第21話 見えない天使は描けない

 五月最終週の朝。

 いつもより早く目を覚ますと、台所から水の音が聴こえた。


「おはよう、桃ちゃん」


 ずらりと流し台に並んだ化粧品は、あのサイン会以降は埃をかぶり続けていた。

 だが今日は違う。

 ほんのりと漂う芳香は、再びあめりの朝のルーティンが戻ってきたことを意味していた。


「朝から熱心だね、どこか行くの」

「なに言うとるん、今日で似顔絵仕上げんと間に合わんやろ」

「でも外出してまで描く気はないよ、恥ずかしいし」

「化粧ってのは誰かに見せるためのもんちゃうで。自分に気合入れるためのもんや」


 つつじ祭までもうほとんど時間が残されていない。

 私の絵を完成させて提出するまでのリミットは、事実上今日だけだ。


 鷲見から借りた天使の色鉛筆をあめりに手渡したのは、つい昨晩のこと。

 すっかり傷ついた缶の中には、長さがまちまちな鉛筆が何本も収納されている。

 切り絵風の画風で描かれた白い羽の天使が、優しい微笑みを浮かべていた。


「凄いな、鷲見っちも六十色のを買うてもろてたんやな」

「知らなかったよ、学校には持ってきていなかったからね」


 色相環など無視して雑然と詰め込まれた鉛筆を一本ずつ丁寧に触りながら、あめりはもとの順番へと戻していく。

 黄色、赤、青、緑、さらには茶色や黒、金色や蛍光色など、決まった並びがあるそうだ。


「きちんとしとらんと、描いてて気持ち悪いんや」


 あめりの目が見えないことを、これほど疑ってかかったことはなかった。

 牡丹色やすみれ色、灰緑、朽葉くちば色というマイナーな色まで含め、一つ一つの色を正確に指摘していた。


「やっぱり天使の色鉛筆が最高や、触った瞬間にぜんぶ分かるの、これだけや」


 あめりは欲しかった玩具を買ってもらったばかりの子供のように、鮮やかな色彩を何時間もかけて味わい尽くしていた。

 最後は肌の保湿をも忘れ、力尽きてベッドに倒れていた。

 彼女の手には、一番好きな色だというペールブルーが握られていた。


「うちのメイク終わったで。桃ちゃんはどうする」

「私は洗顔だけにしておくよ。あめりが描く時に手に化粧品ついてたら困るでしょ」

「うちは別にファンデまみれになっても構へんけど」

「絵が汚れたら意味がないってことだよ」


 あめりが描くということは、私の顔を弄り回すことを意味する。

 本当にそれでいいのか、昨晩からずっと葛藤があった。


 少しだけ洗顔料を手に取り、たっぷりと泡立てて頬骨付近に載せる。

 Tゾーンの皮脂を落としながら、右手のひらが傷痕をなめる。


「あめりにとっての百枚目の天使が、私の絵なんかで本当にいいのだろうか」


 誰に聞かせるわけでもない自問自答が、自然と口からこぼれる。

 醜くえぐれた傷を持った、哀れな堕天使にしかならないのではなかろうか。

  

 もう一つの懸念は、ヨアヒムの言葉だった。

 あめりが私の顔色をはっきりと捉えらえないのは、傷痕をマスクで隠しているからだと。


 だがあの事故以来、見られないように懸命に守り続けてきた醜悪な部分を、盲目とはいえ彼女の眼前にさらすことには未だ抵抗がある。

 私自身が壁を乗り越えられない限り、あめりは似顔絵を描けない。


 今の塩飽桃子を見せなければ、見たこともない天使を描けるとは思えなかった。


「よっしゃ、そろそろ始めへんか」 


 スケッチブックの新しいページをめくる。

 本来ならばきちんとイーゼルを立て、専用の用紙に描いていくところだが


「うちはそういうのに慣れとらん」


 あめりの要望もあり、大判のスケッチブックをそのまま使うこととした。

 

