個人的行為

ぽんぽん丸

個人的行為

困ったことに彼女は激怒した。必ず、邪知暴虐の夫を懲らしめようと決意した様だった。


10時を回ると私は決まって寝室に入る。彼女が晩御飯の洗い物だったり私が作ってしまった家事をしてくれている間に1時間と少し個人的な時間を過ごす。今日の個人的な時間は結末間際まで読み進めた本の残り僅かを読み終わると、たったそれだけで終わった。21時に帰ってから会話なくご飯を食べた。予感はしていたがこの絵は予想外だ。


その右手には丸めたティッシュが握られていて、左手には"1か月分"が入ったコンビニの袋が握られていた。かぴかぴという専用の表現を作って広めた人間は彼女のようにその恥の塊を触って観察してみんなに吹聴して回ったのだろうか?私は確固たる証拠と彼女の怒りを前に隣町まで走り出したいと思った。だけど、きっと隣町で妹の結婚式が行われていても彼女は許してくれなさそうだ。


私は脳内という、ときに時間を超越する器官のその能力をいかんなく発揮しなければならない。弁解の道筋を立てなければいけない。しかし、私の個人的欲求を”笑わず”に弁解する方法を私は知り得ない。私が最も警戒しなければならないことは彼女の次の言葉に思わず噴き出さないことだ。


「なにこれ?」


私はなんとか笑わなかった。至って神妙な面持ちで彼女と対面し続けている。しかしこれは難しい質問だ。「それは私がオナニーの後処理に使用したティッシュです」という回答は最も正確な回答でありながら、同時に最も不誠実な回答でもあることを私は理解している。少なくとも彼女と結婚しているのだから。


結婚しているからオナニーがいけないのかもしれない。彼女は社会的に認められたパートナーである私がオナニーをするということに羞恥を感じて怒っているのだろうか?しかし結婚をしていない恋人がオナニーをしているということに対して怒る人もいのだから、結婚という関係が要因になっていると容易に判断すべきではない。また最も好意的な想定として、二人の間に営まれる行為の回数に不満を持っていて、これだけの回数を一人で消化いることに怒っている可能性もある。それならば素直に謝り、これから営みが始まれば解決する。また私が部屋のゴミ箱とは別に分けて隠したことに怒っている可能性もある。夫婦間で隠し事をすることに怒りを覚えるのであればその怒りは至極まっとうで私は誠心誠意謝らなければならないし、そうしたい。だが彼女の怒りの根源を知らぬまま独断で何かに謝ることは、沸き立つ油に何とも知れない物質の塊をを投じるみたいなもので、爆発を招くかもしれない。


脳の時間超越能力にも限界があり、私は差し迫ってリアクションを取らなければならない。私は彼女の怒りの根源を突き止めたいと思った。しかし目的を果たせるたった一つの冴えた質問を私は考えられなかった。また悪戯に彼女を刺激して審判なき罪と罰を背負う覚悟も持てずにいた。


私は、夜の寝室で余暇を過ごすときにだけ眼鏡をはずす。眼鏡をはずした私は最もリラックスした状態である。また朝に眼鏡をかけてから薄らヒゲの中年男が社会で信頼を得るビジネスマンに変貌する姿を彼女は何度も見てきた。だから私は二人で選んだ深いブラウンのなんだか魅力的な風合いのベッドボードに置かれた、彼女が店中楽しそうに駆けてほとんど一人で選んで私も気に入っている眼鏡を、神妙という思えば人生で我が身に宿ったことのない形容詞をここぞと、懇々と身に染み込ませる思いで、かけた。


「なにそれ?」


彼女から情報は出てこなかった。私は額から汗が出た。彼女がこのアクションでいつもの笑顔を見せてくれる期待さえいだいていたのに、爆発はしなくとも静かに熱があがったことがわかる。そしてこの問答は間違いなく危険な爆発力を秘めていることも感じている。


