浅葱色を辿って




人類は皆平等であるのは間違っている。平等だったら限りある命の時間の長さが人によってバラバラなはずがない。



神様が一体どんなつもりで個々に時間の設定を作ったのかはわからない。



百年生きる人、生まれてすぐ死ぬ人。私はたくさん見てきた。さっきまでここに「居た」人が、瞬きをする間にいなくなってしまう空虚感に何度苦しめられたか知れない。



何度体験しても永久に慣れることはない道。老若男女、善人も悪人も平等に手助けする仕事を選んだのは心から憧れる人と出会ったからだった。


「そこの子! 急いで大人を呼んできて!」


あの人はまだ小学三年生の私にそう叫んだ。長い髪をポニーテールに結った、キリッとした顔の女の人。


下校途中、友人と別れたばかりの時に遭遇した交通事故。自動車が電柱に突っ込んでいて、道路にはおじいさんが頭から血を流して仰向けに倒れている。あの人はおじいさんの胸を何度も両手で押していた。


おじいさんが運転操作を誤って電柱にぶつかったらしかった。その衝撃で意識を失い、呼吸が止まってしまったのだ。


住宅街から少し離れた田園地帯。私とあの人以外、他に誰もいない。緊迫した場面で私はただ汗だくで立ち尽くしていた。


「救急車が来るまで時間がかかる! 大人に事故のことを伝えて応援に来てほしいの! お願い!」


バクバクと太鼓の音が大きく聞こえてきたと思ったら、私の心臓がやかましく鳴っている音だった。おじいさんの青白い顔と頭から流れる赤い血が恐ろしくてたまらなかった。初めて人が死にそうになっているのを目にして震えた。


動けずにいる私にあの人の言葉が響く。


「君だからこの人を助けられるの!」


声は、運動会で鳴るピストルみたいだった。それを合図に私はランドセルを放り投げて住宅街へと全力で走った。靴紐が解けて走りずらくなったから途中から裸足で走った。


息が絶え絶えになりながら二百メートルほど走って、畑仕事をしているおじさん達に助けを求めた。


「公民館からAED借りてくる!」


「救急箱! 包帯あったか?」


「クリニックの医者呼んでこい!」


怒涛の勢いで会話が繰り広げられ、結果的に私は10人もの大人を事故現場へと誘導することに成功した。


尚もあの人は息を荒らげながら心肺蘇生を続けていた。感動で打ち震えるほど、その姿はかっこよかった。あの人の汗は海面が反射した光に煌めくような、そんな美しさがあって思わず目を奪われてしまう。


戦隊ヒーローものは大好きだったけど、これほど私もこうなりたいって気持ちになったことはなかった。この出来事が私の未来を確定させた。


救急車に運ばれた後おじいさんがどうなったのかはわからない。あの人と会ったのもそれっきりで名前も知らない。


救急車を見送ってからあの人が去り際に私にくれた言葉は今でもよく覚えている。


「ありがとう、とてもかっこよかったよ」


「お姉さんは、何をしている人なの?」


「看護師だよ。仕事に行くところで事故を見たんだ」


「かんごし⋯⋯」


「自分や大事な人が具合い悪くなった時すぐ対処できるからいい仕事なんだよ。興味があったら調べてみてね」


あの人は私の頭を優しく撫でてから車に乗った。一人っ子の私に姉がいたら、きっとこんな風なのかなとか、手のひらは熱くて、太陽に照らされているのと似た暖かさだなとか、とにかく強い憧れを持った。


「今日の勇気に自信を持ってほしい。君の立派な行動は人の命を繋いでくれたんだよ。またどこかで会えたらいいね。それじゃあね」


生まれて二十七年、最ももらって嬉しかった言葉がこれである。


命を繋ぐ担い手として私は看護師を志した。家族や親戚達は病気のことで悩みがあれば私を頼ってきた。我ながら誇らしいと思った。


勤務時間に人が亡くなることが続いた時があった。よく急変が当たるねと悪気ない一言がすごく腹立たしかった。私は疫病神かよってね。


先輩に愚痴を言ったら「あなたがいる時を選んで最期を迎えているんじゃないかな」と励まされて嬉しかった。その人の魂が、命尽きる瞬間を私に見てほしいと思っているのか、と。


