第22話 天使が見えた日

 六月第一週の金曜日。

 大阪国際語大学の学園祭「つつじ祭」は三年ぶりにリアル開催となった。


 箕面山系が造り上げた急峻な造成地に建つキャンパスは、最寄駅から延々と続く急坂のどん詰まりにある。

 普段は学生だけの場所に、一般客が次々と吸い込まれていく。


「なんかえらい混んでるみたいやな。三ヶ野原のせいなんか」

「この前のサイン会の代替イベントもやるみたいだからね」

「……ほんま、申し訳ない」


 大学の正門前に鎮座する看板には、泉川ミカ講演会・原画展示会の文字が躍る。

 キャンバスに直接人間がダイビングして描かれた巨大壁画が目を引く。

 カラフルな人間たちの周囲には、私が撮影した動画のスクリーンショットが貼られている。


 だが看板の中央部を大きく飾っていたのは、泉川ミカがの画であった。

 先日見せてくれた聖母子像をモチーフに、自作品風にアレンジしたそのデザインは、多くのTwinBirdsStrikeファンの注目を浴びていた。


『これ、泉川先生の作品です!』

『すごい山の上だけど、来てよかった!』


 X(Twitter)のタイムラインには、鷲見たちが作成した巨大看板の写真がいくつもアップされていた。

 浮き彫りとなる泉川ミカの人気ぶりに、私とあめりは思わず嘆息をついた。


「今日は大学行かんで正解だったかもな」

「これだけファンが集まってると、さすがにちょっと怖いよね」

「しかしみんな三ヶ野原の話ばっかりしとるな、うちの全身アートも見いや」

「知名度が違うからね、仕方ないよ」


 私たち二人は、つつじ祭の現場には行かず、ひたすらスマホの画面を眺めていた。

 先日のサイン会の一件からは、まだ時間がさほど経過していない。

 それに私自身、自分が描かれた似顔絵をまじまじと見るのが恥ずかしいという思いがあった。


「うちは大学行ってもよかったんやけどな」

「ごめんね、最悪あめり一人だけで行ってきてもいいよ」

「ええわ、桃ちゃんと一緒やないと意味あらへん」


 二人で描き上げた『百枚目の天使』は、ミカの原画展示会場の片隅に飾られる予定となっている。

 弘原海先輩からの知らせでは、絵のタイトルは彼女が命名してくれるということだった。


「誰かうちらの絵もSNSとかに上げてくれんかな」

「あくまでミカの原画展だからね。さすがにファンはそこまで見ないと思う」

「ええ出来なんやけどな、まあ誰も見んやろな」 

「その光景を想像したら怖くてね、現地に行けないや」


 私たちは今、梅田にいる。

 梅雨の直前とはいえ、今日の大阪の天気は最高、絶好の観光日和だ。


「やっと桃ちゃんがその気になってくれたわ」

「まあ、私の顔も今さら隠すものじゃなくなったしね」


 梅田HEP名物、駅前の赤い観覧車前に並びながら、二人でとりとめのない話に興ずる。

 あの時は心が委縮して乗れなかったけど、今は違う。

 自信満々に写真を撮りまくっていたあめりの姿が懐かしくさえあった。


「いざ順番が近づいてくるとおっかないわ。めちゃめちゃ高いんやろ」


 自分から観覧車に乗ろうと誘っておきながら、この体たらく。

 あめりは今さらになって高所恐怖症であることをカミングアウトする。

 自信が張り付いたような彼女の顔が、みるみる蒼ざめていく。


「高いとこに行っても、見えないでしょ」

「そういうもんやない、身体がふわっと浮く感覚だけは分かるんや」


 順番が近づく。

 歩を進めるたびにびくっと震えるあめりの背中が、申し訳ないけど笑える。


「そんなに怖いんだ、観覧車」

「桃ちゃんと一緒やないとよう乗らん」

「隣同士で座らないとダメそうだね」

「重さで傾いたりせんか」

「たぶん傾く」

「イヤや、向かい合わせがええ」


 想像よりも勢いよく流れるゴンドラに、私たちは息を合わせて乗り込んだ。

 

