第18話 もう墓標はいらない

 まだ五月だというのに、照りつける日差しに思わず「早すぎる」と愚痴が出てしまった。

 一歩ごとにマスクの裏側が湿り、より不快感を強めていく。


「あめり、今日はずっと無言だね」

「別に、なんも気にしてへんで」


 あめりは黙々と白杖を突きながら、何やら思いつめたような顔で歩いている。


「あれだけもめた相手だからね、いろいろ考えてしまうのも分かるけど」

「だから、いっこも気にしてへんって」


 例の大暴れの後も大学には通っていたものの、私からすれば周囲の視線が気になって仕方なかった。

 ネット上で少しバズると、あたかも自分が有名人になったと錯覚してしまう気持ちは理解できる。

 まして悪い意味で有名になったとなればなおさらだ。


 以前は正門前に立てられていた泉川ミカの講演会の看板は取り払われている。

 よほど漫画に詳しい人でもない限り、もはやそんな予定があったことさえ覚えていることもあるまい。


「ミカと言えば、前からすごく気になっていたんだけどさ」

「なんや」

「あめりが『百枚目の天使』を描かなかった理由って、何?」

「そうやな、三ヶ野原いずみと会うんやから、その前にあいつとのことを清算しておかんとな」


 ベンチは昼食を楽しむ学生たちで一杯だった。

 遅れてきた私たちがのんびりできそうな場所はなかなか見当たらない。


「ある日な、三ヶ野原がえらい朝からキレとったんや」

「あらためて言葉で聞くと、やっぱり信じられないとしか言えないよ」

「まあええ、座ってから話そうや」

「椅子、空いてないよ」

「芝生でええやろ」


 適当に腰を下ろすと、あめりはいつもの抹茶オレを口に運ぶ。

 湿り気のない草の絨毯は快適だった。

 どうしてこの感覚を、あめりとの初対面の際は感じられなかったんだろう。


「椅子やら机やら何度もひっくり返してな。みんなビビっとった」

「信じられないね、ずっと彼女と一緒のクラスだったのに」

「その日は遠足だったんやけど、連れてってええか先生も迷うぐらいでな」


 絵が好きな少女だった三ヶ野原いずみは、事故で負った外傷で性格が変わってしまった。

 だがこれはマイナスばかりではなかった。

 引っ込み思案で他人に自分の絵を見せようともしなかった彼女がマンガ家としてデビューできたのは、もしかしたら心境の変化のせいかもしれない。


「中学校なのに遠足とかあるんだ。どこへ行ったの」

「ここや。大阪国際語大学。近いし施設もええからな」

「じゃああめりは、わざわざ中学の時に遠足で来た大学に進学したんだ。なんで?」

「一つはは障がい者福祉に力を入れてること。もう一つは英語が好きなこと」


 あめりの手の中で、ペットボトルが潰れる音がした。


「そして、トラウマの克服なんや」


 あめりは常にスケッチブックを持参していた。

 新鮮な景色の元で、「最後の」天使を納得いく出来映えにするのが目的だったという。


「せっかくの百枚目やし、いつもと同じところで描いてもつまらんと思ったんや」


 光あふれるキャンパス内で、あめりは普段にまして快調に色鉛筆を走らせていた。

 次々と脳裏に浮かぶイメージに、単色だけではなく色を重ねたり、時には白い色鉛筆を効果的に加えたりと、自由自在に手が動いていた。


「今でも覚えとる。あん時は一度も描けたこともないぐらいの出来やった」


 だが運命はそこで暗転した。

 あめりの横に近づいてきたのが、三ヶ野原いずみだった。


「あいつ、大学に着いてからもずっとキレっぱなしでうっさいから無視してたんやけどな」


 風がひときわ強く吹いた。

 ちぎれた花弁が、花壇の方向からふわりと飛んでくる。

 あめりの表情にすっと陰が差した。


「三ヶ野原の奴、うちの描いた天使の絵を見て吐き捨てたんや」


 手にしたペットボトルが、地面に叩きつけられた。


「ヘタクソって……」


 あめりは肩を小さく震わせ、何度も鼻をすすった。


