第20話 飛び込め、色彩の海へ

 朝起きてすぐにSNSに目を通すのは怠惰な習慣だとは知っている。

 だが今朝になって流れてきた泉川ミカの情報は、一発で私を目覚めさせるだけの力を持っていた。


『TwinBirdsStrike、連載再開!』


 記事の一番下には、昨日ミカの仕事場で撮影したセルフィーが掲載されている。


『私が一番影響を受けたインスタグラマー、有森あめりさんと二人で写真!』


 屈託なき笑顔のミカの隣で、あめりが引きつった表情を見せていた。

 あめりは撮影される側には慣れていないのと、カメラ映りを気にしたことがないためであろう。

 本人にはこの写真については告げない方がいいかもしれない。


 さあ、それはそうとして今日から本格的に復活に向けて動く。


「え、えーっと、今日の動画はこちら!」

「なに緊張しとんねん。こんな風にしゃべりや」


 あめりも元気になったので、先輩から頼まれた動画撮影を少しでも再開したい。

 ついでに似顔絵も進行させたい。

 そう考えてやってきたのは、なぜか道頓堀であった。


「元インスタグラマー有森あめりと!」

「イスラエル人ヨアヒムの」

「似顔絵教室ぅ~!」


 恥ずかしい。

 底辺Youtuberじゃあるまいし、戎橋の真ん中で何をしてるんだろう。

 しかもそれだけではない。

 人目にさらされながら似顔絵を描かれているのは、私なんだから。


「桃ちゃん、表情硬すぎるわ」


 カメラのアングルを固定し、できるだけ自分の顔は入らないようにしている。

 いずれにせよ絵が完成したら動画に撮られるのだが、あめりの画力であれば当該人物を判別するのは不可能だろう。


「だったら描くの止めようよ。やっぱり無理だよ」

「すぐそういうこと言うのアカンで。なにせ桃ちゃんは『百枚目の天使』のモデルなんや」


 ミカの言葉を真に受けて、あめりは早速似顔絵の制作に取り掛かっている。

 ヨアヒムはプロだけあって、貸してくれた色鉛筆も高級品。これだけでもいくらするか分からない。

 図工の時間で扱うようなものと違い、重ね塗りをしたりグラデーションを付けたり、技巧を凝らすことができる。


「この色鉛筆、やたら柔らかいな。どこの製品なん」

「ドイツ。ボクの母の故郷ネ」


 ヨアヒムが最も得意とするのが似顔絵だ。

 軍を除隊して世界を放浪する際に身に着けた技術らしいが、確かに上手い。

 あめりにとっては最高の教師が身近にいたようなものだ。


「このおっさんが一番絵に詳しいねんで、使えるもんは親でも使うんが大阪人の心意気や」

「そう、大阪の人のこういうとこ大好きネ」

「ヨアヒムのおっさんかて、おもろいからこれからもうちの動画に出てや」

「イイネ、楽しみにしているヨ」


 あめりにとって、似顔絵は簡単に描けるものではない。

 なにせ彼女自身の目では、私の顔を見たことさえないのだから。

 手全体を使って頭全体を包み込み、撫で回して形状を把握する。

 それがあめりに許された唯一の方法だった。


「桃ちゃん動かんといてや。触った位置と絵の場所がずれるさかいに」


 髪の毛の一本一本まで正確に描写すべく、指先をクシのように使い、両方の肩口まですっと手のひらを滑らせる。


 目もとから目じりへ、均等なバランスとスピードで指を走らせる。

 化粧をまったく知らなかった私にアイラインを引くことを教えてくれた時、あめりはこうやっていた。


「このマスク鬱陶しいわ、外すことできんの?」

「外すぐらいなら今すぐ帰るからね」


 冗談じゃない。

 こんな街中で、群衆に傷痕をさらすぐらいなら死んだほうがマシだ。


「アメリは絵の天才ヨ、目が見えてないなんてウソね」

