第16話 一人でおっても何も見えんから

 雨降る御堂筋を、私と弘原海先輩、そして鷲見が走っていく。

 周囲の景色に目をやる余裕などない。

 もしかしたらどこかで白杖の音がしないか、耳にも意識を向ける。

 コンビニで買ったビニール傘が、南から吹き抜ける強い風にあおられる。


「さっきのインスタの写真、戎橋だったよな」

「ヨアヒムって人、いつもあの辺りで似顔絵を描いてるんだよ」

「なるほど、知り合いがいる場所へ向かったのか」


 私はあめりに裏切られた気分だった。

 誰かと話をしたいのなら、どうして私のところへ真っ先に来てくれなかったのか。


 この前もそうだった。

 鷲見とは二度と関わらないと言ったはずなのに、約束は瞬時に破られた。

 悔しい気持ちがないと言えば嘘になる。

 だが今は、そんなことを考えている場合ではない。


「もうすぐグリコの看板のところだよ。しっかり探して」

「さっきの写真だとピンクのジャージ姿だったから、いたらすぐ分かるはずだ」


 あめりに会いたい。

 雨で濡れた彼女の身体を拭いてあげたい。

 些細な確執など、もはやどうでもよかった。


「ねえ塩飽さん、あれ、もしかして」

「あめりだ、間違いないよ」


 私は自分の目が信じられなかった。

 激しく戎橋を叩きつけるような雨の中、両手を広げたまま虚空に向かって叫ぶ女性を見た。


「みんな、うちとハグしてや、フリーハグやねん!」


 橋の中央から響く頓狂な声は、無観客の舞台で踊るピエロのように誰にも届かない。

 ゴールデンウィークで多くの観光客がいるはずなのに、一人として立ち止まらない、一瞥だにしない。

 あまりにも悲しい光景がそこにあった。


「タダやねんで、カネかからへんで、遠慮せんといて!」


 すっかり雨と土で汚れ切った蛍光ピンクのジャージが映る。

 前髪からは止め処なく雨水が滴っていた。

 ブドウ色の瞳は、髪の毛に隠れてまったく見えなくなっていた。


「あめりだ、いったい何をしてるの」

「FREE HUGと書いたボードを持っているな」


 あまりにも惨めだった。

 周囲の人たちは気持ち悪そうに、遠巻きに眺めているだけだ。

 時々来るお調子者の外国人だって、目に憐みが宿っている。

  