最期に、私の顔を目に焼き付けて旅立った人は何人もいた。亡くなった人の名前、顔は全員覚えている。


やり甲斐はあるが、虚しさに私自身が殺されそうになることもある。例えば小さな女の子が運ばれてきて命を引き取った時、消滅してしまったこの子のあるはずだった未来を想像して吐いた。


大人になって好きな人と結ばれて家族になる。やがて親になって子ができて孫ができていたのかもしれない。


この世には「居なかったかもしれない人」と「居たかもしれない人」で溢れている。ただ人が当たり前に歩いている姿でさえも崇敬すべきことじゃないかと思う。



最近までこの世界に「居た」ヒロ。一人がいなくなるというのは、これからあるはずだった数多の命が生まれなくなるということ。奴がこの先生きていれば、きっと新しい命がいくつもあっただろう。


ヒロ。


一緒に過ごした時間は瞬きをする間に通り過ぎて、別れの言葉を交わすことなくいなくなりやがって。


しかし大切な人と別れの言葉を交わせるなんてほんのひと握りの贅沢で、それが叶わなかった人などこの世にごまんといる。私はその内の一人に過ぎない。


死人に口なし。文句をたらたら言っても本人には届かない。


輪廻転生ってものが本当にあったとして、またヒロと幼なじみで親友をやるのはごめんだ。生まれ変わった世界でもまた奴が先に死んで、またこんな苦しい思いをしなければならないんだったら、もう巡り合わない方がずっといい。



そう心に秘めていたが、案外早くに巡り会ってしまった。しかも同じ世界の中で、再び。



「それでは、我々の輝かしい未来と、発展と、健勝を祈って! かんぱーい!」


グラスがぶつかり合う音を聞き終えてから、アルコールを口の中へと注ぐ。


小学校時代の旧友二人と三年振りに飲み会をすることになった。二人とも結婚して子育てに忙しくなかなかこうして会う機会がなかった。


「旦那は嫌がってたけど、たまには私抜きで子どもの世話してもらわないとね。たったの二時間だけだしバチは当たらないでしょお」


肌が白くてふくよかなサッちゃんは、もうアルコールが回って顔が赤くなっている。


「うちの子はもう小学生だからだいぶ手がかからなくなったよ。親離れだか反抗期だか、生意気でさー」


八重歯を見せて笑うノリちゃんは五分に一度は眼鏡の位置を小指で直している。


二人とも見た目や癖は昔から変わらない。変わったのは誰かの親になったこと。しばらく旦那や姑や子どもの話題が飛び交い、私は聞き手役となってひたすらアルコールを飲んだ。