いよいよ難しい局面だ。彼女から情報を引き出すことはできない。ならば手元にある情報を整理しなければいけない。


私は週に1,2する。回数については多い少ないの基準もなく月に一回だって多く感じている可能性がある。また実際に正しい回数かどうかを証明する手段もなければ、彼女の手に握られた袋の大きさから虚偽の申告と見做され疑心を生む可能性、また週1,2でこのサイズ感ということは不潔なものをため込んでいたという怒りを呼ぶ可能性があり話すべきではない。


またその時に修正の入っていない動画を探して視聴する。その触れ込みは概ね出演する女性の若さや容姿を強調するもので、このご時世に決して許されない欲望に満ちたものだ。ましてパートナーであればよほど気味が悪いことだろう。これは彼女の怒りをさらに増す可能性がるので動画のことは話せない。


どういう時にするのかを考えれば体調がいい時にすることもある。かえって疲れている時にすることもある。また性的に高ぶっているからする、という単純なものではない気がする。さらには彼女との営みの前にすることもあり、なにより今から彼女が共に寝るこのベットですることもあるのだから、すべてにおいて話さない方がよい。重罪犯が黙秘をすることを私は彼女の前で非難したことがある。私は黙秘を検討する自分を恥じた。


「おもいっきりビンタしてくれ」


私は確かにそう言った。


「力いっぱい頬をビンタしてくれ。僕は君の怒っている理由を察することができずにいる。このままでは君を抱きしめる資格はない。ビンタしてほしい。」


私は結局、さっき読み終わった走れメロスのエンディングを模倣した。いつものように彼女の本棚から読んでいたからきっと良く伝わったことだろう。苦しい中で見つけた良い方法だと思った。だけど彼女は何も言わずにただその表情を深く悲しくした。それを見て私はやっとオナニーについて言及されることに笑いを見出す感性を手放すことができた。


彼女の悲しみは宇宙の果てに目を凝らすようだった。終わりは見えずに、広がっていく。また彼女の怒りの根源が見えない理由も理解した。彼女は”何かに”怒っているわけではなく”怒っている”のだった。


長いトンネルを抜ると雪国であったら感嘆の声を上げる。その声を放つまでに理由を考えない。彼女はその両手に持ったものにただ怒っている。それは私に対する怒りでも、彼女自身に向けられた怒りでもなく、ただ怒りだ。私の個人的行為の後を彼女が目に映した時に生まれた感情が怒りだ。


そして私が普段のようにいたずら心を加えた対処をとるのに、笑うことが出来ずに、まったく収まらない怒りに、悲しんでいる。もうどうしようもないから悲しんでいる。額にかいた汗が冷えた。


私は彼女の純粋な怒りに対して申し訳なく思った。その根因が私にあるから。しかし私が謝ったことで彼女の怒りは消えないことは明白だった。もうしないからという言葉も意味を持たない。


雪国に美しさを感じる純粋さを取り除くために、言葉を尽くしてはいけない。してはならない。彼女の怒りに対していかに誠意をもっていても説得することはいけない。それ自体を抱かないようにしてはならない。


言語に長けて、聡明な彼女が言葉を失ったまま、そのほほから落ちる涙の筋が首を伝って、鎖骨を乗り越え可愛らしい寝巻の襟首まで伸びて、見えなくなってもそのままにして泣いている。私はこの彼女の姿を生涯忘れることはない。


私は老人と海を読んだ時に、ライオンの夢に心を焦がしても自分は決して彼女の元を離れないだろうと思った。私は桜桃を読んだとき、高級なさくらんぼを買ってきていつか彼女や彼女との子供たちに食べさせてあげられると思った。私はさっき走れメロスを読み終わった時に家族や友のために昼夜を問わず走り続ける人間であろうと思った。疑いようもなく、彼女もそう思ってくれている。


なのにそんな未来がもう来ないことが、彼女のその姿に書かれていた。


私は彼女を尊重する。離婚を決意した。それが彼女そのものであるのだから。

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