第17話 よみがえれ
ゴールデンウィークも終わり、あめりはようやく正式に退院した。
やはり彼女がいるといないとでは、まるで家の中の潤いが違う。
とはいえご両親もしばらくは汐ノ宮から通ってくれるそうで、まだまだ本調子ではないのだろう。
「桃ちゃん、買い物行かへんか」
「近くのスーパー?」
「ちゃう、梅田や。今日はもっとええもん売っとる店に行こうや」
有森家がある近辺も昔からの住宅が並ぶ場所だが、高級店となると梅田だ。
「三葉先輩のスマホ持っていかへん? 動画撮りたい」
「ダメだよ。もう充電切れちゃったし、それに店内で撮影したら怒られるよ」
「そうなんか」
弘原海先輩に頼まれていた動画制作は完全にストップしていたが、あめりがこうしてやる気を取り戻しつつあるのは素直に嬉しい。
あめりは大学の講義こそ辛うじて出席しているものの、カメラはストックも含めてすべて捨て、以前の生活は失われた。
残っていたアルバムは気が付かないうちにゴミに出されていた。
インスタグラマーGrapeCandyの痕跡は、もはや私が撮影した映像の中にしかない。
おそらく学祭での企画は立ち消えとなるのだろう。
「やっぱ高級なスーパーやな、匂いがちゃう」
「……犬みたいにクンクンするの、恥ずかしいからやめてくれる」
「薬飲んどるさかいに前ほど色は見えてこんけど、鼻は元気や。どっかのおばちゃんの香水の匂いも分かるで」
「趣味の悪いことしないでよ」
梅田のスーパーに入った途端、あめりが声を弾ませた。
いつもなら物が高すぎて敬遠するところだが、おそらくは親からお金ももらっているのだろう、何の躊躇もなく店内に入っていく。
「よっしゃ、今日買いたかったんはクロテッドクリームとか言うやつ」
「普通の生クリームと違うの?」
「ぜんぜん。乳脂肪分の量が段違いや、これはどんなパンにも合うで」
「そっか、実家からパンをもらってたよね」
あめりは退院後も病院で処方された薬を一日三回飲み続けている。
脳内物質の過剰な分泌を抑えるため、昔よりはおとなしくなっているものの、こと食べることについては以前より活発になった気がする。
ストレスを食欲で制圧しているかもしれないので、肥満には注意しないと。
「今朝もらったパンがスコーンだったし、食べるならクロテッドがないとアカンて思ったんや」
「果物もたくさん買ったね」
「せっかくやからフルーツサンドみたいな味付けもええな、と思って」
今までのあめりであれば、おそらくフルーツをべたべたと触って「この色がどうこう」と叫びながら買っただろう。
だが今日の彼女は匂いや名前だけで判断し、選ぶのは私に任せていた。
化粧も以前ほど気合の入ったものではない。
洗顔だけは丁寧にするが、下地を軽く塗って終わらせる程度の簡単なものだった。
「さあフルーツサンド作るで。お腹ぺっこぺこやねん」
「でもスコーンだと小さいから、あまり挟むところないよ」
「ええねん、ちょっと入るぐらいで。はよ作ろうや」
帰宅して早々、あめりの食欲が早くも暴走しかけている。
イチゴやオレンジやキウイなどを、あめりが包丁で器用に刻んでいく。
あめりは目が見えないのは確かだが、生活は驚くほどに自活している。
料理だって当たり前のようにに可能だ。
視覚障がい者用の調理器具があり、肉や野菜、それに小さな果物も安全に切ることができる。
「おー、めっちゃいい感じやんか」
「自分、家では全然料理とか手伝わなかったから、なんか感動する」
「紅茶でも淹れよう、お祖母がむかーし買うてきたのがあんねん」
「……それ、賞味期限とか大丈夫なの?」
「熱湯で消毒するから平気や」
「ごめん、絶対に違うと思う」
フルーツサンドならぬフルーツスコーンを食べ終わり、二人は満足感に包まれた。
だが私の中にどうしようもない違和感が残った。
あめりは色について何ら言及しなかった。
以前なら五感の全てを超越する地位に「色覚」が存在した。
それこそがあめりのアイデンティであり、またレゾンデートルでもあった。
投薬、さらには精神的なショックの影響がこうも彼女を変えてしまったことに、私は心のもやもやを払しょくできなかった。
「アカン、朝から梅田なんて行ったから眠うてたまらんわ」
「いいよ、昼寝でもしてれば」
「悪い、爆睡しとるようなら起こしてや」
血色のいい、悪く言えば以前よりふっくらした顔で眠るあめりの上には、ぐるりと囲むように何枚もの写真があった。
常に色に包まれていたい、いつも新鮮な気持ちでいたい。そんな思いで飾られた絵たち。
まるで主を失ってしまったように悲し気に見えた。
気が乗らないので、私も昼寝をすることに決めた。
洗面所に向かい、あめりがやらなくなってしまった保湿もしっかりと行う。
彼女が「下地やったらこのクリームがお勧めやで」と教えてくれたのを、たっぷりと擦り込む。