「動いとる、なんか揺れとる」

「まだそんなに高くないよ」

「……どれぐらいや」

「大阪駅の屋根が見える」

「アカン、降りるわ」


 苦悶の顔つきで恐怖に耐えるあめりがあまりにおかしい。

 思わず写真を一枚。


「今パシャって鳴ったで、うちを撮ったんか」

「だって面白い表情してるんだもん。インスタに上げようか」

「自分のは撮ったらアカン言うとったくせに、意地悪すぎるわ」

「最初は嫌がる私の顔を触ってたくせに」

「あーもう、桃ちゃん昔と変わってもうた、前はそんなん言わんかったわ」


 観覧車は頂点に達しようとしていた。

 快晴の大阪の街が一望できるだけでなく、はるか遠く淡路島の方までも見える。

 もしかしたら私の故郷、岡山も。


「あ、靭公園が見えるよ。上からだと本当に大きい公園なんだね」

「普段からいくらでも行けるやろ、わざわざ上から見んくてええ!」


 あめりはぷっと不貞腐れたまま、後半はほとんど無言だった。


「……桃ちゃん、いつからそんな意地悪になったん」

「さて、いつからだろうね」


 答えは一つしかないが、あえて答えてやらない。

 はい、あなたと一緒になってからです。


「観覧車の思い出に、写真いかがですか?」


 この大観覧車は乗車後に写真撮影サービスがある。

 もちろん有料であるが、多くの観光客が撮影を頼んでいる。


「桃ちゃん、写真買わへんの」


 少し口元をにやけさせながら、あめりが私に尋ねる。

 彼女の期待を裏切り、いいよ勿論、と即答した。


「だってあめりはこの写真欲しいんでしょ。前からそんな顔してたよ」

「ふーん、ほんまに変わったんやな」

「そう、すべてはあめりのおかげ」


 撮影位置に誘導され、ポーズをとるように指示が飛んだ。

 誰に言われることもなくマスクを外し、肩にもたれるあめりの身体を強く引き寄せる。

 二人の頬同士が密着するぐらいに顔を近づけ、最高の笑顔を作った。


「それじゃ撮ります、はい、チーズ」


 観覧車の色に合わせた赤い台紙にが手渡される。


「やっぱり写真は紙のやつじゃないとアカン。触らんと色が見えん」

「まだ乾ききってないかもしれないよ」


 少し表面がべたつくのも、あめりはまったく厭わなかった。

 どんな細かい箇所も見逃したくないとばかりに、丹念に指先を当て続ける。


「これが桃ちゃんか。絵を描いたときに比べたらちょっと色味がちゃうなぁ」

「気に入らなかったらまた触るといいよ」

「やった、定額触り放題や。桃ちゃんのサブスクや」

「解約不可ですけど」


 ブドウ色の瞳を力強く見開き、最高の笑顔を輝かせるあめり。

 ファンデーションを駆使して傷痕をうまく覆い隠し、照れ笑いを浮かべる私。

 これが修学旅行での交通事故の後、初めて私が撮影を許可した写真だった。


「やっと一緒に観覧車の写真撮れたわ、ほんま良かった」

「そうだね、一生の思い出になるよ」


 時計は午後一時を差している。

 公式サイトにアップされたつつじ祭のプログラムによれば、いよいよ泉川ミカの講演会が始まる時間となっている。


「ねえあめり、ミカの講演会のライブ配信があるみたいだよ」

「凄いなうちの大学、なかなかやるわ」


 つつじ祭実行委員会の公式Youtubeには、大学講堂のステージが映し出されている。

 客席は満員となっていた。


「お待たせいたしました、これよりマンガ家の泉川ミカ先生の講演会を開始します」


 スーツ姿の弘原海先輩が壇上に立ち、講演に先立っての諸注意を述べる。

 今回の企画に向け、鷲見たちと協力してずっと駆け回ってきた彼女の顔は、緊張しながらも晴れやかさに満ちていた。


「それでは大きな拍手でお迎えください。『TwinBirdsStrike』連載中、泉川ミカ先生です」


 実行委員たちの誘導を拒否し、ミカは白杖を持たずに中央へと歩み寄った。

 一斉にスマホのカメラが向けられ、フラッシュが激しく明滅する。

 サングラスをかけているミカでも一瞬たじろぐが、それでも舞台中央に堂々と立つ彼女の姿は「自信があるとはこういうこと」という見本にさえ思えた。