「なんや、みんな遠慮しいやなぁ、フリーやで、I’m free!」


 何がアイムフリーだ。

 痛々しいよ。見ていられないよ。バカみたいだよ。

 誰も相手にしてくれないのは、気持ちが悪いからだよ、分からないの。


 どす黒い雨雲に向かい、あめりは踊るように大きく両手を広げた。

 容赦なく顔を打ち付ける雨粒が、完全にすっぴんの彼女の肌を洗う。


「やめてよあめり、そんなことをしても、色なんて降りてこないよ」


 この前とは違う。

 笑顔がひきつっている。

 GrapeCandyの名の由来となったその紫色の瞳は、まるで泣いているかのようだ。


「ねえ塩飽さん、有森さんはいったい何をやってるの」

「踊っているんです。この前もそうでした。ああすると色が全身を駆け巡るんだとか」

「この雨だよ、色が見えるようになる前に肺炎を起こすから!」


 助けに行きたい。

 それなのに、あの衆目に飛び込んでいく勇気が、なぜか湧いてこない。

 さらに雨音が強くなる中、私はアーケード下で足がすくんでいた。


「なんや姉ちゃん、こんなところおったら風邪ひくで」

「俺らと一緒にあったかいとこ行こうや、案内するわ」


 背の高い男性二人組があめりに迫る。

 ガラの悪そうな外見、馴れ馴れしい態度、悪意を持っていることは一目瞭然だった。


「ほんまか、うち現金持ってへんで」

「ええねん、金ぐらい俺らが払うわ。せやから早よ行こ」


 男たちは無理やりにあめりの手を握った。

 もう間に合わない。

 意味もなく現実から視線を逸らす。


「塩飽、本当は有森を助けに行きたいんだろう」


 突然私の方が叩かれた。

 話しかけてきたのは鷲見だった。


「もちろんだよ、でも……」

「俺に任せろ。修学旅行の時も班行動を離れて他校とケンカしてたぐらいだからな」

「自慢にならないよ、そんなの」

「有森は必ず俺が助け出す、三葉と塩飽はここで待ってろ」


 フットサル用の靴が奏でる足音が、猛然と戎橋へ向けて響く。

 恐怖におびえる私の意を酌んだかのように、鷲見があめりを助けに向かっていた。


「お前ら、有森から手を放せ!」


 大柄な男たちの前に立ちはだかり、鷲見が両手を広げた。

 そのまま強引にあめりの手首をつかみ、男たちから引きはがす。

 きゃっと小さな声がし、あめりがバランスを崩した。


「行くよ、塩飽さん」


 傘を差すのもまだるっこしいとばかりに、弘原海先輩が橋の中央へと向かう。

 リクルートスーツが強い雨に打たれ、その色合いをさらに暗くする。


「三葉、有森を頼む!」

「任せて!」

「ここは俺が食い止める、屋根の下へ戻れ!」


 阿吽の呼吸とばかりに、先輩があめりを確保する。

 びしょびしょに濡れたからだが小さく震えている。

 誰の目をも気にすることなく、私は彼女の冷たい身体を強く抱きしめた。

 だが橋の上での出来事は、まだ終わる気配を見せなかった。


「先輩、鷲見が!」


 黄緑に光る髪の男が、鷲見へ一撃を叩きこむのが見えた。

 ぐらりと体勢を崩したところへ、もう一人が蹴りつける。


「ダメ、逃げて!」


 鷲見の握りしめた拳がわなわなと震えていた。

 やられたらやり返したい、彼の怒りに満ちた目はまるで不良時代すら想起させた。


「喧嘩はしないって約束したよね、今すぐそこから逃げて、お願い!」


 弘原海先輩の悲痛な声は、戎橋にいる誰にも届くことはない。

 二人に囲まれた鷲見は、絶え間なく襲い掛かる暴力に晒されていた。

 遠巻きに眺めるだけで何もしない周囲の人間たちが、ひどく無責任に思えた。


「三葉、もう昔の俺じゃねえ、反撃なんてしねえからな」

「それは分かる、でも、逃げて!」


 鼻血を噴出しながら、鷲見が雨空に叫ぶ。

 その時だった。

 アーケードの人ごみをかき分け、私たちのもとへ一直線に駆け込む足音が聞こえた。


「アメリ、なんでこんなにビショビショなの」

「ヨアヒム!」

「さっきまで一緒だったネ、でもこんな雨の中、何してたのヨ!」


 襟元の伸びたシャツにダメージだらけのジーンズ履きのヨアヒムが、息を切らせて駆け付けた。


「お願いヨアヒム、助けて、あそこで殴られてる人、友達なんです」

「ワカッタよ、任せてネ。こう見えても元はイスラエルの軍人なのヨ」

 