「美空ちゃんは良い人いないの? 看護師ならお医者さんとお付き合いできそうだけどお」


はい、きた。悪意のない質問。サッちゃんは唐揚げを頬張りながら期待の眼差しを送ってくる。


「いないいない。彼氏も作ったことないしね。仕事一筋なの」


わぁっと歓声の声があがる。専業主婦の二人からしてみれば、キャリアウーマンの私がカッコよくて羨ましいとのことだった。


二十四時間飲まず食わず寝ずの生活がしばしばあることは、二人の夢を壊してしまうので黙っていよう。今日も夜勤明けで寝ずに飲み会へ来ているし。


「でもさ、白澤君と美空ちゃんてお似合いだったよね」


ノリちゃんの発言で口に含んだカシスオレンジを吹き出した。それにサッちゃんは激しく同意した。


「いつもくっ付いていたしね! どちらかといえば、白澤君が美空ちゃんを好きだったように見えたよお」


「ちょっとちょっと、それはないでしょ。嫁さんだって私のタイプと真逆だし」


「でもさ、美空ちゃんを幸せにするのは白澤君だと思ってたんだけどな。あんなに早く、ね」


わいわい盛り上がっていたのが急にしんとなった。


ヒロは交友関係が広かった。そのため訃報は人づてであっという間に知れ渡り、二人の耳にも届いていたのだ。


せっかくの楽しい飲み会が、奴のせいでしんみりしてしまった。私は場を盛り上げようとハイテンションになる。


「まぁまぁ、死んだものは仕方ないよ。今頃あいつは転生してハッピーだよ。元気でやってるから心配したり悲しんだりしなくていいでしょ」


二人はきょとんとして顔を見合わせる。そしてプッと笑い出してノリちゃんが言った。


「やーだ、美空ちゃん。まるで白澤君がどこにいるのかわかってるみたいじゃん」


「違う違う、あくまで想像の話!」


「良かったよ、思ったより元気そうで。落ち込んでやつれていたらって心配してたから。そういやさ、あたし六月の上旬頃に白澤君を見かけた気がする」


六月上旬。ヒロが死んだ頃だ。


ぴたりと酔いが一瞬覚めて、私はノリちゃんの話に集中する。


「どこで見たの?」


「成人式で見た時の白澤君と変わらなかったから間違いないと思うんだけど、ほら、小学校の野外活動で植物を観察して記録するっていうのがあったじゃない? 最後にクラスの皆がもぐら神社で鬼ごっこしたの覚えてない?」


そう呼ばれていた神社があったような。正直うろ覚えでどこにあるのか定かではない。サッちゃんも覚えていないらしく首を傾げていた。


「あたしの実家の近くなんだよね。買い物帰りに近くを通ったら鳥居の前に白澤君が立っていたの。声をかけようとしたんだけど、彼階段をのぼって神社の方に歩いて行っちゃったのよね」


「独りで?」


「うん。周りに何の店もないし、あそこに用があって来たみたいだった」


ヒロは死ぬ数日前、そのもぐら神社に行っていた? 一体、何のために?


なぜか胸がざわついた。そこに行かなければならないという使命感に急かされている。


解散前に私はノリちゃんにもぐら神社の場所を教えてもらった。平常心があれば、わざわざタクシーなどを使わず真夜中に神社へ行こうなど危うい行動はしなかった。しかし、この時はアルコールで頭が馬鹿になっていて、体の疲れも麻痺していた。


車酔いしそうになり、窓を開けると潮の匂いがした。海辺が近いのだ。


火照った頬に海の匂いが混ざった冷たい風が当たると、まるで自分が海の中にいるみたいな気分になる。


やがて神社に着いて、運転手のおじさんに心配そうな顔をされながらフラフラと車を降りた。真夜中に女が暗い神社に行くなんて言ったら、そりゃ不審に思うだろう。


「だいじょーぶですよ。誰かと違って死にませんから」


へべれけになって運転手を安心させるためにそう言った。休みの日の前日にしか酒を飲めない私の体は、アルコールの耐性がついていなかった。


祖母を探しに出た夜中、蛙やただの山に怯えていたのが嘘みたいに、鼻歌をうたいなから鳥居をくぐって真っ暗な階段をあがっていく。茂みから何が出ようが全く怖くなかった。今なら熊にも勝てそうな気がした。



しかし、ノリちゃんの話が本当なら、ヒロはなぜここに来たのだろう。参拝者も来なそうな廃れた神社だ。パワースポット巡りなどするタイプでもないだろうに。


携帯のライトをつけて、当たりを散策しようとしたところで私はぴたりと足を止めた。背後から、ものすごい勢いで足音が近づいてくる。明らかに人ではないものが、階段を駆け上ってきている。


何だろう、あれは蹄の音みたいだ。


そして、巨大な影は私の頭上に覆い被さった。


「ぎゃあああああああああああああ!」


ライトを照らすと、それは馬だった。なぜ山の中に馬がいるのか不思議だ。アルコールはここまで幻覚を見せるのか。尻もちをついて口をパクパクさせていると、馬の方も口を開けた。


「青田っさんっ! ゼェ・・・・・・ゼェ・・・・・・。何でっ、タクシー乗って! こんなとこ来んの! ゼェッ・・・・・・。タクシー代もったいないからっ! 迎えに来いって・・・・・・言ったのっ・・・・・・青田さん、だろっ!」