「なんか心臓がばくばくしてきた」

「ほんまやな、うちも同じや」


 あめりの手は、筋肉の緊張のせいかカタカタと小刻みに震えていた。

 ぎゅっと握りしめると、徐々に心拍数が収まっていくのが分かる。


「どう、少しは落ち着いてくれるかな」

「色が流れてくる。かば色みたいなあったかい血を感じる色味と、卵色の柔らかい感触の色味と、それにペールブルー」

「私、顔が蒼くなったりしてる?」

「違う。桃ちゃんに触った瞬間、真っ先に来た色がブルーなんや。一番好きな色が指先に伝わってきたんや」


 あめりの中で、描くべき絵画のイメージが広がっていく。

 

 まずはあめりが口を開き、どんな絵にしたいかを告げた。

 続いて私も、まるで湧き出すかのように紡がれた画像を示した。

 二人の脳裏に浮かんだ空想は、奇妙なほどに一致していた。


 それは抜けるような大空を背景に、軽々と舞う天使の姿だった。

 似顔絵のモチーフはまさしく「百枚目の天使」。これは譲れない。


「思えば、桃ちゃんがうちの手を握ったところからすべてが始まったんやな」

「大学に残るとか、同棲するとか考えてもいなかったよ」

「きっと、それはお祖母のおかげやな。導きや」


 靭で初めて一夜を過ごした時、部屋に飾られたあめりの祖母の写真が私を見守っていたのを思い出した。


「百枚目の天使を見れんで寂しがっとったさかいに、天使に会わせたろと思ってくれてん。間違いないわ」

「そうだね。この絵は私とあめりだけのものじゃないね」

「みんなが待っとる。お祖母も、三葉先輩も、鷲見っちも」

「それに、ミカもね」


 ぱん、と力強くあめりが自らの頬を叩いた。


「じゃ、まずは空から塗っていくわ」


 山吹色の色鉛筆を手に取ると、画用紙の表面に薄く塗りつけていった。


「これは空だよね、青系で行くべきじゃないの」

「太陽があるやろ。光の色を描かんでどうするんや」


 空が青い理由など、私たちはすでに学んでいる。

 太陽光の中の短い波長の成分が空気中の微粒子によって散乱し、そう見せているだけだと。

 だがあめりにとって、そんな理屈は不要だ。

 空はお日様の色と、抜けるような青から出来ている。それで十分だ。

 黄色系を薄くベースに塗った後、そこにエメラルドや桃色、さらには名前通りの空色の色鉛筆を滑らせていく。


 ロウを多めに含んだ固めの書き味のため、強く色が混ざり合うことはない。

 だがその特性を生かした色遣いを、あめりは完全にマスターしていた。


 春から夏に見えるお天道様の色、どこまでも拡がっていくような鮮やかな青みが、スケッチブックの周囲を染め上げていった。


 中央部に残された真っ白いスペース。

 いよいよこの部分に、あめりは私の表情を描いていくことになる。


 私たちが似顔絵を描こうとうする場合、まずは輪郭から進めていくだろう。

 だがあめりにとってはその作業は必要ない。

 彼女に必要なのは、感じ取った色味を適切に紙へ載せていくこと、それだけだった。


 あめりは缶の中に全ての色鉛筆を収納する。

 ペットボトルの抹茶オレを一気に飲み干した。

 祖母がお茶好きで、子供の頃から好きだった味だと言う。

 ブドウ色の瞳の奥に、光が宿った。


「これから顔の部分へいくで、動かんといてや」

「分かった、くすぐったくしないでよ」

「残念やけど、それは保証できんな」


 あめりの手が髪に触れる。

 この辺りまでは何の問題もない。普段から当たり前のようにやっていることだ。

 左手の指先から感じ取った色味をもとに、右手が色鉛筆を探る。

 彼女が選び出したのは青紫だった。


「私、そんな色の髪の毛してるのかな」

「こんな感じやで。ここに臙脂色とかも入れていけばええ感じになる」


 まったく無関係な色をいくつも並べ、新たな表現を作り出していく。

 美術の時間に習った点描画の技法を想起させる。

 だがあめりは、誰に教わることもなく、自らのセンスだけでかつての画家たちと同じ境地へ達したのだろうか。