 私はとっさに嘘をついてしまった。

 鷲見は絶対に友達なんかじゃないというのに、どうして。


「塩飽さん、ありがとう」

「何のお礼ですか、先輩」

「鷲見くんのことを、友達と呼んでくれたことだよ」


 さすがは元軍人、あっという間に鷲見を暴漢たちから解放し、相手の身体をすばやく抑えつける。

 誰かが呼んでくれたのか、遅れて到着した警察官たちが一斉に橋の中央へと向かう。


「塩飽さん、早く逃げよう。このままだと鷲見くんまで警察に聴取されちゃうから」

「わかりました」


 私はあめりの軽い身体を抱きかかえたまま、人いきれの中へ割って入るように走る。

 テナント募集中の看板が立てられた空間へと飛び込むと、私たちはようやく大きく息をついた。


「鷲見くん、怪我は大丈夫? 鼻の骨とか折れてない?」

「昔のヤンキー時代だったら、あの程度は一人で片づけられたんだがな」

「武勇伝なんてどうでもいいよ、もう不良はやめたんでしょ」

「そうだったな、悪りい、心配かけちまった」


 青黒く変色した皮膚、夥しい鼻血で染まり、ところどころ破れた服。

 すべてはあめりを護るためだった。


「桃ちゃんか、この声は」

「ねえあめり、なんでフリーハグなんてしてたの」

「辛かったんや、白黒の世界が」


 あめりは私たちと違って直接網膜から色を読み取ることができない。

 体全体で受けた気配、空気、視覚以外の感覚が色に変換される、共感覚の持ち主だ。


「だからって、こんな雨の中で傘も差さずにいたら風邪引くよ」

「ええねん、色が見えんくなったら、うちは死んだほうがマシや」


 先日、二人で道頓堀を訪れた時。

 私の手を握りしめながら、あめりは語ってくれた。

 空から大量の色が降ってくると。

 世界に色があふれ出すと。


「もしかして、ここなら色が戻るって思ったのかな」

「色が見えへんと、桃ちゃんを元気にすることもでけへん」

「いいんだよそんなこと、私はあめりが無事だったら何でもいいんだよ」


 黙ったままのあめりは、しゃっくりでもするように何度も喉をひくつかせた。


「一人でおっても何も見えんから、誰かとハグすればええかもって思ったんや」

「フリーハグなんかじゃ無理だよ。私じゃないと色は見えないよ」


 あは、と嗚咽と苦笑が混じった変な笑い声が、まさにあふれるようにあめりの口からこぼれた。


「せやったな。桃ちゃんはうちの天使やった」

「忘れてたんだ、そんな重要なこと」

「忘れるんやな、ほんまに大切なことやったのにな、うち何をやってたんやろな……」


 ぽろぽろと涙をこぼしながら、あめりの身体が私の胸元に沈み込んでいく。

 何度も手術を受けてきたブドウ色の目が実に頼りなく、同時に愛おしかった。


「鷲見くん、怪我は大丈夫」


 ドラッグストアで傷薬や絆創膏を買ってきた弘原海先輩が、心配そうに駆け寄った。


「無理したらダメだよ、もう喧嘩はしないって約束したんだから」

「こういう場合は別だろ。やらないとやり返されるんだから」

「大人はやり返したりしないの、危なくなったら逃げる、それでいいんだから」


 強面の鷲見を平然とあしらう先輩の姿は頼もしくもあり、同時にモヤモヤさせるものでもあった。

 それはあいつへの嫉妬だったかもしれない。

 中学時代の一件以降、陰キャとして鬱々とした人生を強いられてきた私とはあまりに対照的な鷲見のムーヴが、少しだけ腹立たしかった。


「うち、桃ちゃんに謝っとかなアカンことがあるんや」

「……あのことでしょ」

「そうや、鷲見っちともう会わんって言うたことや」


 あめりは申し訳なさそうに下を向いたままだった。


「大学の教室でピシャリと言うたったの、あれフリだけやねん」

「『もう近づかんといて』って突き放してくれたことが?」

「あんとき、鷲見にブレイルメイトを渡したやろ」

「見た覚えがあるよ。あれ、何て書いていたの」

「『ウソ』や。そう点字で書いてたんや」


 なんで、以外の言葉はなかった。

 私はあめりの真剣さを信じたし、きっぱりと断る姿が頼もしかった。

 でもそれは虚構で、心からの言葉ではなかった。


「鷲見っちにはな、大学入ったばかりのころから色々と助けてもらってたんや」

「それは分かる。でも、私に嘘をついたのは許せないよ」


 あめりにとっては私だけでなく、鷲見との付き合いも重要だ。