馬の正体はカフカだった。いけない、すっかり忘れていた。今日はカフカを馬に変身させて飲み会の迎えに来てもらう約束をしていたんだった。


暴れん坊将軍みたいに乗馬して、夜の道路を颯爽と駆け抜けるのを楽しみにしていたのに。


時間通り居酒屋に迎えに来たカフカは、千鳥足でタクシーに乗り込む私を見つけて必死で追いかけて来たのだそうだ。


「道路交通法で、馬は軽車両扱いになってるから公道を走れるなんて言ってたのに、すごく人に見られたんだぞ。写真を撮られたかも」


「ごめんごめん、でも夜は照明灯をつけないとだめだって言ったじゃないか。びっくりさせやがって」


「馬が自分でつけられるか! そんなことより! 何しにここに来たんだよ?」


ブルルルルと鼻息を荒くした馬は前足で地団駄を踏んで蹄の音を立てた。


「お前には関係のない、くだらないことのために来ちゃったんだよ。結局、なーんもなさそうだ」


少し気分が悪くなって私は石段に腰をかけて、両手で顔を覆った。目を開けていても閉じていても真っ暗。死後の世界はこんな風なのだろうかと急に感傷的になった。


「関係ないってのはひどいじゃないか、人が心配して付いてきたってのに」


静寂にやかましい馬の声があるだけましか。


「そもそも人じゃないだろお前」


「何があったか知らないけど、八つ当たりみたいなのやめてくれよな。めんどくさい女になってるぞ」


「白澤時大が死ぬ前、ここに来たと聞いたんだ」


私の一言でカフカが一瞬たじろいだのがわかった。


頭がガンガンする。幼い頃ここにクラスの皆で来た記憶も曖昧で、奴が大人になってから再び訪れた理由が検討もつかない。


「めんどくさい女だよなー、いつまでも死んだ野郎のこと引きずって。今日は約束破って悪かった。しばらくしたらタクシー呼んで帰るから、先に家へ行っててくれ」


「黙っていたことがあるんだ」


低い声が頭から降ってくる。カフカは語りかけるようにゆっくり、静かに話し出した。


「こないだ青田さんのじいさんに化けて、ばあさんに口紅を渡した時、俺は昔、大事な人に指輪を渡したことを思い出したんだ。そりゃ、俺にあんなことさせちゃったら、嫌でも記憶を取り戻しちゃうよ」


ああ、嫌だ。言い返す台詞を早く考えなくちゃ。


「誰かに化けて抱きしめられる度、本当の家族に会いたくなった」


私はその家族が誰でどこにいるのか知っているよ。


「自分が何者なのかわかった。最初に思った通りだったんだよ」


お前なんかとは、最初から出会わなければ良かったって何度も思ったよ。


「青田さん、いや、ソラだって本当はもう随分前から気づいてるんだ。俺が」


カフカの言葉を遮って、私は立ち上がり巨体で硬い体を力強く押し飛ばした。馬の体がよろめいて地面に倒れそうになるが、筋肉質な四肢に支えられてすぐに体勢を直した。


「良かったじゃないか、自分が何者かがわかって。まだ自分の正体を口に出さず、曖昧な存在であるうちにどこかへ行ってくれ。私との関わりもおしまいだな。今までありがとう」


ありがとうじゃない、正体に気づいていてずっと黙っていたことを謝罪しなければいけないのに。謝罪をしたら認めてしまうことになるから、怖くてできなかった。


冷たく言い放って、それから私はまた座り込んだ。カフカが何かを話しているようだったが、俯いて両耳を塞いでいたから聞こえなかった。


駄々をこねる子どもだ。でもこれでいい、不思議な生き物がやって不思議な日々を数ヶ月過ごした、やがて生き物は自分が何者かを思い出して故郷へ帰って行った。物語のシナリオはそんなもんでいいじゃないか。


私は自分がこれ以上傷つかないために、自分自身に言い聞かせた。


蹄の音が遠ざかり、やがて聞こえなくなる。耳から手を離すと、波の音がした。真っ暗な神社から馬の影は消え、私は独りになっていた。



後悔はしていない。きっとあの馬は家族の元へ駆けている。再会した後どうなるかは知らないが、ハッピーエンドを迎えるのだろう。


脇役を終えた私はすっかり安心してしまった。これで変哲のない日常に戻る。


ひどい眠気に襲われて石段に横たわる。少し眠ったら帰るつもりだったのだが、そのまま深く寝てしまった。


風で葉の擦り合わさる音とか、小動物が走る音とかがしたのだが、子ども達が喋ったり笑ったりする声がしたのは、私の頭の中で微かに残った記憶が幻聴として現れたに違いない。


ノリちゃんは小学校の野外活動で植物の絵を描いたと言っていた。確かに、そんなことをしていたかもしれない。はっきりとはしないけど、絵を描いて学校に戻る前、皆で鬼ごっこをしていたような気がする。


