらが長生きするかなど今となってはどうでもいいことだ。そんなくだらないことで勝敗をつけようなどと不謹慎だった。


騒ぎを起こして早々に帰ったのは正解だった。人と悲しみを共有するより独りでいた方がずっと楽だ。


食欲がないとはいえ、何か口にしなければますます気が滅入る。冷蔵庫の中は私の心のように空っぽだった。夕飯は適当なものを買って、早めに横になって休もう。あと頬に当てる氷枕も買っておかないといけない。


線香と焦げた匂いが付いた服を纏って店で買い物をするのは嫌なので、一旦家に帰って着替えてから再度出かけることにした。


楽な格好になって財布とスマートフォンだけを持ち、気力だけで体を動かして玄関を出る。が、すぐに後ずさる。


ガチャリとドアを開ければ、なぜかそこには全身鏡が置いてあるではないか。一瞬人が立っているのかと思って身を構えたのが恥ずかしい。きっと同じ階に住むアパートの住民が置いたのだろう。


粗大ゴミか。何も私の部屋の前に置くことないじゃないか、そう苛立った。


しかし、鏡に映る自分の姿に違和感があった。帰ってTシャツとジーパンに着替えたはずなのに、鏡の私はまだ喪服を着ている。


一体、どういうことだ。


何度も自分の体と鏡を見比べた。


「・・・・・・あの」


「うわあっ!」


突然、鏡の私が口を動かして喋り出した。いよいよ私はパニックになり部屋に駆け込んでドアの鍵を閉めた。


心臓が喉の辺りまで飛び上がった気がする。手足が震えて冷たくなり、やや過呼吸気味でやっと立っている状態だ。


息を整えていると、次第に冷静になってくる。この世にはそっくりさんが三人はいると言われている。私のような素朴で面白みのない顔ならもっといてもおかしくない。もしかしたら、今いた人はその1人なのかもしれない。そうだったら、顔を見て逃げ出すという失礼なことをしたことになる。


ドアスコープを覗くと、まだその人は立っていた。本当によく似ている。相手も驚いているはずだ。でも、私に何の用があるのだ。実は生き別れた双子ですと言われたら洒落にならない。


恐る恐るドアを半分開けた。


「な・・・・・・何でしょうか?」


「あ・・・•••ごめんなさい、実は困っていることがあって、あんたなら知っているかと思ってついてきたんだ」


ついてきた? そういえば、火葬場から帰宅するまでなんとなく誰かの視線を感じていた。気のせいとは思っていたが、まさか後をつけられていたなんて。しかも見た目だけじゃなくて声も似ている。


「い、一体何を困ってるんです? 恐らく私は、何も知らない」


「自分でも何が何だかさっぱりなんだよ。高い場所から見下ろすとあんたが見えて、それで、気がついたら地面に立ってたんだ。どうしたらいいかわからなくて、あんたを頼るしかなくて、ついてきちゃった」


私は再びドアを閉めて鍵かけた。部屋の中に逃げて正解だった。


こいつは怪しすぎる。得体の知れない相手に背筋が凍り、腫れて熱を帯びていた頬もすっかり冷えた。おかげで氷枕代が浮く、などと呑気なことを考えている場合じゃない。


「助けてくれないか? 何もかもわからなくておかしくなりそうなんだよ!」


もうおかしくなっているだろうに。いよいよ相手はドアを力任せに開けようとした。私は汗だくの手でスマートフォンを握りしめる。危険な目にあう前に、いっそ警察に連絡した方がいい。


指先が震えながら110番を押した。不審な奴が家の前で暴れているといえばすぐに飛んできてくれるはず。加害者と被害者が瓜二つで、どんな反応をされるのか心配だがやむを得ない。メディアで面白おかしく取り上げられたってこの際構わない。命には変えられない。


スマートフォンを耳に当てた瞬間、相手は切羽詰まった声でとんでもないことを口走った。


「白澤時大って名前を知らないか? 俺が覚えているのはそれだけなんだよ!」



これが幼なじみで親友との再会だと認めることになるのは、もっとずっと後のことである。











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