「皆様、ただいまご紹介にあずかりました泉川ミカです」


 静まり返る会場。


「……凄いよミカ、ここまで人を魅了するマンガ家になれたんだね」

「ずっと気に食わんやつやったけど、画面の向こうから強いオーラが伝わって来るわ」


 ミカは手元のフリップを立てると、配信画面に一枚の絵画が大写しとなる。

 司教を多くの庶民たちが取り囲む、ヨーロッパの葬儀風景であった。 


「皆さんはギュスターヴ・クールベという画家をご存じでしょうか」


 自らが描く人気作品の裏話から入るかと思いきや、切り出しはまさかの美術ネタ。

 場内が一斉に静まり返った。


「なんや、マンガの話せんのか」

「知ってる。私、この話を前に靭公園で聞いたことがあるよ」


 ギュスターヴ・クールベとは十九世紀に活躍したフランス人の画家だ。


「クールベが活躍した当時、歴史画というジャンルは偉大な人物のエピソードを切り取ったものと考えられていました」


 かつては宗教画だけが芸術絵画と思われていたが、ルネサンス期には人間を描くことが多くなった。

 だが十九世紀になってもなお、絵画とは特別な存在を描くものであった。

 画家を援助するパトロンの影響といえばそうであるが、まだ完全に芸術の自由が確立されていない時代であった。


「この『オルナンの埋葬』は、市井に暮らす人々や自らの姿をそのまま絵画にする写実主義を生んだクールベの代表作として知られています」


 沈黙に包まれる聴衆を顧みることなく、彼女はとうとうと芸術論を語り続ける。


「ある日、彼に『なぜお前は聖人や神、天使を描かないのか』と問いかける者が現れました」


 当時の芸術界においては、その質問はもっともなものであった。


「決まってるやん、そんなん普通見たことないからや」

「それも前に語ってくれてた。でも、なんでこの話を……?」


 だがクールベはこう言い放ったという。


「あなたは背中に羽の生えた者を見たことがあるのですか」


 ミカの口調が、一段と力強くなった。


「私は天使を描きません。なぜなら見たことがないからです」


 クールベの名言として知られる言葉こそ、まさに彼の写実主義の本質を表現したものであった。


「本日は、私のマンガ原画展が実施されています。ですがその中にどうしても見ていただきたい一枚があります」


 ここまで一気に話したところで、ミカはひとつ咳ばらいを入れる。


「私の盲学校時代の同級生、有森あめりさんの作品です」


 あめりの名を聞いた瞬間、一部の観客がざわついた。

 当然のことだ。

 せっかくのサイン会をメチャクチャにした上、短期間とはいえ連載休止に追い込んだ、泉川ミカファンにとっては不快な名前に違いない。


「以前はインスタグラマーとして活躍されていたそうですが、今はアカウントを消してしまったそうです」


 あめりが「あちゃー」と額に手をやった。


「……あれは早まったわ。フォロワーようさんおったのに」

「心配ないよ、インスタは一ヶ月ぐらいなら復帰できるようになってるはず」

「ほんまか」

「うん、私も一度消したことがあるから知ってる」


 ミカはマイクを強く握りしめた。

 今日の講演会で一番言いたいことはこれなんだ、とアピールするかのように。


「有森さんは、私が唯一『勝てない』と思わせた絵を描いた人です」


 泉川ミカの作品と言えば精密かつ繊細が売り、写真よりも写実主義とさえ評されている。

 視力をほぼ失っているとは信じられないほどに圧倒的な書き込み、デジタル全盛時代にアナログ技法を多用するスタイル。


「クールベは見えないものは描けないと言いました。だが有森さんは、見えないものを描くことができる天才です」


 あめりに対する最大限の賛辞が聴こえる。


「ほんまにそう思ってくれとったんか。うち、ヘタクソやなかったんか」


 白杖を両手で握りしめながら、あめりは背中を震わせた。


「だから、どうか原画展のついでに、彼女の絵も見てあげてください」


 ミカが深々と頭を下げた。