「くすぐったいな、そんなに丹念に触られたことのない場所だから」

「面白い形してるんやな、桃ちゃんの耳」


 指の角度や力の感じ方だけを頼りに、あめりが私の輪郭をとらえていく。

 薄い橙色やレモン色をベースに、球を立体的に描く方法で鉛筆を走らせる。

 影の彩色などもおそらくは知らないはずだ。

 机上の知識として私が身に着けた作画と、出来上がりはほぼ一致しているのが不思議だった。


「あめり、目が見えないんだよね」

「なんや、分かり切ったこと聞くんやな」

「どうやったら、迷いもなく色を決めていけるんだろう」

「決まっとるやろ、自信や」


 鉛筆の動きが止まった。


「百枚目の天使を最初に描こうとしたとき、途中で色がまったく見えんくなった」

「ミカに酷く言われたせいだったよね」

「違う。あんなん聞き流せばよかったんや。ほんまに自信あったら、他人の言葉なんてどうでもええはずや」


 絵にせよ写真にせよ、あめりの創作意欲をかき立ててきたのは、自信だった。

 それに根拠があるかどうかは関係ない。

 自分が上手いと信じる気持ちだけが、エンジンとなって彼女を動かしていた。


「でもこの前な、三ヶ野原のやつが『うちの才能に嫉妬してた』と聞いて笑ったで」

「びっくりしたね、あれは」

「あんなやつのために百枚目の天使がえらい遅れたと思うと、アホらしくてな。今度損害賠償払わせたるわ」


 あめりの手がすっと伸び、私の眼球付近に触れる。

 決して悪しき意図がないにせよ、さすがに眼前に鋭い爪が迫れば恐怖を感じる。


「目に触るのはやめようよ、やっぱり怖いよ」

「だってそれやったら、桃ちゃんの本当の目の色が分からんやろ」

「普通だよ。黒と白の」


 あめりが大きくため息をつく。

 分かっとらんな、とでも言いたげな顔つきだった。


「うちはその普通が分からんねん。昔見た自分の目しか覚えてないんや」

「無理だよ、眼球を直接触るなんてできないし」

「せやろな、指じゃ無理や。でもこれやったらどうやろか」


 あめりが私の肩に手を置くと、そのまま両手を後頭部に回した。


「天使の絵、描けそうな気がするんや。指だけじゃ足りひん」


 まるでキスでもするかのように、あめりの唇が私の顔に迫った。

 あまりの照れくささに、思わず目を閉じる。


「ちょっとやめてよ、いくらなんでも」

「目を柔らこう触ろうと思ったら舌先しかないねん。目、閉じんといてや」


 あめりが私にアイラインを引くことを教えてくれた時を思い出した。

 潤いのある、艶めかしい感触がまつ毛に沿って眼裂を走る。

 懸命に抑えているだろう吐息がかかる。

 これ以上近づけば眼球に触れる、そのギリギリの線をなぞっていく。


「分かる、桃ちゃんの目、すごくキラキラした黒。純粋な黒や」

「黒だけじゃないってのは気付くかな」

「ほんまやな、両端に白い部分もある。こんな風になっとったんか」

 

 互いの鼓動が胸元を揺らす。

 あめりの息遣いが激しい。

 もちろん、私もだ。


「他の色も知りたい、見せてや」


 あめりの舌先が目から離れた刹那だった。

 後頭部に回された彼女の両手が、するりと背中へと降りた。


「何をするの、やめてよ、私たちそんな関係じゃないでしょ」

「桃ちゃんってこんな色なんか。今まで知らんかった」


 そのまま強い力で抱きしめられる。

 母親が我が子を慈しむように、あめりが私の頬へ顔を重ねた。


 だらりと垂れ下がっていた私の両手が、自然とあめりの背中へ回る。

 私もあめりの身体に触れたかった。


「なんや桃ちゃん、積極的やな」

「恥ずかしいから黙ってて。このままにさせて」

「うちもや。このまま色の海に浮かんでいたい」


 二人がすべての動きを止めた。

 このままでいたい。

 似顔絵も、つつじ祭さえもどうでもいい。

 そんな刹那的な感情にさえ身を委ねかけていた。

 