 二人の間で板挟みになり、どちらにもいい顔をしないとならないのも理解可能だ。

 理屈では分かる。

 だが、感情が許さない。


「……すまん。うちもどうしていいか分からんかったんや」

「ホテルで約束してくれたのも、本心じゃなかったの」

「本心や、桃ちゃんを守りたいのはホンマやで。でも、鷲見っちのサポートがなければ、うちは大学で勉強することもでけへんのや」


 言葉に詰まったあめりと私の間に、鷲見が割って入った。


「ここで言うべきか分からないんだけどさ」

「何、今はあめりと話をしているんだけど」

「塩飽、お前は俺のせいで三ヶ野原が転校したとか思っているのか」

「そうだよ、それが何かおかしいの」


 鷲見が呆れたようなため息を吐き捨て、わざとらしく肩をすくめる。


「あの件だったら悪かったのは俺だ、親父にも思い切り殴られたしな」

「当然だね、いいお父さんだこと」

「でも大阪へ転校したのは、三ヶ野原自身が望んだことだ。退学になったとうわさを流したのも、あいつ自身だ」


 私の記憶と違う。

 ミカは暴力事件の責任を取って退学になった、みんながそう噂していたはずだ。


「ずいぶん下手なウソつくね。でもだったら私にも理由を言ってくれたはずだよ」

「あいつは頭を打って人格が変わっただろ。その姿をお前に見せたくなかったんだよ」

「へえ、ミカがそんな風に言ってたとでも?」

「感情の制御が利かない、自分でもどうしようもないから、大阪の医者に治してもらうってな。事実だ」


 ミカは切りつけの罰として退学処分を受けた、その原因は鷲見にあった。

 だから鷲見は私の敵であり、同時にミカの敵だ。

 奴の話が本当だとすれば、ストーリーの根幹をなす部分が、実は違っていたということになる。


「つまり、ミカは今の自分を見せたくなかったから転校したということ?」

「マンガ家デビューして一番うれしかったのが、ようやくお前に堂々と会えるようになったことらしいぜ」

「……そんなことまで言ってたの」

「作品のタイトルもお前をイメージしたんだとよ」


 泉川ミカの『TwinBirdsStrike』は、教護院で出会った二人の少年の物語だ。

 事故で家族と希望を失った彼らが、「たとえ小さな鳥であっても、二人揃えば巨大な飛行機さえも落とせる」と裏の世界で生きていくストーリー。


「どんなに落ちぶれた環境でも、二人いれば必ず立ちあがれる。そういう意味なんだとよ」


 主人公二人に託された思いが、まさか私とミカに関係していたとは初耳だった。


「LINEとかでは話してたけど、そっか、確かに住所とか知らせてくれなかったしね」

「お前が大阪国際語大学うちに受かったと聞いた時は複雑だったらしいけどな。いきなり近くまで来ちゃったなって」

「そうか、ミカはそんなことを話していたんだ」


 全身の力が抜けていく。

 今まで何年間も私の中で燻り、心と体を束縛し続けていた原因が、誤解からくるものだった。


「でも、私はミカと違って完全にあんたを許したわけじゃないからね」

「分かっている。お前は三ヶ野原とは違うからな」


 ふと周囲を見回した。

 雑踏の中を、多くの警察官が走っていくのが見えた。

 さっきの騒動を受けて出動したのだろうか。


「ねえ、話の途中で悪いんだけど、そろそろここを離れた方がいいと思う」

「そうだな、警察が俺たちに事情を聴きに来られても困るしな」

「特に鷲見くんはヤバいよ、こんな顔だから真っ先に事情聴取されるはず」


 私たちはアーケードを走り抜け、御堂筋方面へと再び向かう。


「なあ桃ちゃん、うちが嘘をついたこと、ホンマに申し訳ないわ」

「今すぐに許す気はないよ。でも、終わったことは仕方がないよ」

「すまん、うちにも事情があったんや」

「もういい、元はと言えば私の思い込みが原因だったかもしれないんだから」


 中学時代の一件で、私の中で鷲見に対する恨みが蓄積されていたのは事実だ。

 そのことを後悔したり反省したりするつもりはない。

 だがもしかして、行きすぎた部分もあったのではなかろうか。

 それによってあめりを板挟み状態に追い込み、苦悩させたのではないだろうか。


 謝るべきなのは、私の方かもしれなかった。

 降り続く雨は止む気配を見せなかった。

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