 聴衆たちから一斉に拍手が飛んだ。


「そうそう、ちなみにモデルは私の幼馴染なんです。今までずっと切磋琢磨して励ましてくれた、私にとっての天使なんです」


 想定すらしていなかった言葉に、私は思わず目を丸くした。

 私のことを天使だなんて呼ぶ人が、あめり以外にもいたなんて。


「……こいつ、人の天使を勝手に奪わんといてや」

「あっ、なんでライブ配信切っちゃうの」

「ムカついたからや」


 露骨にふくれっ面を見せたあめりが、配信の再生を無理やり止めた。

 最後まで話を聞けなかったのは残念だけど、弘原海先輩に頼めば録画したものを見せてくれるだろう。そう信じる。


「三ヶ野原のやつ、うちの絵をまるで自分のマンガのおまけみたいに言い寄ったな。腹立つわ」

「仕方ないでしょ、世間一般から見ればそんなものだって」

「そういえば絵のタイトル、あいつが付ける言うてたな。ふざけた名前やったらシバキ倒したるねん」

「一体どんな題名にしてくれたんだろう。気になる」


 SNSで検索をかけてみても、出てくるのはミカの原画ばかり。

 素人が描いた色鉛筆作品など、わざわざ撮影に値しないということなんだろう。


「なあ桃ちゃん、三ヶ野原のやつを蹴りに行ってええか」

「物騒なことを言うね」

「こうなったら現場に行かんと気が済まへん。さ、地下鉄乗るで」


 あめりが私の手を強く、真っ赤になるほどに握りしめた。


「ほな行くで、しっかりつかまっといてや」


 大きく息を吸い込み、あめりが叫んだ。


「すまーん、道空けてやー!」


 突然の絶叫に驚いた道行く人々が、一斉に後ろへ下がった。

 さすがに走ることは無理としても、ものすごい大股歩きで私をぐいぐいと引っ張っていく。


 スマホが鳴動した。

 インスタグラムのDMが到着した音であった。


「これ、ヨアヒムだ!」


 丁寧に額装された鉛筆画の前で、長い金髪と無精髭の怪しい男が親指を立てていた。

 絵の下には、ミカが手書きしたであろう、少し子供っぽい文字が躍っている。


「なるほど、そういう題名にしてきたか」

「どんなやつや、教えてや」


 正直なところ、少し照れ臭いタイトルだと思った。

 私はあめりの耳元でそっと告げることにした。


『盲目の彼女が見た天使の肖像』


 なるほど、さっきの講演はここにつながっていたのか。


 見たことがない天使など描けないと、かつてフランスの画家は言った。

 それが事実だとすれば、目が見えないあめりにとって天使は絶対に描けないはずだ。

 だが、あめりは描き切った。

 彼女の指で、唇で、全身で感じ取ったイメージを、画用紙に焼き付けてみせた。


「なんだろう、相変わらず小難しい題名にしてくるな」

「ええやん、イヤミなとこがあいつらしいで」


 ここまで来たら、実物を見ずにはいられない。

 だがそんな時、突然の電話

 

「もしもし、お母さん?」


 こんな時に、いったい何の用なんだ。

 

「えっ、新大阪に着きそう? まさか私の絵を見るために、わざわざ来たの?」


 昨晩、両親にも私の似顔絵が展示されることをLINEで知らせておいた。

 でもその翌日に大阪まで出てくるなんて、信じられない。


「なんや、桃ちゃんのおかん達も来とるんか」

「びっくりしたよ、事前連絡もなしに学校まで案内しろとか、あり得ないよ」

「ええやん。何ならうちのおとん達も呼ぶで。家族水入らずで話そうや」

「アハハ、せっかくだからそれもいいかもね」

 

 私とあめりは、互いにの肩を抱きながら大笑いした。

 そのまま梅田の雑踏の中へ踏み出すと、まずは新大阪駅へ向けて走っていく。


 今晩は今までの人生で、一番賑やかな夜になりそうだった。

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見えない天使は描けない ~盲目の彼女が、疵顔の私に恋をした~ 浜栗之助 @legacy_world_1993

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