「なあ桃ちゃん、一生のお願いや」

「もしかして、アレかな」

「そう、マスクや」


 嫌だ、と拒絶するのは簡単だった。

 私の傷痕には指一本触れさせない、そのつもりで今まで生きてきた。


「私がマスクを外したら、傷痕も絵に描くつもりでしょ」

「描くやろな。それも含めて桃ちゃんやから」

「嫌だと言ったらどうする?」

「無理やり剥がして、思い切りぎゅっとして、身動きできんようにするかもしれん」

「それ、訴えられたら負けるやつだよ」


 マスクの裏にたまる自らの息が、たまらなく不快だった。

 外したい、本気でそう思った。

 同時に明らかに顔が緩んでいるのが、自分でも分かった。


 熱を帯びたあめりの指先が、私の耳元へとそっと滑り込む。

 先端がマスクのゴムにかかる。

 私を見据えるブドウ色の瞳の奥に、煌々と輝く光が宿る。


「あめり、あなたが外して」

「ええんか」

「もちろん、あめりならいい」


 私の一生のトラウマとでも言うべき傷痕が、あめりの前にさらけ出される。

 事故は何年も前なのに、醜く盛り上がった創傷部が充血し、疼く。


 あめりの冷たい指先が傷に触れた。


「痛かったやろな、これ。よりによって顔やもんな」

「このせいで、ずっと苦しい思いをしてきたからね」

「何でやろな。そんな憎たらしい傷が、こない綺麗なピンク色してるんやろな」


 あめりが大きく息を吸い込む。

 

「うち、桃ちゃんのことが好きや」

「ありがとう、でもなんでいきなり言うかな」

「桃ちゃんの顔が分かったからや。今までマスクしとったから半分も把握できてへんかったけど、やっと完璧に見えたわ」


 そっと目を開いた私の前には、顔をくしゃくしゃにして笑うあめりがいた。

 笑みだけではなく、双眸にはうっすらと光るものさえあった。


「さあ、顔がはっきり分かったことやし、ここからは一気に描けるで」

「お、魂に火が着いたね」

「見えんもんは描けんさかいにな。捉えてしまえばうちは自信あるで」


 軽快な音を立て、色鉛筆が画用紙を滑る。

 幾重にも積み重なっていく色の階層が、生命感に溢れた塩飽桃子の表情を作り上げていく。


 あめりの絵柄はあくまでも稚拙で、大人の鑑賞に堪えうるかは疑わしい。

 だがその鮮烈なまでの筆致。

 補正入りのデジタル映像では決して表現されない色味。

 それらが一つに合わさり、画用紙上に『百枚目の天使』を紡ぎあげていく。


「描けたで。こんな感じならどうやろか」

「……本当に凄いね。これが、私なんだ」

「せや、桃ちゃんや。うちが見た、触った、感じた通りの桃ちゃんや」


 心の中だけで正直に言おう。

 全然似てないよ。

 どこが私なのか、誰にも説明できないよ。

 

 鏡に映る自分は、いつも不細工だった。

 自らを主張出来ない、人前にすっぴん顔をさらせない、弱々しい私だった。

 だからこの絵は違う。

 ここにいるのは、自信にあふれ、心が満ち足りた別の人間じゃないか。


「やっと描けたわ、百枚目の天使」


 メイクをしていなくて良かった。

 止め処なく落ちていく涙が、きっとファンデーションを洗い流してしまうだろうから。

 あめりの手が私の頬を拭う。

 そのまま優しく背中へ手を回すと、もう一度ぎゅっと抱きしめた。


「桃ちゃんの背中、羽も生えてへん。頭に天使の輪っかもあらへん」

「そりゃそうだよね、人間なんだし」

「けど、あの絵は間違いなく天使や。うちがこの目で見た、塩飽桃子と言う名前の天使なんや」


 先日の地震で生き残った額縁のひとつに、描きあがった絵を飾る。

 裏面には今日の日付と、私からの「ありがとう」の言葉を添える。


 あめりのお祖母ちゃん、見えていますか。

 ずっと見たかっただろう、天使の絵はついに完成しましたよ。


 寝室の一番上に据え付けられている祖母の写真に向け、私は似顔絵を高々とかざした。

 少し顔に傷のある天使だけど、喜んでくれたら嬉しい。

 心からそう思った。

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