「それだけやない。永遠に絵なんて描くな、お前の絵見たらイライラするって、口汚くこき下ろしてきたんや」

「ごめん、ミカがそんなことを言うはずがないよ。間違いない」

「桃ちゃんの気持ちも分かる。だが残念やけど事実や」


 私と一緒に描いてたとき、明らかにミカの方が絵が上手だった。

 プロと素人ぐらいレベルが違っていた。


 でもミカは私に酷評したことなどない。

 幾度も絵を断念しかけた私を引き留めてくれたのは、むしろ彼女の方だった。


「どうしたらええか分からんくなってな、その場で色鉛筆を全部へし折ったんや」

「何もそこまでしなくても良かったのに」

「知ってたんやろな、本当は自分がヘタクソやって」


 あめりは見えない目で空を見上げ、少し鼻をすすった。


「上手いと錯覚することで、辛うじて自分を保っとったんや」


 子供のころは「好きだ」というだけで情熱的になれたことが、大人になると下らなく思えてくる。

 よくあることだし、私だってそうだ。

 ミカの絵を見た後でマンガを描くなんて、到底出来なかった。


「その日を境に、天使は降りてきてくれんくなった。色がまったく分からんくなった」

「今のあめりと同じ症状なのかな」

「まったく同じやな。自信がなくなると何も出来なくなるんや」


 あめりの持つ共感覚を支えているのは、強烈なまでの自負が引き起こす脳の機能異常である。

 だからメンタルにブレが生じると、容易にその感覚は失われてしまう。


「そこでカメラを教えてくれたんがお祖母やった。絵やなかったら色が見えるって気づいた時は嬉しかったで」

「お祖母ちゃん、あめりの写真をたくさん誉めてくれたんでしょ」

「うちは単純やさかいにな、誉められたらまた自信と一緒に色が戻るねん」


 苦笑いを浮かべながら、あめりは淡々と語り続けた。


「うちはな、このキャンパスのことをこう思ってる。『天使のお墓』やって」

「ずいぶんと中二臭い用語を使うね」

「うっさいな、うちがどう名付けようが勝手やろが」


 少し茶化しながらも、私はあめりの心情にも寄り添っていた。

 彼女にとっては、この大学は天使を描くことを断念した辛い記憶の地であり、それはまさに墓標であっただろう。


「せやから、桃ちゃんと出会ったときは『天使が生き返った』となったで。しかも同じ場所でな」


 初めての出会いの日、あめりの手を最初に握りしめたのは私だった。

 だが今日、先に手をつないできたのはあめりだった。


「なあ桃ちゃん、もう一度うちの天使になってくれへんか」

「今さら言うことじゃないよ。私はずっとあめりの天使でいるよ」


 私とあめりは、互いの存在証明をするのように髪を触りあう。

 二人にとって、これは見つめあうのと同じ行動だった。


「待って、誰か来たよ」


 サングラスにマスクという姿ではあったが、私にはすぐに分かった。

 少しほくそ笑んだ感じ、まぎれもなく泉川ミカだ。


「塩飽ちゃん、遅くなってごめん」

「ミカ、いつの間にここに来てたの」

「ごめん、実際は結構前に着いてた。君らのイチャイチャも見てた」


 照れくさそうに言葉を濁していたが、冗談じゃない。

 恥ずかしいのはこっちだ。


「ここは私にとっても嫌な思い出の場所だから、しばらく時間が欲しかったんだ。それにね」


 ミカは手にしていたスケッチブックを一枚破り、私に手渡した。


「割って入れない雰囲気だったから、絵描いてた」

「凄いね、何も見ないでこれを描いたんだ」

「なんか知らないけど、ここに来たら天使を描かないといけない気がしててね」


 ぼかしたようなタッチで描かれていたのは、まるでフレスコ画から飛び出してきたような天使の姿だった。

 天使が実在するはずがないのは承知の上だが、この絵からは生き生きとした質感を覚える。


「あれ、見なければ描けないんじゃなかった?」

「昔はその言葉に反発してた時期もあるよ。じゃあファンタジー作品なんて絶対に描けないだろって」


