第5章 私は、天使と夢を見る

第19話 和解

 ここは大阪市内の中心部、某タワーマンションの一部屋。

 今まで感じたことのない緊張感を覚えていた。

 目の当たりにしている現実がリアルなのかを分かりかねている、錯乱にも近い心境だった。


「桃ちゃん、腕の筋肉カチカチやで」

「そりゃそうだよ、憧れの作家の創作現場に立ち会えるなんて、ファン冥利に尽きるってものだよ」


 私たちは泉川ミカの仕事場にいる。

 大好きな作品『TwinBirdsStrike』が生み出される場所だ。

 担当者の同伴を得て、奇跡的に入ることが出来た。


「塩飽ちゃん、入って入って」

「いいのかな、プロの現場に来たら邪魔じゃないかな」

「邪魔なやつだったら誘ったりしないから、ほらほら」


 厳重な防犯システムと駅近な立地、どう考えてもかなりの家賃が飛びそうだ。


「すごいな、なんか分からんけど空気が締まっとる気がする」


 あめりは壁を抜いて間取りを大きく取った部屋の中で、音の反響を駆使して広さを確かめている。

 招待を受けたのは私というよりは、むしろあめりの方であった。


「絵だけ描けと言っておいて、それで放置したらあまりにも無理ゲーすぎるからね」


 編集者の会議に使われるのであろう、ゆったりした革張りのソファーに腰掛ける。

 ただし時間がない作家さんらしく、出てきた飲み物はペットボトルのお茶だったが。

 連載こそ止まっているが、別室ではアシスタントたちが液晶タブレットの前でしきりに手を動かしている。

 私が子供の頃に憧れた光景があった。


「なあ三ヶ野原、ええんか、うちが入っても」

「ここでは本名は禁止。職場ではあくまでも泉川ミカだからね」


 恐縮しきりのあめりの前に、ミカは何冊ものスケッチブックを積み上げる。

 同じ盲学校の卒業生同士、当然ながらあめりが絵を見ることができないことは知っているはずだ。


「この絵はサイン会の後に描いたやつ。今の有森だったらどうせ見えないだろうから持ってきた」

「なんやて。言いにくいことをはっきり口に出すな」

「ここで話したことなら炎上もしないからね、こういう時に自分の仕事場があるのは助かるよね」


 目の前に置かれた中から、一番上の一冊を開く。

 鉛筆画なのは間違いないが、あまりに細密に描き込み過ぎたせいかほとんど真っ黒になっている。


「これは私の中の悪魔を表現したもの。サイン会が中止になった日のやつだね」

「あんなことがあったのに、すぐ絵を描けたんだ」

「私には絵しかないからね。ちょっとのことで筆が止まったら商売にならないよ」


 あめりが少しむくれている。

 ショックを受けやすい欠点をずばり突かれたせいか「ええやん描けんくても」としきりに自己弁護する。


「これは靭公園の木々をイメージしたやつ」

「あそこの木、ここまで禍々しかったっけ」

「一種の心象風景だからね。思いきり大袈裟に描いたほうが感情が伝わるってものだよ」


 サイン会で被った心の傷を癒すというよりは、塩を擦り付けてさらに痛みを増すような、そんな重苦しい絵が続いた。


「どう有森、これまでの作品からどんな色が見えた」


 ミカも意地が悪いと思った。

 色覚を失い、生きる糧をも失いかけていたあめりにとってはクリティカルな質問だった。