頭の中の私は赤い靴を履いて草むらを走り回っていた。そうだ、ジャンケンに負けて鬼をやったんだった。


戦隊モノがプリントされたシャツを着る男の子を追いかけている。もう少しで背中に手が届きそうになって、私は地面を強く蹴ってジャンプした。


「ヒロくん、つかまえた!」


バチッと目を開けると太陽の光が眩しかった。慣れない光に眼球は悲鳴をあげ、転げ回りながら石段から華麗に落ちた。


朝だ、朝になっている。酔っていたとはいえ野宿するなんて、信じられない。夜勤明けの時さえ、風呂に入ってベッドに行かないと熟睡できないこの私が。


涎を手で拭き取り、乱れまくった髪と泥のついた衣服をそのままにして起き上がる。鏡がないから確認はできないが、みすぼらしい格好で山姥みたいになっているはずだ。


携帯を見ると時刻は五時だった。人気がないうちに帰らねばと急いで神社から離れようとしたのだが、海の方から誰かが泣いている声のようなものがして、その場で聞き耳を立てた。


それは切なく悲しんでいるような声でもあり、弦楽器の音のようでもある。


そうだ、これ、クジラだ。


声に引き寄せられて自然に足が海へと向かう。神社の裏に階段を見つけ、そこから真っ直ぐ砂浜へ降りられるらしい。


音はだんだん近くなる。やがて波打ち際まで来ると沖に何かがいるのが見えた。音の発信源であるそれは、私の存在に気づいたのかこちらに向かって泳いでくる。


「・・・・・・いや、馬鹿だろお前。何でクジラになったんだよ」


察してはいたが、クジラの正体はカフカだった。なぜわかったかというと、奴は尾びれで水面を叩き、私に海水を多量に浴びせて挑発したからだ。普通のクジラならば絶対にやらない。


びっしょりと濡れた前髪を掻き分けてカフカを睨みつける。奴は大口を開けたり閉じたりして笑った。


「どうやってクジラになった?」


「あそこに海の家があるだろ? 壁にザトウクジラの写真が載ったポスターが貼ってある。クジラって鼻の穴から音を出すんだぜ。いっぺんなってみたかったんだ」


「そうか、私は馬刺しが食べたかったんだがな」


「お嬢さん、仲直りしない? 俺の背中に乗せてあげるからさ」


新手のナンパを真似てなのか、軽々しい台詞をクジラが吐く様に笑ってしまう。裸足になってズボンの裾を捲りあげ、海へと足をつける。


「乗ってやるから海に振り落とすなよ!」


靴と靴下を脱いでズボンの裾を捲り上げる。尾びれから慎重に背中まで這い上がった。つるつるで光沢のある体は乗り物としては向いていない。しかしカフカは私が海へ落ちないよう体動を少なくし滑らかに泳いでいく。


浜が遠くなる。私はしがみついたまま水平線を眺めた。空と海の境目がはっきりしている。辺りに船などはなく、海上にいるのは私達だけだった。


「お前が海のど真ん中まで私を連れて来た意味が、わかるよ」


「こうもしないと仲直りできないからね。海の上じゃ逃げられないし、しがみついていたら両耳を塞げないだろ?」


ついに向き合うべき時が来てしまったか。自分自身に嘘をつくのももう終わり。


「まったく、最低な男だよ、お前は」


「ごめん」


「悲しみを残す相手は、私だけにしときゃ良かったんだ」


「ごめんな、ソラ」


「・・・・・・あんなに、綺麗な人と可愛い娘に、辛い思いさせるくらいから、誰とも結ばれずに私だけと関われば、良かったんだ。この、妻子不幸者め」


言っていることが無茶苦茶なのは自覚している。たらればの話をしたって、過去には戻れない。


今が海の上で、クジラのカフカの背中に乗っていて良かった。奴から私の顔は見えないし、落ちていく涙は海水と区別がつかなくなるから。


「ヒロ・・・・・・。何でお前、死んじまったんだよ」


弾力のあるクジラの背中を拳で何度も叩いた。そのたび海水がしぶきをあげて涙とぶつかり合う。口の中に塩辛さが広がっていく。悔しくて、涙が止まらなくて仕方がなかった。


死んだ人間は生き返らない。でも神様が悪戯をしてヒロと私をおかしな形で再会させてしまった。今頃私の酷い泣き顔を見てほくそ笑んでいることだろう。


「たぶん、俺が悪いんだ。煙になって空に昇る時、肩を落としてるソラを見つけたから。お前は昔から落ち込むと立ち直るのに時間がかかるから、どうしても近くに行ってやりたくて強く願ったんだろうな。記憶や体をなくしてもいいから、どうかもう一度ソラの傍に行かせてくれって」