 ミカが影響を受けた作家、クールベは写実主義を提唱した人物だ。


「まして目が見えなくなった私なんて、もう何も描けないって思っちゃうよ」

「でも、どうして考え方を変えたの」

「固定観念からの脱却だね」


 少しサングラスをずらしたミカの、ほとんど機能を失った眼球が冷たくこちらを睨む。


「たとえ歪んだ景色でも、間違った色覚でも、私の目に映ったらそれはすべて『見たもの』なんだって」

「でもそれを描いたら、写実どころじゃないでしょ」

「慣れるまでは気持ち悪かった。ショックで何本も鉛筆をへし折ったし、何回も吐き気を催した。でもそのうち、歪んでいたはずの視界がクリアになった」


 失われた感覚を取り戻すために、ミカはどれほどの苦労をしたのだろう。

 手を動かし、残された目の機能をフルに使ううちに、昔以上に「写実的に」描く能力が蘇ったのだと言う。 


「私は描ける、自信を持てと何度も自分に言い聞かせた。だって私にはこれしかないからね」


 私は絵の天才ではないから、ミカの言葉を完璧に理解することはない。

 おそらくは絵を続けるための言い訳なのだろうというのは分かる。


「でもさ、現実に見なくても描ける人がいるのは衝撃だったよ。そこにいる有森あめりだね」

「ミカが、あめりを評価してるの」

「もちろん。私に出来ないことが出来るアーティストは、みんな天才だよ」


 この絵をあめりにも見せる、いや触らせるべきか迷っていた。

 申し訳ないが、デッサンから緻密なタッチから、あまりに圧倒的な画力だ。

 私でさえ嫉妬を覚えるほどなのだから、過去の件でトラウマを持つあめりには見せられなかった。


「桃ちゃん、三ヶ野原から絵をもらったんか。見してや」


 逡巡する私の気持ちを酌むことなく、あめりは私の手から画用紙を奪い取る。

 あめりの指先が天使の絵をなぞる。

 柔らかめの鉛筆で残された描線が滲む。

 もったいないと思ったが、あめりが絵を見るにはこうする他なかった。


 もはや元の描線が見えなくなるほどに黒く汚れた天使を見つめながら、ミカがあめりに対して言葉をかけた。

 白黒の鉛筆画を挟みながら、二人はフルカラーで描かれた絵画を見るかのように言葉を交わしていた。


「三ヶ野原さん、この前は本当にすまんかった。サイン会を台無しにしてもうた」


 不意に押し黙ったあめりが、恭しく頭を下げた。 


「あのせいでしばらくマンガを休載してるし、損害賠償ものだよ」

「何言うてんねん、あんたのせいでうちはインスタ消したんやで? 大人気アカウントやったのに」


 口論でも始まるような強い口調に、私は二人の間をあたふたとするばかりだった。

 普通の喧嘩でも見ていて共感性羞恥が出るのに、まして知人同士なんて最悪だ。


「あの日以来、私もまったく絵が描けなくなったよ。色が見えないという気持ち、今ならよく分かる」


 声が微妙に震えている。

 気丈にふるまってはいるが、違う。


「私、この大学が嫌いだったんだよね」

「どうして?」

「有森さんにかけた心無い言葉で、自分まで傷ついたのを思い出すから」


 訥々と胸の内を吐露するミカの言葉を、私はじっと聞いていた。

 自分の言葉に泣き叫ぶあめりを見ながら、ものすごい自己嫌悪に陥っていたことを。

 それまで拒んでいた薬物による治療も、二度と誰かを傷つけないために受け入れたことを。


「サイン会の件、私は怒っていない。むしろ責任は私にあるからね」


 ミカはあめりの方に顔を向けると、大きく頭を下げた。


「あの時は本当にごめん。こんなのでは許してもらえないかもしれないけど」


 直角に曲げられたミカの腰を見て、私はなぜか先日の靭公園での鷲見を思い出していた。

 ミカの気持ちが真剣であることは、十分に伝わってきた。

 だが、あめりは。


「なあ桃ちゃん、三ヶ野原は何をしてるんや」

「頭を深々と下げてる。やりすぎってぐらいに」

「へえ、うちは目ぇ見えんさかいに、頭下げられたところで分からへんのや」

 