「どうと聞かれても困るわ。この絵から蛍光ピンクやらレモンやらを見るとか無理や、強いて言うなら真っ黒やな」

「それが分かってるならいいよ、私は『どこまでも続く黒い森』というイメージで描いているんだから、正解」

「……やっぱシャクにさわるやつや」


 憤懣やる方ないあめりには悪いが、私はミカの絵を見るのが止められなかった。

 色も塗られておらず下書きも同然なのに、頭の中には壮大なダークファンタジーの世界が構築されていく。

 ここまで人間の想像力を刺激する画力の持ち主が、いったいどれだけいるだろう。


 だがミカは大学構内で意味深なことを言っていた。

 あめりもまた相当の画才を持つ人間であると。


 ミカに頼まれ、私はあめりが描いた絵を持ってきているのだが、圧倒的な才能を前にして衆目に晒せるレベルじゃない。

 他人の作品なのに申し訳ないが、少なくとも私にはミカの言葉の真意は理解できなかった。


「このスケッチブックだけえらいボロボロやな、どんだけ力入れて描いたんや」


 あめりが首を傾げながら、あちこちに穴の開いた画用紙を撫でていた。

 鉛筆が折れそうな程に強い筆致で描かれていたのは、


「もしかしてこれ、ピエタかな」

「正解。さすがに塩飽ちゃんも知ってるか」

「失礼だね、美術は得意だったんだよ」


 紙いっぱいに描かれていたのは、サン・ピエトロ大聖堂にあるミケランジェロの『聖母子像ピエタ』であった。

 デッサンをやる人間なら分かるが、彫刻を平面に落とし込むのは案外難しい。

 まず正しく大きさを把握するのが厳しい。

 対象物を模写した場合にどのパーツがどれぐらいのスケール感になるかを頭で判断し、三次元から二次元へ変換する必要がある。


「ぴったりに描けて、しかもバランスが全然崩れていないとか、やっぱりミカは天才だね」


 泉川ミカは全盲というわけではない。

 だが修学旅行中の交通事故の影響で視神経を損傷し、両目に視野狭窄のダメージを負っている。


「目の端だったらかろうじて見えてるからね、そこまで凄いことじゃないよ」

「いやいや、遠近感とかほとんどないんでしょ」


 あめりが真剣な顔をしていた。 

 木炭画のような柔らかいタッチではなく、鉛筆で彫り込むように強く刻まれた描線を、丹念に指先でなぞる。


「待ってあめり、そんな風にしたら絵が真っ黒になっちゃう」

「大丈夫、フィクサチーフかけてるから心配ないよ」

「もしかして、あめりに絵を直接触らせるために保護剤をかけてくれたのかな」

「そりゃそうだよ、天才有森あめり復活のヒントになればいいと思ってさ」


 樹脂で保護された紙の表面を指先でなぞっても、おそらく作品を読みとることは不可能だろう。

 だがあめりの表情は真剣だった。

 ほんの微細な凹凸でさえも逃すまいとばかりに、指の全神経にエネルギーを回している。


「えらい大作やな。なんやろ、人が死んで悲しんどる感じが伝わってくる」

「触っただけで分かったの」

「まあ、桃ちゃんがさっきピエタって言うてたの聞こえよったからな」


 ミカは仕事場の奥から一体の彫像を持ってきた。

 聖母子像のレプリカだった。


「さすがの私でも記憶だけでこなせたら苦労しないからね。ちゃんと触りながら描いたよ」

 