「・・・・・・そ、んなことだけで全部を忘れて私の所に来たのか? どうかしてる、優先すべき人は他にいるだろ!」


「もうちょっと時間があったらゆきと彩巴のことを想ったよ。それから父さんと母さん。人はさ、大切な人の中でも一番長く傍にいた奴のことを真っ先に思い浮かべるんだな。死んでから初めてわかったよ」


それからヒロは、自分が意識を失って死に至るまでの経緯を話した。


✱✱✱✱✱



死んだ日の昼間のことだ。その日俺は仕事が休みで小学校のアルバム写真を眺めていた。


懐かしい気持ちが高まり、ふと思い出巡りをしたくなる。


ゆきがたまには一人でのんびり出かけてくるといいよと言ってくれて、彩巴と家で留守番をお願いした。


車で数十分の場所にある小学校を訪れ、職員の許可を得て校舎を見学した。登下校道を少し散歩すると、田んぼがあった所には家々が並び、放課後遊んだ公園は更地になっていた。変わったのはそれだけではなくて、大人になって歩いてみれば、長く広い道が短く狭く感じた。十五年ぶりに歩く道だが、ランドセルを背負って歩いたり走ったりしたのがつい昨日のようだった。空だけが昔と変わらなかった。


時の流れはあっという間だ。


鼻たれ坊主だった俺は、立派とはいえないが、夫として父親として今は頑張っているんだから。


進んで行くと、子どもたちの笑い声が聞こえてくる。幼い頃、皆からモグラ神社と呼ばれていた所からだ。神社が建っている小高い丘の形がモグラに似ているからそう付けられたらしい。


笑い声に引き寄せられて、俺は鳥居をくぐり石でできた階段をのぼっていく。


確か、ここで植物の絵を描いたり鬼ごっこをしたりした。ソラが鬼をやって、俺のことをしつこく追いかけ回していたっけ。


今がとても幸せだが、ふとあの頃に戻ってみたくなる。


上から子ども達が駆け下りてくる。その姿が俺とソラに重なって、つい笑みがこぼれた。


しかし、次の瞬間、俺の運命を決定づける瞬間がやってきた。


神社の階段で子どもが足を踏み外し落ちそうになる。たまたま下にいた俺は、咄嗟に子どもを庇い、抱える形で転げ落ちた。その時、階段下にあった岩に頭を強く打ってしまったのだ。


幸い、子どもはかすり傷程度で済んだ。俺は頭から血が出ているものの意識ははっきりしていた。びっくりして泣き出した子どもをあやして、他の子達にも心配しないよう声かけする。


最後には元気よく礼を言われて、また笑いながら帰って行った。大事に至らなくて本当に良かったと安心した。俺自身も血は止まっていて少し頭が痛いくらいで大したことないと思っていたんだ。


その日の夜は食欲がなかった。何だか吐き気がして歩くとめまいがする。これは頭を打ったせいで、一晩ぐっすり寝て明日になれば治っているだろうと、軽い気持ちで寝床に入った。


ゆきが異変に気づいて心配してくる。昼間子どもを庇って頭を打ったと言ったら、きっと取り乱してしまうから、余計な心配をかけまいと黙っていた。


あの時、強がらないで病院に行っていたら助かっていたのかな。


夜中、バッドか金槌みたいな硬いもので強く頭を殴られる激しい痛みに襲われた。胃の内容物が口と鼻から出てきて、体中が痺れた。ひどい拷問にあっている地獄の気分だった。


ゆきが俺を呼び叫ぶ声と、怯えて泣き喚く彩巴の声が聞こえる。


ああ、もう俺は死ぬんだ、そう自覚した時には意識がなかったのかもしれない。


自分が起きているのか、眠っているのか、生きているのか、死んでいるのかわからない無の世界。


いつしか、世界は青一色になる。だけどそれは空の色だった。俺は煙になって空にいたのだ。長年住んでいた街を一望する。なるほど、体が燃やされて灰になると、こうして魂が天に登っていくのか。