「ほんまか、そんなによう描けとるんか」


 ヨアヒムのやつ、社交辞令にもほどがある。

 そもそもあめりは、似顔絵の最重要パーツである目を描けていない。

 自分の目とまるで違うので比較も出来ず、描きようがないのだ。


「桃ちゃん、うちの絵どうや?」

「微妙」


 どう答えていいのか分からない。

 ミカみたいに率直な意見を言うとまた凹んでしまいそうだし、かといってヨアヒムみたいに笑顔で嘘をつける人間でもない。


「たぶん、色がアカンのやろな」

「うーん、何というかそういう問題じゃないんだよね」

「はっきり言うてや、遠慮いらんで」


 ドイツ製の色鉛筆はよほど良質な顔料なのであろう、鮮やかな筆跡が画用紙の上で踊るようだ。

 ただし、色遣いはどう見てもメチャクチャだ。


「肌はミカンみたいな色じゃない。目は紫じゃないし、髪は青く染めたことなんてない」

「見たまんま描いたんやけどな。桃ちゃんの目なんてこんな感じやろ」

「全然違う」


 あめりの目は、ブドウ膜炎の影響で他の人とは大きく色が異なっている。

 彼女が人間の顔を描く場合、どうしても過去に見た自分が基準になるはずだ。

 だから一色で塗りつぶしたようになるのは仕方ない、それはこちらも理解している。


「モモコ、アメリは君をこう見てるのヨ。とても綺麗な色ネ」


 私が相当不満げに映ったのだろう、ヨアヒムがあめりの意図を代弁してくれた。


「色なんて人間によって感じ方が違うのヨ、そこ悪く言っちゃダメね」

「私の顔をちゃんと見て、その上で描いてほしいんです」


 思わず強い口調で反論してしまった。


「髪はただ黒いだけだし、目は細いし、肌は汚いし、それに顔に傷もあるんです」

「傷って、これのことネ」


 ヨアヒムの手が私のマスクに伸びた瞬間、ぞくりとする悪寒が走った。


「やめてくれませんか、いきなり触るの」

「アメリの絵がおかしく感じるのは、モモコが素顔を見せていないからだと思うヨ。見せてくれなかったら描けないの、当たり前ネ」


 図星だった。

 もう二カ月近くも同棲しているのに、家の中でもずっとマスクをして、顔の半分を隠す生活が続いている。

 もちろん食事などの時は外すが、その際はあめりに顔を触らせない。

 あめりにとっては明らかに困難な条件だった。


「ごめん、自分から顔を隠しておいて、似顔絵を批判するのは変だよね」

「それだけやない。やっぱ天使の色鉛筆やないのがアカンのかもしれん」


 天使の色鉛筆はカラーバリエーションこそ豊富だが、決して高級品ではない。

 芯も硬いし重ね塗りやグラデーションには不向きで、プロは用いない画材だ。

 しかも私たちが小学生の頃に終売しており、今や入手さえ困難だ。

 後継商品を別企業が作っているが、あめりにはフィーリングが合わなかったそうだ。


「ねえあめり、天使の色鉛筆があれば、私の似顔絵を描けるかな」

「うちの頭の中のパレットは、あの鉛筆の並び順で出来上がっとるんや。だから色を間違えるとかあらへん」

「私が何とかしてみる。探してみるよ」


 協力してくれたヨアヒムと別れた後、まずはネットで検索をかけてみた。

 個人間で売買するサイトにはいくつも出品されているのだが、どうも悪い印象が強すぎてアカウントを作っていない。

 当然ではあるが、通販では軒並み欠品となっている。


 つつじ祭まではほとんど日数がない。

 仮に買えたところで、描き上げるまでの時間を確保できるかは怪しい。


「オークションサイトとかどうなん」

「私、普通の通販以外はあまり信用してないんだよね。騙されそうで」


 いろいろ考えながら歩くうちに、とうとう自宅近辺に到着する。