 あめりが樹脂製の像へと手を伸ばす。

 像全体を回すように掌で撫で、その後で細かい部分に指先を這わせる。


「盲学校では美術についても習うんだよ。絵や彫刻の見方も教えてくれるよ」


 聖母子像の全体像を把握したいのだろうか、あめりは顔全体を像へ近づけた。

 周囲の空気の匂い、材質から伝わる温度、さらには味までも感じ取ろうと試みる。

 いくらなんでも像を舐めるのはダメなので、そこは私が止めた。


「うちらの場合はな、身体の感覚ぜんぶを使って美術鑑賞するんや」

「だからって舐めることないでしょ」

「舌先の神経って凄いで。魚の細かい骨とか探ったりするやろ。形を感じるのはここが一番や」


 視野が狭いこともあり、ミカが私たちの姿を見るためには顔を思いきり近づける必要がある。

 気が付けばスケッチブックに舌を近づけるあめりのすぐ傍にミカが迫っていた。


「アハハ、何やってるんだよ。フィクサチーフは溶剤だから舐めると毒だよ」

「そんなん知らんし。うちの身体は強いから毒ぐらい平気や」

「さすがだね、伊達に私が認めた唯一のアーティスト。常人とはやることが違う」

「えっ、三ヶ野原が、うちのことを認めてるやて……?」


 あめりの身体がぴたりと止まった。


「嘘もたいていにせえや。評価しとる奴になんでヘタクソとかぬかすねん」

「今なら分かる。嫉妬だよ。事故で目と精神をボロボロにされた直後だったから」


 ミカは事故の際、私をかばって壁に顔面を激しく叩きつけられた。

 視束管しそくかん損傷。

 眉毛の奥にある視神経を傷つけ、正常な視界と色覚を失っていた。


「何やら天使みたいな絵を描いてたでしょ。それがどうにも気持ちの悪い色遣いで、見てて吐きそうになったんだよ」


 私はミカの話に割って入り、持参した天使の絵を彼女に突きつけた。


「あめりの絵は、申し訳ないけどそんなに上手くはないよ、でも」

「桃ちゃんまで酷いこと言うのな」


 あめりには悪いと思う。

 だがしかし、本題はここからだ。


「ミカ、しっかり見て。この絵が気持ち悪いって思う?」


 あめりが大好きなペールブルーを背景に大胆に用い、白く抜いたスペースにはレモン色を薄く塗りつける。

 その上には蛍光ピンクを微妙なタッチでコントロールしながら重ねていく。


 色艶の良い天使の顔と、柔らかい服地。

 あえて何も色を描かなかった部分は、純白の羽を表している。


 ミカの言葉を信じ、私も虚心坦懐にあめりの作品を眺めたから分かる。

 天使の顔や姿形は稚拙に見えるが、はっとするような色遣いは天性のセンスを感じさせた。


「私、あめりのこの色彩感覚はすごいと思うんだ。気持ち悪いなんてことは絶対にないよ」

「そう。私も思った。でも自分が子供過ぎて、あの時は素直に誉めることが出来なかったんだ」


 ミカは大きくうなずくと、奥の部屋で作業をしている女性アシスタントたちを呼び寄せた。

 あめりが子供の頃に描いた何枚もの天使を、かわるがわる鑑賞していく。


「画用紙の使い方というか、色の置き方が大好きです」

「これ、そんな高い色鉛筆じゃないから重ね塗りには向いてないですよね」

「グラデーションがしっかり描けてる。どうやって色を決めてるんだろう」


 絵を扱うプロである彼女たちが、何の衒いもなくあめりを誉めていた。


「どう、うちの子たちはみんな評価してるよ」


 なぜだか分からないが、涙が出てきた。

 まるで自分の絵を認めてもらったかのように、あめりの作品への高評価が嬉しかった。


「それにしてもこれ、天使の絵ばっかりだね。他には描かなかったの?」

「その時な、うちは願掛けしとったねん」


 祖母がしていた百度参りと同じだった。

 百枚目の天使を心を込めて描き切ったときに、願いが叶う。

 どれだけ手術しても治らなかったブドウ膜炎でも、天使が見えるようにしてくれる。


「アホみたいやろ、お祖母に言われて必死で描いてたんや。あと一枚だったんやけどな」

「……もしかして、あの日大学で描いていたのが百枚目だった?」


 あめりは大きく頷く。


「あと一枚で願いが天に届くはずだったのに、それを私が邪魔してたのか」


 ミカは両手で頭を抱え、嗚咽ともうめきとも取れない声をあげる。

 良心の呵責に苦しんでいるのか、時々足をばたつかせた。


「ごめん、あめりはそんな風に追い込むつもりはなかったんだよ」

「すまんな、なんでうちが謝っとんのか分からんけど」


 そこから数分が経過した。

 突然すべてを割り切ったような顔で立ち上がったミカが、大急ぎでスマホを手に取った。


「有森、肩組ませてもらうよ」


 スマホを持つ手を前に伸ばし、自撮りを始める。


「TwinBirdsStrikeを楽しみにしている皆さんへ!」


 まるで動画開始時のYoutuberみたいに、ミカがカメラに叫んだ。


「マンガの連載、次から再開します!」

 