このまま登っていけば、俺はまた新しい命を得て生まれてくるのだろうか。脳みそはすでにないのにこうして呑気に物事を考えられるのは不思議だ。


いざ、この世に別れを告げようとすると、肩をがっくりと落とすソラが見えた。そうか、あいつ葬式に来てくれたのか。


距離がどんどん遠ざかる。俺はこれから成仏ってやつをするんだろうけれど、最後の最後に見るのがあいつの落ち込んだ姿だなんて嫌だな。


あいつ、一回落ち込むとずるずる引きずるから。案外弱虫で泣き虫で、すぐ感傷的になって飯を食おうとしなくなるんだ。


・・・・・・体を壊したら大変だよな。


俺は下へ戻ろうと必死になる。今更ながら死んでたまるかという気持ちになった。すでに手遅れなんだが。


戻れるなら記憶をなくしても虫になっても良かった。どんな姿でもいいから、あいつの傍にいてやりたかった。


流れに逆らって下へ下へと向かうたびに、自分が何者だったのかを忘れていく。下へ行かなければならない目的さえも忘れて、本能だけが動いていた。


気づけば、俺は地面に立っていた。自分が誰で、なぜここにいるのか理解できなかった。


先の方で、項垂れながら歩く人の姿があった。陽炎に揺れて朧気なその姿は、追いかけないと消えてしまいそうだった。


「すぐに追いかけろ」


頭の中で誰かに急かされて、俺はおぼつかない足で彼女を追いかけた。


✱✱✱✱✱


明らかになる術のなかった真実を聞かされて、瞬きも息をするのも忘れるほど放心した。


ヒロは、外傷性くも膜下出血で死んだのだ。それも、見知らぬ子どもを助けるために。


「子どもと私が重なったからって、身を呈して庇って、死んじゃったのか? ただ思い出巡りをしただけなのに?」


煌びやかで艶のある背中に向かって、私はやっと声を絞り出した。


「ゆきには黙っていてくれよ、かっこ悪い死に方だから。でもヒーローっぽいだろ?」


「かっこ悪いとかヒーローだとか、そんなこと言ってる場合か!」


「本当にいいことをしたら、1番幸せだよ。だから、ゆきも彩巴も、俺を許してくれると思う」


「カムパネルラみたいな台詞使うな。子どもを助けるために死んだって、ゆきちゃんが許しても、私は、私は・・・・・・」


「お前も絶対に同じことをするよ。俺とお前はよく似ているから」


「似ているもんか。何でも私に勝つんだから、私よりも長く生きるべきだったんだ」


「ソラは長距離走が得意だろ、それだけは勝てなかったよ。幼なじみが年上になっていくって、なんかおかしいな。ソラはシワッシワのばあちゃんになっても生きていくんだ。あの世で会った時、若くてツルッツルな肌の俺にさぞかし嫉妬するだろうな」


「私が死ぬまで何十年も待っているつもりか?」


「そうだよ。また幼なじみで親友をやりたいからな」


涙を両手で拭き取るのに夢中になり、私の体はぐらりと揺れてバランスを保てず海へと落ちてしまう。


ドボンと鈍い音と友に水しぶきがあがる。


あまりに一瞬だったので、情けなく目と口をあんぐり開けたままだ。鼻に水が入って強い刺激に襲われる。沈んでいく体とは反対に、大量の泡が上昇していく。海中はとても静かな世界だった。


静寂の世界で一頭のクジラがこちらに顔を向けた。これはヒロ。姿形は変わっても、中身はあいつだ。人を守るために死んだのも、あいつらしい。


すぐ触れられる所まで泳ぎ、その大きな口元に抱きついた。クジラに触るなど初めてなのに、妙に懐かしくて、たまらなく愛しかった。気づけば私の心は安らいでいて、もう悲しみはこれっぽっちもなくなっていた。知らぬ間に私はグリーフケアを受けていたのだ。


死んだ人間が色んな姿に変身する話なんて、誰も信じてくれないだろうな。


風変わりな形でこうしてまた巡り会った、しかしきっと本当の別れは近い。私の傍にいたいという目的は充分叶えられたから。


・・・・・・目的。そうだよ、ヒロが本当にしたいことは、まだあったじゃないか。


口先で救いあげられて私は海面へ顔を出し、思い切り呼吸をした。そしてクジラのヒロに言い放つ。


「ヒロ、とびっきりの仕事を紹介するぞ!」












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