 突破方法はまだ見当たらない。どうすればいいんだろう。


「なあ桃ちゃん、なんか絵の具の匂いがせんか」


 確かに、図工の時間を思い出すような香りが漂ってくるのが分かる。

 いかにも陽キャ的なはしゃぎ声が聴こえる。

 ああいう連中からはできるだけ距離を取るのが私のやり方だ。


「ちょっとあめり、どこ行くの」

「面白そうやん、誰か絵を描いてる人がおるかもしらんで」


 靭公園の西側、フットサルコート近辺が賑やかだ。

 あめりはリズミカルに白杖をつきながら、ぐいぐいと進む。

 子供の頃から歩きなれた道、まったく臆することはない。


 あまりに異様な光景が広がっていた。

 サッカーのユニフォーム姿の人たちが、頭から絵の具の入った水を被る。

 濡れた体のまま、巨大なキャンバスへと身を躍らせる。


「なあ桃ちゃん、何を描いとるか分かるか」

「……身体に絵の具を塗って、壁に突っ込んでるんだけど」

「凄いな、めっちゃ楽しそうやん」


 彼らが作っていたのは、等身大アートだった。

 だが不思議なことに、白いキャンバスへ向かう人たちは誰かに手を引かれている。

 自分一人では方向を決めることが困難であるかのように。


「塩飽と有森か、こんなとこにいたのか」

「鷲見っちか、これ何をやってるんや」

「ブラサカのチームのみんなと協力して、つつじ祭用の看板を作ってるんだよ」


 弘原海先輩から、学祭実行委員会とボランティアサークルは以前から共同で作業をしている話は聞いていた。

 だがここまで大掛かりなことをやってるとは、さすがに初耳だ。


「身体に絵の具塗って飛び込むんやろ、うちにもやらせてや」

「汚れても構わない服ならいいぜ。むしろ頼みたいぐらいだ」


 鷲見の言葉を真に受けたあめりが、喜び勇んで家に戻っていく。

 本気か、私は頼まれても嫌だ。


「有森のやつ、楽しそうだな。サイン会や道頓堀での件もあったから心配してたが」

「まあおかげさまでね。今はミカに頼まれた似顔絵を描く練習してる」

「三ヶ野原の件、世話になった。講演会の話が復活した時はマジでお前に感謝したよ」

「……私は何もしてないよ。取次いだだけだから」


 私は今の今まで、本当に何ひとつしていない。

 ミカの心の傷を癒したのは彼女自身の努力だった。

 鷲見の反省もずっと聞き流していた。

 そして、あめりのトラウマさえも結局はあめりの手で解決されようとしている。


「そうだ、弘原海先輩から預かってた撮影用のスマホ返すよ。それなりに使えそうな動画は入ってるから」

「ああ、これもこの看板のデザインで使わせてもらう」


 私の中で、鷲見はまだ完全に許されたわけではない。

 だから話しかけるとしても訥々としたものになるし、会話が弾むこともない。


「桃ちゃーん、まだおるかー!」


 フットサルコートに近づく薄いピンク色のジャージが見えた。

 先日の道頓堀、雨の中で着ていただけにすっかり色が褪せていた。 


「その服、もうボロボロだね」

「せやな。触っても前と違う色にしか思えんかった」

「じゃあ、このアートに使っちゃって問題ないね」


 あめりはバケツを持った人の方へ歩み寄ると、絵の具入りの水を頭からかぶった。

 彼女に言われるまま、私はキャンバスの後ろへと回り込み、支える形を取る。


「うわ、全身ピンク色や!」

「ねえあめり、色、また見えるようになったの?」

「イヤでも見える! 脳内ぜんぶピンク色!」


 あめりは白杖も持たず、ふらふらとした足取りでキャンバスへ歩み寄った。


「行くで桃ちゃん、しっかり支えてや」


 突然、歩くスピードを上げた。

 ほとんど転びそうな感じではあるが、猛然とその身を投げ出した。

 