バレないからいいやと思って今朝はサボってたのは、あめりには内緒だ。
昔の私は、どうして基礎的なケアさえ面倒がっていたのだろう。
しかし保湿の重要性を説いたあめり自身が、すでにメイクを必要としなくなっていた。
私も眠い。
まだ外は明るいというのに、布団に潜った瞬間に寝落ちしてしまいそうだ。
だがそんな眠気はあっという前に吹き飛ばされる。
地面から唸り声のような響きを聞いた。
ここは大阪の中心部、行きかう自動車も多い。どうせそれだと思った。
枕元に置かれたiPhoneが、けたたましくバイブレーションする。
「地震です。地震です。地震です……!」
緊急地震速報だ。
ほとんど地震のない岡山では、こんな警報なんて鳴らない。初耳だ。
「あめり!」
身体が自然と動いた。
大声で叫んだ。
突然の大音響で激しく鼓動する心臓も、背中を伝う冷や汗もどうでもいい。
あめりだ、今はあめりを護らないといけない。
何度も家の柱にぶつかりながらも、あめりの部屋を目指して懸命に走る。
地震の初期微動、縦揺れが私の体躯を足元から貫く。強い。
「桃ちゃん、なんや、なんや?」
「あめりーっ!」
激しく揺すられる家の中を、一切のためらいもなく私は駆け抜け、あめりの元へ向かう。
そのまま両手で彼女を組み伏せる。
抱き合ったままの二人が、強い横揺れで一瞬だけ浮いた。
「揺れとる、揺れとる、怖い、怖い!」
「離さないで、私にしっかり捕まっていて!」
家全体がぐるぐると、風車のように回る。
物が少ないあめりの部屋だが、それでも服をかけているハンガーなどが倒れてくる。
台所からは激しく食器が落下し、砕ける音がする。
「……あいたっ!」
「桃ちゃん、大丈夫か!」
「後頭部やけど、ヤバいところやないから、平気……」
「その声は平気そうじゃないよ、血が出てるかもしれないから、後で見せて」
あめりに覆い被さった私の身体に、落下物が次々と襲い掛かる。
背骨を突き抜ける強烈な痛み、一瞬視界がブラックアウトする。
ガラスの割れる音が、すごく近くから聞こえた。
「これ何や、何が落ちとるんか」
「もしかして、上に飾っている写真かも……!」
取り付けが緩かったのか、次々と額縁が落下する。
守らないといけない。
あめりの身体を守ってあげられるのは、私しかいないんだ。
「なあ、そろそろ揺れが収まったやろか」
「多分ね。まだあめりはここから動かないで。ガラスの破片だらけだと思う」
閉じていた目を、恐る恐る開いた。
室内は爆撃でもされたかのような惨状だった。
あめりの頭部を触ると、かすかに血が滲んでいる。だが幸い重傷ではないようだ。
「スコーン食べきっといてよかったな。クロテッドクリームも残ってへんし」
「まず食べ物の話か。しかし酷いね、上に飾ってた写真が全部落ちてきてる」
「しゃーないやろ。もうそんなんいらんし」
「そういうこと言わないの。残してくれたお祖母ちゃんに悪いでしょ」
「……せやな」
大きな破片だけを手で拾い集めた後、掃除機で細かい部分まできれいにする。
いくらあめりの生活力が高いとはいえ、災害時にはどうしても不利だ。
だからこそ自分がサポートしないといけないと思う。
「すまんな桃ちゃん、うちの部屋の掃除までさせてしもうて」
「仕方ないよ、こういう時は目が見えないと厳しいから」
問題なのは写真だ。
せっかく生き残っていたのもいくつか折れ曲がってしまい、無残な姿を晒している。
「ねえあめり、落ちてきた写真だけど、どうする?」
「割れたやつはしゃーないから、適当にほかしといてや」
「ダメだよ、どれもお祖母ちゃんが大切にしてたものでしょ、例えばこれだって……」
違う、と感じた。
私の手が触れたのは、明らかに印画紙の手触りではなかった。
それは間違いなく画用紙だった。
まさかと思って紙を表側へめくった。
稚拙だが鮮やかな筆致で描かれた、白い羽根を背中に生やした天使の姿があった。
「あめり、この天使の絵、どこに飾ってたの」
「天使の絵やて……?」
あめりは私の手から画用紙を奪い取ると、色鉛筆の筆跡に指先を滑らせる。
丹念に自らの足跡を追うように、ほんの僅かな
いや、眺めていると言った方が良かった。
「懐かしいわ、まだ残ってたんやな。全部ビリビリにしてもうたはずやのに」
絵の裏側には、万年筆による達者な文字で記された文章があった。
『あめりの天使の絵、三十五枚目。学校で嫌なことがあったのかな? お祖母ちゃんはもう少し明るい色の天使さんが好きです』
無残な姿となった額縁の中から、私は写真と一緒に画用紙を救出していく。
すべての絵の裏側には、祖母からの感想が記載されていた。
『あめりの天使の絵、十枚目。今日は少し変わった角度で描いています。これだけ色々に描けるあめりはやっぱり絵画の天才だね』
優しく勇気づけるようなメッセージは点字ではないので、あめりが直接読むことはできない。