 居合わせたアシスタントと私が、一斉に万歳した。

 担当編集者は何も聞かされていない事実に完全に声を失っている。

 

「あと、みんなにお願い!」


 ミカはあめりの肩を強く抱き寄せると、頬と頬を思いきりくっつける。

 二人とも笑っている。


「この子が私の最高の友人、そして最大のライバルの有森あめり!」

「えっ、友達って、なんやねん」

「友達! 敵じゃないよ!」


 彼女の目的が分かった。

 SNSで炎上したままのあめりを何とか助けたくて、被害者とされているミカ自身からアピールしようという魂胆だ。


「今月末の大阪国際語大、つつじ祭で講演会やります! 私の原画展と、そして!」


 スマホの正面カメラの角度をずらし、あめりの顔だけが大写しとなった。


「私と同じ盲目の天才、有森あめりが描く『百枚目の天使』を展示します! だからみんな来てね!」


 呆気にとられたままの担当者に、ミカはスマホを乱暴に手渡した。


「これを雑誌の公式サイトにアップして。あとSNSにも即時掲載」


 あまりに嬉しいサプライズだった。

 見知らぬ一般人の標的とされたあめりにとって、ミカ自身からの友人宣言は何よりも救いになるだろう。


「よかった、夢なのかな」

「現実だよ、塩飽ちゃん」


 とんとん拍子に進む展開に、私は喜んでいいのかさえ分からない。

 だがあめりはミカの熱量に感化されたのか、顔を真っ赤にして両手を握りしめている。


「百枚目の天使か、描いたる。絶対にやったる」

「あめり、本当に気力が戻ったんだね」

「もちろんや。家に帰ったら早速絵を描き始めるで」


 だが一つ懸念があった。

 天使の絵を描くと言っても、もはや愛用の色鉛筆は絶版商品だ。


「そうそう、その百枚目の天使だけど、私からリクエスト出していい?」

「ミカが指示するんだ」

「天使と言っても、さすがに今どき色鉛筆の缶を真似しました、と言ってもインパクトがないでしょ」

「それは私も気づいてた。ミカの原画展と並べるには力不足だなって」

「そこでね、提案があるんだ」


 ミカがすっと指を一本突き出す。

 サングラスを外し、酔っぱらっているかのように大声で笑った。


「私の希望は、有森さんが塩飽桃子の似顔絵を描くこと」

「うちが、桃ちゃんの似顔絵を描くんか」

「塩飽ちゃんがあなたにとっての天使なんでしょ。だからそれを描いてほしいの。モチーフとしては間違ってないと思うけど」


 少々のことでは動じない雰囲気を取り戻していたはずのあめりも、さすがに言葉をなくしている。

 視力のほとんどを失い、大半が白く染まったミカの瞳が妖しく光っていた。

 あくまでモデルとはいえ、私があめりが描く『天使』に……?


「あめり、分かった。私は構わないよ」

「ほんまか、うちは似顔絵なんて初体験やから、変なんになっても笑わんといてや」

「もちろんそんなことはしないよ。出来るだけ頑張る」

「……と言うことは、笑う可能性はあるんやな」


 周囲にいたアシスタントたちからも、一斉に拍手が沸き起こる。

 久しぶりの絵だというのに、プレッシャーをかけていいのかと思うほどだった。

 でも、ここまで来たら私が天使になるしかない。


「有森あめり、あなたは私が認めた天才なんだから、絶対にやれる。信じてるよ」

「その言葉、嘘やないな」

「もちろん、私たち視覚障がい者にとって、自信こそが前に進むエネルギーだから。それを与えただけ」


 あの事件以来、ずっとくすんだ色合いだったあめりの肌に、ぱっと明るい色が差した。

 二人の共同作業が始まろうとしていた。

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