「桃ちゃん、愛しとるで!」


 どすん、と私の全身に伝わる衝撃。

 私はキャンバスもろともにあめりの身体を受け止める。

 万歳ポーズの人影が、白い紙を桃色に染めた。


「鷲見っち、どうや、綺麗に出来とるか?」

「完璧だ! 何も教えてないのによく飛べたな!」


 彼女が身体をゆっくりと引き離した瞬間だった。

 バランスを崩したあめりが、私に向けてもたれかかってくる。


「危ない、あめり!」


 私はあめりを両腕で包みこみ、背中を丸めるように地面へ倒れた。 

 ボランティアサークルやブラインドサッカーチームの面々に見守られながら、二人は公園のアスファルト上で抱き合う形となった。

 ダメだ、メチャクチャ恥ずかしい。


「塩飽、マスクまでピンク色に染まってるぞ」

「えー、うそ、ホント? 何それ、じゃあ服も?」

「ああ、絵の具まみれだ」

「待ってよ、いきなりこんなことになるなんて聞いてないんだけど」


 いくら水彩用とはいえ、これはキツい。


「大丈夫やで桃ちゃん、汚れたら近所のクリーニング屋に持ってくとええ」

「思い出したよ、あめりと同居するきっかけのお店だね」

「せや、あのお店もうちらの天使みたいなもんや」


 周囲にいる人たちは全員、多かれ少なかれ派手な色にまみれていた。

 でも誰一人の例外なく笑っていた。


「よーし、今日はみんなありがとう! これでつつじ祭の看板が出来た!」

「え、さっきうちが飛んだやつを飾るんか」

「それだけじゃない。三ヶ野原に頼んだ絵もあるからな。それも使う」


 鷲見はノートの切れ端に、祭の看板のイメージをメモしていく。

 すらすらとセンスよく描いていく姿に、私は思わず見入っていた。


「突然の質問で悪いんだけど、図工の時間とか好きだった?」

「一番好きだった。絵は絶対に三ヶ野原に勝てないから少し嫌いになったがな」

「ミカのことも認めていたんだね」

「あいつが連載してるマンガ、単行本も全部持ってるからな。今回の講演会も俺が必死に頼み込んで実現させたんだ」


 自分をカッターで斬りつけたはずのミカを、鷲見はずっと見守っていた。 

 責任は彼にあるとはいえ、これもまったく意外な話だった。


「そうだ、もしかして『天使の色鉛筆』って実家にあったりしない?」

「岡山まで取りに行けってのか。無茶を言うな」

「ごめん、聞いた方がバカだった」


 期待はしていなかったから仕方がない。

 弘原海先輩あたりに電話するか、諦めてネットで買うか。

 それとも、あめりに他の色鉛筆でなんとか描いてもらうか。


「わざわざ岡山に行かなくとも、俺の家にあるよ。それも六十色のやつが」

「凄い、そんな高いの、普通は買わないのに」

「絵は好きだったからな。何かあったら使おうと思って、念のため大阪にも持ってきてた」

「……じゃあ、貸してくれないかな」

「分かった、一度家に戻ってからまた来る」


 その日の夜、鷲見から連絡を受けて再び靭公園に向かった。

 手渡された金属のケースには、お母さんの字で「すみ よしかず」と書かれたマジックの筆跡が躍っている。


「恥ずかしいな、こんなものを見せるのは」

「でもありがとう、これであめりが絵を描けるよ」


 私にとって憧れでもあった、六十色入りの色鉛筆

 缶の所々が凹んではいるが、まぎれもなく私たちが使っていたものと同じだった。


「祭まではあと一週間だ。あまり時間はないぞ」

「わかった、あとは私たちで何とかするよ」

「じゃ、出来たら連絡くれ」


 ナイター照明の中に溶けるように去っていく彼の背中に、私は小さく手を振っていた。


「……えっと、鷲見、ちょっと!」

「なんだよ、うるさいな」

「ありがとう、わざわざ、あめりのために」

「俺が頼んだことだ、礼なんていらねえよ」


 品のない金色だと思っていた髪の毛が、濃いめの栗色に染められていたことに気付いた。

 タトゥーも全くと言っていいほど見えなかった。

 つつじ祭に向けて印象を良くするために、弘原海先輩に諭されて直したのだろうか。

 今さらになって気づくなんて、私はどれだけ焦っていたのだろう。


 だが事実、私たちに残された時間はほとんどなかった。

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