 ミカは微動だにしなかった。

 あめりが謝罪を受け入れてくれるまで動かない、そんな想いさえ伝わってくる。


「なあ三ヶ野原、うちから一つだけ提案させてや」


 あめりは腕を組んで仁王立ちし、ミカに強い口調で問いかける。


「つつじ祭での講演会、受けたってや」

「ああ、鷲見が話をしてたやつだね。あれはうちの編集部が勝手に受けた話で、私は気乗りしてないよ」

「ほんまにうちに謝る気があるなら、OK出してんか」

「それが謝罪の代わりになるんだったら、喜んで受ける」


 思わず「本当?」と声が出た。

 ミカがイベント出演を承諾したことは、私にとっても良い知らせだった。

 弘原海先輩が実現に向けて心血を注ぐ姿を見ていただけに、朗報を伝えられることが嬉しかった。


「じゃあ次はこっちからの提案。この前のサイン会を台無しにした償いをしてもらうよ」


 せっかくまとまりかけた話が、再び蒸し返される。

 だが、その内容は私の予想とは異なっていた。


「私が講演会を受ける条件。それは有森あめりの個展を同時に開催すること」


 サングラス越しにあめりを見据えながら、ミカはすっと手を伸ばし、指を一本突き出した。


「無理や。写真の個展言うても、うちにはもう何も出すもんないで。写真は全部線路に放り投げてもうた」

「誰が写真の個展って言ったの」

「……違うんか」


 にべもなく返したあめりだが、ミカはまるで気にしていない様子だった。


「今度のつつじ祭で『TwinBirdsStrike』の原画展をやる予定なんだけど、塩飽ちゃんは知ってる?」

「いや、初めて聞いた」

「そこにもう一枚絵を飾ってほしいんだ。私がマンガ家になる契機を作ってくれた人、有森あめりの絵を」


 自分ではコントロールできないほどの感情により、あめりを傷つけた過去が心苦しかった。

 だから薬物療法を受け入れ、メンタルを制御することを覚え、プロデビューへと踏み出せた。

 ミカは確かにそう言った。


「私はあなたが復活するための場所を作る。だから講演会も受ける。それが自分にできるたった一つの償いだよ」


 ミカは私と、そしてあめりの手をぐっと握りしめた。

 ペンだこで少し硬くなった手のひらが、私たちの柔らかい皮膚に食い込んでくる。


「よかったねあめり、これですべてが上手く行きそうだよ」

「確かにな。予定が変わったわ」

「予定って、何のこと」

「実はな、今日ここに来た目的は三ヶ野原と会うためやないねん」


 あめりはカバンから一枚の茶封筒を取り出す。

 なぜかは分からないが、妙に見覚えがあった。


「うちの親がな、しばらく大学を休学せえ言うとるんや」

「なんで、せっかく一緒に通える友達が出来たってのに、嫌だよそんなの絶対に!」


 気が動転する私を、ミカが諫めた。


「なあ有森、休むなら休むで構わない。でも絵だけは描いてもらうよ」

「桃ちゃんもやけど、なんでみんなうちの絵にこだわるんや」

「あんたは、私が唯一認める画力の持ち主だからだよ」


 ミカの絵は、緻密かつ大胆な構図と繊細なタッチで各界から絶賛されている。

 対するあめりの描く絵画は足元にも及ばないどころか、正直誉めどころが分からない。

 それでも、ミカは真剣な目であめりの画才を評価した。


「あんたが復活しないと、私も復活できない。筆をへし折ったままでは夢見が悪いよ」

「うちはもうメンタルが豆腐やし、しばらく休まなアカンし、そう思っとった」


 弱々しい言葉が漏れかける。

 だが、その刹那。

 あめりがすっと前を向き、ミカに思い切り顔を近づけた。


「でもな、今のうちには桃ちゃんがおる。これまでとは違う」


 ブドウ色の瞳が、陽光を映してぱっと輝いた。


「だからな、こんなもんもいらん」


 手にした茶封筒を、あめりは勢いよく引き裂いた。

 休学届の書類が真っ二つになり、はらはらと舞う。


「本当にいいの、親に怒られたりしない?」

「もう一度やったる。新しい天使と一緒に、また絵を描いたるわ」


 あめりは私の両頬に手をやり、大きく首をタテに振る。


「復活だね。もうここは天使の墓標なんかじゃないよ」

「見てるとええ、蘇った有森あめりは最強やで」


 その力強い声に、ミカも思わず拍手を送っていた。 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る