だがあめりは紙に彫り込まれたその筆致すら愛おしそうに指先で探り、少しでも祖母の気配を感じ取ろうとしていた。
「この天使の背景、ペールブルーやな。めっちゃ爽やかで最高やな」
私は耳を疑った。
色を失ったと言っていたはずのあめりが、背景色に言及していた。
「うちこの色が大好きやってん、これだけすぐにチビてしまうんや」
「待って、色が見えなくなったんじゃないの」
「お祖母に連れられて梅田の大きな文房具屋さんへ行ってな、バラ売りで買ってもろうた。色鉛筆がバラで買えるなんて知らんかったで」
祖母について語るときのあめりは、いつも笑っていた。
子供のころから一緒に暮らしていたこともあり、下手すれば両親よりも思い出が強く残っているのだろう。
「なんでやろ、どうしてそんな大事な色鉛筆、ぜんぶ折ってしもうたんやろな……」
涙で濡れてしまわぬよう、私は絵の上にタオルを被せた。
ミカに手厳しい言葉をかけられたことで、あめりは絵を描くことをやめたと聞いた。
彼女にとっては、近くに自分の作品があることさえ不快だっただろう。
「でも感謝しないといけないよ。こうして何枚も残してくれたんだから」
「確かに、そうかもしれん」
「そうだよ。あめりが絵を描けなくなったけど、ちゃんと大切に保存していたんだから」
あめりの両親が経営するパン屋にも、たくさんのあめりの絵が飾られていたのを思い出す。
親としては子供の努力の結晶を捨てるのが忍びなかったのだろう。
「で、なんで色が見えるようになったの」
「絵が落ちてきて頭を打ったせいかもしれんな、たぶんお祖母が『メソメソしたらアカン』って言うてくれたんや」
「そうだね、きっとお祖母ちゃんも心配してくれたんだよ」
「でもお祖母もやることキツいわ、頭から血出るほどどつかんくてええやん」
ぐちゃぐちゃの部屋の中、二人で思い切り笑いあった。
明るさを取り戻したあめりの姿が、この瞬間の私にとって最大の救いだった。
「あめり、私は思うんだけどさ」
「……なんや」
「本当に絵をやめて良かったと思ってる? 本当に写真の個展をやる気ある?」
「もうわからん。全部どうでもええ」
あめりの両肩を思い切りつかんだ。
「絵から逃げてたんだよ、あめりは。泉川ミカがなんだってんだよ」
「あいつは絵の天才だし、自分はバカにされるだけの才能しかないし……」
「絵の才能がないやつが、あんな天使の絵を描けるか。少なくとも私には無理だね!」
あめりは言い訳しているだけだ、と確信していた。
たくさんの写真を見せてもらったけど、今ここにある一枚の天使の絵にも勝てていない。
絶対に。
「絵、描いてもええんやろか」
「当たり前でしょ、あめりが絵を描かなかったら、私なんて一生何もできないよ、それぐらいの才能なんだよ」
彼女の本当の気持ちは未だに絵の世界にこそある、間違いないと思った。
ピンポーン――
いきなりの呼び鈴。
おそらく地震の被害を心配した近所の人が、あめりの様子を見に来たのだろう。
「はい、今行きます!」
足元に注意しつつ、私は玄関へと急ぐ。
開き戸の向こうにいたのは、息を切らせて駆け込んできた弘原海先輩だった。
「有森さん、塩飽さん、怪我はない?」
「なんで靭になんているんですか」
「あなたたちが心配だったというのもあるけど、それよりこれを見て」
先輩が手にしたスマホの画面には、鷲見からのLINEが映し出されている。
メッセージにはこう記載されていた。
『泉川ミカが有森と話をしたがっている。会わせてもいいか聞いてくれ』
「どうしてあいつが、先輩にこんなのを送ってきたんですかね」
「塩飽さんに直接聞きたかったんだろうけど、そうもいかないだろうしね」
先日のサイン会での事件は、あめりが意味もなく暴れた訳ではない。
彼女からすれば自分から絵を取り上げた張本人に対する怒りの発露でもあった。
この場合、ミカはあくまで被害者という立場だ。
いかなる理由であめりとの面会を望んできたのか、私には分からない。
「なんや、三葉先輩か。なんでいきなりうちに来とるん」
「あめり、すごく言いづらい要件なんだけど、泉川ミカがあなたに話があるんだって」
ミカから送ってきた文章には、こう書かれていた。
大阪国際語大学のキャンパスで、もう一度話がしたい、と。
「どうしてうちの大学を指定するんだろう。それに『もう一度』ってどういう意味かな」
だがあめりは「なるほど」と呟き、申し出を快諾した。
「桃ちゃんも一緒やったら行くで。うちも大学構内で話したいことがあるねん」
「無理はしなくていいよ」
「ええ、なんか知らんけど色も見えるようになってきたし、これはこれで話をつけるチャンスや」
あめりが不適に笑ったのを、初めて見た。
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